第5話 それぞれの提案

「なあ、恵一」

 ソファーに寝そべっていた釜坂は、分厚い本を閉じ、ゲーム機をテーブルに置いた。原田は先ほどまでトレーシングペーパーに描いていた絵を釜坂に渡す。紙には今写し取ったかのような手のひらの像が浮かんでいる。

「相変わらず上手いな……でも、誰の手だ」

 それは、原田自身の手のひらを描いたものでは無かった。原田は袖を捲くり、自身の右手の様子を友人に見えるようにした。

あざがあるだろう、薄っすらと」

「ああ……、けっこう範囲が広いね」

 釜坂の言葉に頷き、原田は赤いサインペンをペン立てから抜き取った。歪みなく、赤い線は原田自身の腕をキャンバスにして走っていった。

「これは……」

 再度、首肯しゅこうする。原田はトレーシングペーパーに書かれた、先ほどの手のひらの絵を、自身の痣に重ねた。ぴったりと二つは重なった。

「パラノイアを疑わないでくれるか?」

「内容によるね」

 真剣な顔と、微笑んだ顔、それが内面までその通りに相対しているか、原田と釜坂は互いに互いを疑っていた。どこか遊戯の側面を持っている会話だった。

「この痣は、おそらく剣持さんがつけた。この手のひらの絵は、さっき見た彼女のものだ、差異は殆どないだろう」

 原田の瞳には、まだ躊躇いが残っていたが、声は良く通った。

「一度だけ出会った相手が、君に痣が残るほどの行動をしたと?」

 頓狂とも言える推測を馬鹿にするでもなく、釜坂は根拠を問う。

「あと一つ不思議なことがある。恵一、なんで、模様替えしたことに驚かなかった?」

「四日前だっけ、ここに来たの。その時にはしてなかったか?」

 二人は、互いに冷静だった。それが装いだとしても、本心だとしても、その年頃の少年にしては珍しいほどに。

「していたさ、だがポスターが変わったのは三日前だ。恵一はいつもそれに気がつく、クロード・ロランからターナーに変わったのに気がつくんだ。まさか、北斎から存命の日本画家に変わったのに気がつかないわけがないだろう」

 釜坂と剣持は正しく知己ちきの間柄だ。原田はこのことからある仮定を展開していた。

「僕が単純に疲れている、もしくは散漫だったとかは?」

 釜坂はそううそぶく。彼はゲーム機と論集を指差す。だが、逆効果だ。

「最難関のステージを片手間でクリアした人間らしく、えらく説得力があるじゃないか。それに、恵一の視線が一度部屋を巡ったのは、絵を描いていてもわかる」

 頬杖を膝につき、釜坂は嘆息した。真意が別にあるように原田から見えるのは、釜坂自身がそう見えるように意図し、そのポーズをとったからだろうか。

「三日前の晩の記憶がない、だが、俺の腕には剣持さんの手の跡もあるし、神社ではなぜか彼女に対する恐怖も感じた。三日前、俺が外出したのは確実だ、両親は忘れていたが、体重が微かに減っていたし、自分で管理している日めくりカレンダーもめくられていた」

「なるほど」

 釜坂の声の調子は、穏やかだった。そこにはただ、友の訴えを聞き入れるという姿勢が見えた。

「あの晩、俺は気絶した。何でそうなったのかは分からないが、だから記憶が飛んでいる。……その意識を失った俺を部屋に運んだのは恵一じゃないのか?」

 剣持と釜坂の関係、腕に残る彼女の手の形をした痣、釜坂が三日前の部屋の様子を覚えている事実。違和感がさまざまな情報を繋ぎ合わせ、原田の仮定は、思い込みに支えられ、ある程度の形となって親友の前に突きつけられた。

「芸術家の直感というのもあるだろうが、すごいね」

 顔に塗られた色は、苦笑か、悲しみか。とにかく原田もあまり見たことのない、釜坂恵一の一面がそこに見えた。

 釜坂が溜息をついて、手元にカバンを引き寄せた。

 携帯電話を取り出した電話をかけ始めた釜坂を、原田は何も言わずただ見つめる。

「どうしましょう? ほとんど『外れ』かかっている」

「本人はどうしたいと?」

 受話器から、今朝数分の間、聞き惚れた声がした。

「自身の記憶を取り戻したいと」

 釜坂は原田の真意を汲み取っていた。

「だからこの短期間で、こうまで記憶が回復した……か。君の言った通りだったな。恵一君」

 彼女の釜坂に対する呼び方が、神社で会った時とは違った。原田の予想通りか、二人は協力関係にあったのだ――原田は自分の腕の痣を見る――しかも、なにか暴力の伴うことで。更にその暴力は、何か記憶を消すことが必要で、実際にそのようなことが行えるくらいには現実離れした事象のため行われたと考えられる。

 漠然とだが、二人の目的が、世間一般の理想的な正しさを持つのであれば協力したいと原田は思った。友人の苦難の際に蚊帳の外に置かれるのは何より嫌な事だ。

 伏し目がちに剣持との会話の要旨を告げた釜坂には悪いが、原田の答えは決まっていた。

「力になりたい」

「やっぱりか、悠介。でも、僕としては止めてもらいたい。剣持さんの抱える問題は、僕が、いや僕たちが今まで関わったものの中で、一番危険だ」

 苦痛を友にし、虚しい勝利を伴侶とする、かつて確かにあった、原田の下賤げせんで興奮に満ちた非日常的な日常。下らないと誰よりも知っていたが、数多の危険と障害は見過ごせるわけもなく、かつて原田はそれら全てに挑んだ。そういった危険な時に、釜坂だけはいつも傍にいてくれた。

 ここで引き下がる理由は、どんなに脳裡を漁っても見つかるわけがない。

「恵一も関わっているなら、少なくとも、ここでは退けないよ」

「退く気なんてないだろう」

 立ち上がり、出口を見た釜坂は哀感を背負っていた。原田が謝ると、たいして重いものではないとでも言うように、彼は笑った。

二人はタクシーで剣持忍の家に向かった。「支給金がある、早いほうが良い」それが釜坂の言い分で、原田はこの時いささか冷静さに欠け、二つ返事で了解した。

 到着し唖然とした、剣持の家と聞いてなかったら、原田は国指定の重要文化財か何かだと思っただろう。外観からある程度中の様相を予測してたといえど、門を潜ってまた驚く、構造そのものにすら、思わず視線を奪われる。枯山水の前では立ち尽くしてしまい、とうとう釜坂に腕を引っ張れられた。庭園にしろ、建物にしろ、人が常住する家としては度が過ぎている。

「すごい、ここ観覧料取られないのか。もしくは一見さんお断りじゃないのか」

「じゃあ僕が紹介したってことで」

 庭園を過ぎ、建物に向かい原田は問答無用で引っ張られていく。もちろん原田にとっても早いほうが良いのだが、これほど美術的価値のあるものを見てしまっては、彼の性質上立ち止まらざるをえない。釜坂は慣れた手際で原田の熱を帯びた意見をかわしながら、建物に馴染むように工夫されている呼び鈴を鳴らした。

「今晩は、恵一さん」

 玄関から出てきたのは男性だった。剣持忍の父親だろうか、それにしては若いと原田は思った。少々疲れが滲んでいるが、整った顔ゆえだろうか、とても高校生の娘がいるようには見えなかった。

「原田さんだね、忍から話は聞いています」

 そう言うと彼は、壁にかけてある受話器を持った、剣持忍に内線で連絡を取ったようであった。原田は、その短い会話の中で「忍さん」と言ったのを確かに聞き取った。電話が終わり、客間に通される。その途中、先ほど、自分の娘に敬称をつけたことに原田が微かにいぶかるような表情をした為か、剣持の父と思しき人物は自ずと説明をし始めた。

「本来、忍は私の姪にあたります。義姉は彼女を見ることも叶わなかった。兄も義姉の忌明けをやっと越した頃に後を追うようにね。それで、養子縁組して。ああ、でも余所余所しいわけじゃないんですよ、癖でね、仮に自分の子がいても、そう呼んだろうし」

 二人にお茶を出しつつ、剣持の叔父は述懐を終えた。

「先生、あれから何かありましたか」

 剣持の叔父(父)に釜坂は先生と呼びかけた。どうやら何かを教えている人らしい、それは、剣持と釜坂が知り合ったきっかけである茶道かもしれないと原田は推測した。剣持の叔父の一挙手一投足に、品を感じたからだ。

「昨日留守電に連絡があってね、どうやら四日後にあるらしい。相変わらず勝手なものだよ」

 剣持の叔父は言い残して出て行った、入れ替わるように剣持忍が現れた。

 三者がそれぞれ挨拶の真似事をし、原田が、まず切り出した。

「剣持さん。私は、以前あなたにお会いしているのでしょうか?」

「ええ、一年前、美術館で。あれは、原田君が描いたと、恵一君から聞きました。本当に良い絵ですね」

「こ、光栄です……いや、そちらではなく」

思わぬ賛辞に、危うく冷静な判断力を失いそうになった原田であるが、強い理性で無理に話を戻した。それに対し、剣持は、不意に緊張したように居住まいを正した。

「……申し訳のできぬことをしました。若輩の身ゆえ大してことはできませんが、どうかこれで水に流していただけませんか」

 すると、彼女は、懇切丁寧に原田に謝罪しはじめた。会って間もなく、優れた人、しかも絵の理解者に頭を下げられ、今まで感じたことのない罪悪感が募っていく。

しかし、彼女の誠意とともに、懐から差し出された包みを見て、彼は何とか冷静さを取り戻した。包みは直方体をしており、確実に、「無学なる者は貧人となり下人となるなり」と主張する、某有名私立大学唯一の先生がひしめきあっている感じがあった。

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