第4話 察知

「どうした」

 落ち着いた釜坂の声が、原田に冷静さを取り戻させた。

 少し目立ってしまった。注目されることに慣れている原田にとっても、こんな高校デビューはごめん被りたいものであった。

「いや、あの人が」

 居住まいを正した原田は釜坂に告げた。壇上の、新入生代表を務める彼女こそが、ほぼ確実に去年の八月の展覧会で出会い、自身の絵の本質を捉えた人だと。

剣持けんもちさんだったのか」

「剣持さんというのか……」

 横に座っている釜坂に詰め寄るが、原田は既での所で「なんで」という言葉を飲み込んだ。釜坂の顔を見たときには、彼の中で、大体の予想がついていたからだ。

「剣道でか? それとも茶道……、いや華道か?」

 原田は、思いつく可能性を列挙する。華道については聞いたことがないが、この釜坂のことだ、経験があっても不思議ではない。

「華道は僕もやってないだろう。茶道だ」

 学校の性質のためか、遅刻する生徒は少ない。ちょうど、この会話の途中に隣席に生徒が来たので、釜坂はそこで話を中断し、指定された自分の席に戻った。先ほどの自分に起きた異変、さらに剣持という女生徒についてなど、話したいことは多々あったが仕方あるまい。

 式は滞りなく進み、教室ごとに分かれることになった。剣持と名だけを伝え聞いた女性はやはり、原田の絵の本質を見抜いた人で間違いはなかった。マイクを通した一声で、記憶にあった声が鮮やかさを増したのがその根拠だ。彼女は、剣持忍けんもちしのぶという名前だった。

 それにしても、彼女がつい最近まで中学生だったとは原田には(おそらくここにいる大半の人間にも)信じられなかった。容姿は年相応だが纏っている雰囲気が既に一般の生徒とは違う、また、千人近い人間の前での、堂々たる立ち振る舞いで代表挨拶を行った手腕には、目を見張るものがあった。現代の高校生としては異常と表現できるほど、本質的に彼女は人物として完成されていたのである。


 入学式の後、各クラスでの顔合わせとなった。原田は釜坂と一緒の学級になった。特別進学クラスは二つあったが、原田は芸術面の成果も考慮される推薦試験で試験を受けた為か、分配がうまくいったらしい。

 原田にとって更に良いことが続いた。担任の教諭と、その手伝いで配布物を抱えた剣持の姿が、開いた扉から見えたときに到っては、原田は自身の幸福を疑い始めていた。今までの人生の不運がまるで嘘のようにさえ思えた。

 思わず笑い、また既視感を覚えた。原田の頭の中では、やはり美術館以外のどこかでかつて彼女と会ったのではとの思いが再び浮かびあがった。その日の帰路で、彼は釜坂に向かい、心に抱いていた疑いを口にした。

「剣持さんに以前会っていた気がする」

「美術館のことではなく?」

 釜坂は理解が早かった。

「都合よく、脳がそういった記憶を造り上げようとしているんじゃないかな」

 美術館の後に再会していたら、そんな出来事を忘れるわけがない、原田は可能性の一つを自ら挙げた。

「……その真偽はともかく、悠介がそこまで惹かれるのはすごいね。まあ当然か、君の絵の本質的な理解者なわけだし」

 確かに、釜坂の言うように、原田の絵を短時間で理解した剣持に、原田はかれていた。

 だが同時に、その一方的な「理解されて嬉しい」という感情故に、つい最近、彼女と会ったことがあると錯覚したわけではないことも、原田はどこか心の奥底で感じ取っていた。

 先ほどの原田悠介自身の言葉は、口にする前から、ただの思い違いに他ならなかった。原田に記憶を含め改竄は有り得ない、それは以前、原田が最も信頼する釜坂が教えてくれたことだった。

「それで、どうする」

「そりゃ、もちろん」

 釜坂が指したのは鳥居だった。フィールドワークと寺社のスケッチが趣味というのは、正直高校生としては病的とも言える趣味だろうが、これが二人にとっては楽しいのだから仕方がない。釜坂は既に史学を、原田は日本画をそれぞれこころざしていた。

 原田と釜坂は、鳥居をくぐり参道を進んだ。静寂な空間が展開していた。生える木々は青く、時たま吹く風にも清らかさがあった。特に信心深いわけではないが、神社が普通の場所ではないというくらいは、原田には感覚で解っていた。

「祭神は、経津主神ふつぬしのかみ)と、比賣大ひめおおかみか」

 あまり手入れされてない手水舎で手と口を清め、立て看板の縁起を読んでから先へ向かう。途中には、この土地に基盤を置く企業や、地元名士の名が連なる奉納金ほうのうきんの立て看板があった。しばらくそこで奉納などの企業の活動はまさしく「信心しんじんとくの余り」だといったような雑談を釜坂と茶化すようにしてから、先に進んだ。この過程で企業名のいくつかを暗記してしまい、悲しい性だと原田は感じた。とはいえ、釜坂の記憶力を考えれば皆が忘却の彼方へやった下らないことを、一人だけ覚えているという状態は避けられるから、同時にまあいいかとも納得することにした。

 本殿の前には、人影があった。それなりに立派な建て構えの社殿だが、境内は賑わっているとは言えず、その人一人しかいないようだった。

「あなたは」

「どうした悠介、そんな――」

 急に足早になった原田を、釜坂は呼びとめようとした。しかし、原田の異変の原因を目視した途端、釜坂は状況を察し沈黙する。

 本殿に向かい拝礼していたのは、剣持忍だった。

「あれ、釜坂君と……原田君?」

 人の気配に気付いた彼女は、振り返り、二人を見るや否や名前を当ててみせた。

「こんにちは、剣持さん、それで間違いありませんよ」

 剣持の記憶には、どうやらクラスで行われた原田の自己紹介は残っていたようだった。

「ごめんなさい、少し、ぼうっとしていたみたいで」

 彼女の言葉は明らかに嘘だった。振り返った際に原田が見た彼女の眼差しは、自失のそれとは明らかに乖離かいりしていた。面識などないようなものだが、彼女は懸命に何か祈願していたくらいは原田にも解る。

 挨拶程度の雑談を交わし、剣持は先を急ぐと石段を降り始めた。少し、展覧会の話をしてみたかったが、迷惑だろうと思い原田はとどまった。

 剣持が通り過ぎる、彼の視界の端に靡く黒髪が掠った。

 何故か、ただそれだけで、身震いした。

 再会を確信したときとはまた違う震えが身を苛んだ。

 この反応は、彼女の外見に由来するのではない。信じがたいが、その肉体の警告は、原田の中で膨らんだ純粋な恐怖の感情により起こったものだった。

 原田はこの時、社殿の装飾をスケッチするために、カバンから右手で鉛筆を取り出そうとしていたのだが、それをこの恐怖ゆえに思わず取り落としてしまった。

 原田が手から落とした鉛筆は、いつの間にか剣持の手に握られていた。

 並外れた反射神経の為せる技か、全く危なげなく、如何にも簡単に、彼女は原田が取り落とした鉛筆を空中で取っていた。剣持はわざわざ原田が左手で受け取りやすいよう、鉛筆を彼に向い差し出した。

「ありがとうございます」

 少し視線を落としながら、原田は言った。

 再びの再会とでも表現できるだろうか、とにかく剣持とまた顔をあわせてから一時間しない内に原田の家に着いた。神社は当初の予定とは違い、十数分しか留まらなかった。飲み物と少しばかりの茶菓子を用意すると、原田は釜坂に了承を取り、自身の机に向かった。釜坂は、原田が鉛筆を動かしている間、シミュレーションゲームを進めながら、ある歴史学者の退官記念論文集を読んでいた。

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