恋を失ったバレンタインデー

玖珂李奈

バレンタインデーまでもう少し

 日曜朝の十時。四歳の息子にカラフルヒーローとお面ライダーを強制的に見させられた後、テレビを消そうとした。

 リモコンを持つ手が止まる。


 赤色で統一されたテレビ画面の中では、アイドルたちが「手作りチョコ」を作っている。チョコレートメーカーのCMだ。

 そこにいるアイドルは、本格的な初恋をしそうな年齢の子と、結婚を考えそうな年齢の子。満面の笑みでボウルの中身をかき混ぜ、好きな人に思いを馳せている。


「そういえばもうすぐバレンタインデーよねえ」


 私はソファに並んで座っているパートナー君に声をかけた。彼は新聞から顔も上げずに「うん」と言った。


「バレンタインデーに、何欲しい?」

「別に何も」

「じゃあさあ、夕食にちょっと凝ったもの作るよ。何食べたい?」

「うーん」


 そこで彼は初めて新聞から顔を離し、真剣な顔でしばらく考えた後、答えた。


「から揚げ」

「……凝ってないじゃん。全然凝ってないじゃん。そりゃ油の後始末面倒だから普段は揚げ物あんまりしないよ? だけどさそういう事じゃなくって」

「あとメンチカツ」

「から揚げとメンチ!?」

「あとエビフライ」

「うちの換気扇とコンロに喧嘩売っているの!? ベッタベタじゃない」

「あ、じゃあ豚の生姜焼きは?」

「……あのさ、この間の人間ドックでいっぱい引っかかったでしょ。分かってんの? パパもう四十一なんだよ? 元祖天才な着物少年のパパと同い年なんだよ? そんなのばっかり食べたがっていたらあとあと大変だよ? まだケンタ四歳なんだからね?」


 私より十一歳年上の彼は、年齢を全く感じさせない。いや、正確に言うと外見は年齢相応だが、食の好みが高校生から全く変化していない。

 だめだこりゃ。私は彼に問う事をあきらめて、お面ライダーベルトを組み立てている息子、ケンタに聞いてみる。


「ケンタ、バレンタインデーって知っている?」

「しってるー。アカリちゃんねー、レンくんにチョコあげるんだってー」


 あれ? アカリちゃんって、前にケンタの事が好きだって言っていなかったか。ケンタ、あなた自分がひっそりふられていることに気づいていないのか。

 まあいいや。私は質問を続けた。


「バレンタインデーにね、パパとケンタにごちそう作ってあげる。何食べたい? 何でもいいよ」

「さばのみりんぼし!」

「え……」

「さといものにっころがし!」

「ごちそう、だよ……?」

「ぶりだいこん!」

「血圧の高いジイさんかっ!」


 誰に似たのかは知らないが、ケンタの食の好みは異様に渋い。白飯大好き、醤油大好きで、ハンバーグやカレー、シチューの日は露骨に嫌そうな顔をしていつまでたっても食べ終わらない。


「バレンタインデーにさ、ママ、チョコのケーキ作っちゃおうか」

「ケーキ? まんなかにお面ライダーのおもちゃがのっているやつ?」

「あれは高いか……あれはケンタのお誕生日にしか売っていないんだよ。だからママが作ったケーキ」

「おもちゃないならいらない」


 ケンタはもともとケーキもチョコもさほど好きではなく、醤油せんべいやみたらし団子の方が好きなのだ。


 しかし困った。バレンタインデーだというのに、どいつもこいつも全然盛り上がっていない。私の愛情が一人で空回りしているではないか。



「ケンタ、公園行くか」

「いくー!」


 パートナー君は読み終えた新聞をたたんで立ち上がった。彼がケンタとまとまった時間遊べるのは日曜日しかない。だからケンタは日曜日をずっと楽しみにしているのだ。


 お面ライダーのベルトを片付け、パートナー君の周りを、今一つ微妙なフォームのスキップでくるくる回る。謎の節をつけながら、満面の笑みで歌う。


「ぱっぱと♪ こっうえん♪ いっくよ♪」


 ……うおおぉぉぉぅ!!

 かぁわいいよおおぅぅぅ!!

 きゅーーんと来た、きゅーーん!!


 ケンタには毎日何度も「きゅん」としている。だって仕方がないのだ。世界一のイケメン(当社調べ)が繰り出すしぐさの数々は、破壊的なかわいさなのだ。

 かわいいのは今一瞬だけ、そのうち野太い声になって、あっちこっちから毛が生えて、私より大きくなるなんてことは、今はどうでもいいのだ。



 さて、私も公園へ行くしたくをしなければ。

 ダウンを着、ママバッグを引っ掛け、スニーカーを出す。


 ふと、目にとまる。

 シューズクローゼットの奥に、華奢なヒールの靴がしまわれている。


 ……ああ。

 そういえば、この靴を最後に履いたのって、いつだっけ。


 私は平日、スニーカー以外の靴も結構履く。幼稚園の送り迎えの時はそれなりの格好をするように心がけているからだ。

 だが、この、見た目重視で歩きづらい靴を履くことはなくなってしまった。


 この靴は、「身だしなみ」で履くものではないから。

 「自分をきれいに見せるため」に履くものだから。


 今、私には、誰かにきれいだと思われたくて、歩きづらい靴を履く必要がない。

 だって、パートナー君も、ケンタも、私のことを「ママ」と呼ぶ。

 ママはきれいな方がいい。でも、「ママのきれい」に、この靴は必要ない。


 この靴は、恋をしている時に履く靴だ。


 スニーカーを履く。ケンタはにこにこしてパパにしがみついている。パートナー君は目尻に皺を寄せてケンタを見つめ、微笑む。


 幸せなのだ、と思う。

 家族三人で公園に行って、一緒に遊んで、家に帰って、ご飯を食べる。

 優しい彼と、かわいい息子と、小さな我が家。

 そこにはぎゅうぎゅうの愛が詰まっている。

 今、私は、幸せなのだから、と思う。


 だから、これ以上を望んだら、ばちが当たる、と思う。


「ママ、鍵かけた?」


 彼に声をかけられ我に返る。いつものことなのに、なぜか「ママ」の言葉がちくりと胸に刺さる。


 さっき見たCMを思い出す。

 好きな人に思いを馳せてチョコレートを作る女の子。「恋」をしている女の子の笑顔。

 今、私のいるここにはあふれんばかりの「愛」が満ちている。それは疑いようがない。ありがたいことだし、幸せだ。


 でもさ。

 私はあなたを産んだ覚えはないんだよ。


 ついさっき、自分だって「パパ」と呼んだくせに、そんなことを思う。


 彼にとって、私はもう、「ケンタのママ」なのかな。

 だからバレンタインのディナーは、から揚げがいいなんて言うのかな。

 私も私だ。昔は少ないお給料やりくりして、ネットでいっぱい情報調べて、一生懸命彼のためにプレゼントを選んでいたのに。


 ……ああ、いけないいけない。

 幸せなんだから。何の不満も、ないはずなんだから。

 贅沢を言っちゃいけない。

 わがままを言っちゃいけない。

 「ママ」と呼ばれるのは、ありがたいことなんだから。

 だから。


「……ねえ、バレンタインデーにさ」

「ん? さっきの話?」

「違うの。あのね、私……」


 言いかけた言葉を飲み込む。

 ドアの鍵をかける。


「今度の水曜日」


 彼はケンタのスニーカーを履き直させながら、唐突に言った。


「休暇取れそうだから、久しぶりに二人でどこか行くか。バレンタインデーとは全然関係ない日だけど」


 立ち上がり、私を見る。


「どう? 


 目尻に皺を寄せ、微笑む。

 私の頭を、ぽんと一回叩く。


 うわぁ……。

 やばい。

 きゅんとした。



 もうすぐバレンタインデーだ。

 私は公園で、ブランコに乗るケンタの背中を押しながら思う。

 バレンタインデーには、から揚げと、里芋の煮物を作ろう。デザートはみたらし団子。考えただけで口の中がしょっぱいが、やっぱりここは、彼らの食べたいものを作って喜んでもらうのが優先かな。

 それが、「ママ」の愛情だし。


 そのかわり。

 今度の水曜日には、久しぶりにあの靴を履こう。


 どうせ二人で出かけても、ケンタの話題に終始して、帰り際にはケンタへのお土産を買うんだろうけれど。


 でもね。

 ママは、久しぶりに「恋」をしたいわけさ。


 ブランコの脇で「俺にもケンタの背中を押させろ」オーラを放っている彼を見て、そんな事を思う。

 そして急になんだか猛烈にこっずかしくなって、背中を押す手に力が入り、あわててブランコをおさえた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

恋を失ったバレンタインデー 玖珂李奈 @mami_y

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ