第3話 去る年、八月の展覧会にて

「待ってください!」


 目覚めると同時に叫んだ、だが原田には、今しがた自分が口にした言葉の意味がわからなかった。何か重要なことであったような気はひしひしとするのだが。

「……寝るか」

 暗闇の中で目を凝らし、目覚ましの短針の位置を確認すると、急に馬鹿らしくなって、また布団に潜り込んだ。

「あれ、いつ布団に」

 重要な何かが彼の中で欠落していた。史書の逸文のように、原田の記録めいた記憶から、昨晩外出してから就寝するまでの時間が抜け落ちていた。

 だが、『忘れた』という事実を不思議と原田は覚えている。

「なんだろ、何か」

 この違和感を睡魔が塗り潰すまでに時間がかかりそうだなと判断した原田は、スケッチブックに向うことにした。怠惰の感情に屈するのは好きではなかった。計画していた模様替えも済み、日めくりカレンダーはすでに今日の日付を指している、トレーニング後のように体も軽い。先刻から感じる違和を除けば、存分に絵に集中できる環境はできていた。

 長針が時計を数周しても、睡魔はなかなか訪れなかった。最近気に入り、とうとうポスターまで掛け替える決断をしたほどの画家の模写と、もはや数を数えるのも馬鹿らしくなるくらい行ってきたバスケットシューズのデッサンは、図らずも捗ることとなった。

 

「悩みがあるんだ」

 ど忘れとも言えるような、軽度の記憶喪失から三日後、駅で合流した釜坂恵一かまさかけいいちとホームで電車を待ちながら、原田は相談を持ちかけた。彼は、原田が最も信頼する友人だった。

 解りやすく、重要と思う順に自身の異変を伝える。最近絵のほうは随分練習できているが、いい加減、こうも睡眠と無縁だと体がだるくて困った。

「認知症の心配かい、悠介? なら大丈夫だろう、君ほど下らないことを覚えている人間もいない。重要と思っていることなら、尚更だ。思い出せないだけじゃないか」

 春だというのに、ホットドリンクを飲みながら釜坂は答えた。少し、眼鏡が湯気で曇っている。

「思い出せないだけ、か。よく映画やら小説で聞くセリフだけど元ネタは何なんだろうな」

 原田がそう言ってしまったせいで、話はどんどんと横道に逸れていった。結局高校に着く頃には、何故か道祖王ふなどおう廃太子はいたいしのことを話していた、実際の脱線事故なら、別の路線に乗り込んで走行している所だろう。

「そもそも日本史より、世界史を必修って何考えているんだろうな。世界史も悪くはないが、ここは日本で、その歴史あっての日本人だって言う――」

 始業式の始まる三十分前、釜坂と原田は、原田の出席番号が書かれた席と、その横の席に並び座った。恵一の現代教育に対する不満に同調しながら、原田は周囲を見渡した。まだ人影はまばらで席には空きがあった。壇上では、新入生代表である女生徒が、立ち位置の最終確認をしている、そろそろ開会に備え、幕が下りる頃だろうか。

突如、壇上を眺めていた原田の表情が変わり、釜坂との雑談が途切れた。原田がそこにいる女生徒の正体を知ったためだ。釜坂が新入生代表に選ばれなかったことが気になっており、それ故に女生徒を見る時間が増え、彼は気付けたのかもしれない。

 女生徒は、原田と去年の八月に出会い、彼の絵の本質を見抜いた人であった。原田は、焦がれた存在を見つめながら、決して鮮やかさを失わない記憶を呼び起こし始めた。

 

 原田は去年、学生対象の公募展こうぼてんで彼女と出会った。最早慣例となっていたが、公募展には自身の絵が出展されていたのだ、気にならないわけがない。

 そこは、情熱も時間も作者の思想も、真摯に注がれた作品で空間が占められていた。自身ぼ絵も、その例に漏れぬはずなのに、なぜか他の絵に比べれば、訴えてくるものがないような気がする、原田は当時不安を感じており、作品を確かめるため、幾度となく会場を訪れていた。

 技術も、努力も及第点であった。描いたものは特殊であり、抽象的な表現も混じってはいるが、期限限界まで練り上げた、現時点で最高の作品だった。

 しかし、どこか……。

 この不安は本当に自信の欠如だけに由来するのかと疑う。この時、原田は正体不明の感情を打ち消すため、何かに縋るように当て所なく、視線を巡らした。

 いつの間にか、彼の絵を鑑賞する女性が横に並び立っていた。年齢は原田と変わらないだろう。身長も同じくらいだ、高い、170ある原田と同じか、数㎝高いくらいだ。

 原田は、彼女と自身の絵を交互に見た。彼女の真剣な眼差しが怖くもあり、嬉しくもある。随分と長い時間、原田の絵は視線を浴び続け、原田自身も、数回彼女を伺っただけで、何時の間にか再び自分の絵にフォーカスを戻していた。

「これは――」

 予期しなかった彼女の呟きが、原田の注意を引いた。

 驚愕と同時に、原田は言葉を発した彼女を見た。絵に集中し、耳が十分に機能していなかったことを呪う。詳細は聞こえなかったのに、彼女の呟きの内容が自分にとって重要な事だと原田はこの時確信していた。

 二人の視線が結び合った。都立の美術館といえ、平日でしかも午前中の公募展だ、あたりは静かだった、故に彼女は原田の急な動きに気がついたらしい。

「良い絵だったもので」

 彼女は少し驚いた様子ながら、軽く会釈し、絵の前から立ち去ろうとした。どうやら自分が、鑑賞に具合の良い場所を独占していたと思っているようだ。

「あの……良くわからない絵だと思いませんか?」

 自分の口から出た言葉を耳から受け入れたとき、原田は我ながら意味の解らないことを言ったものだと驚愕し、同時に己の大胆さに感心した。

言葉のもう一人の受け取り手は(今やっと気がついたが、とてつもない美人だ)意外にも困惑の表情を浮かべていなかった。一度瞬きし、絵のほうを見遣る。

「あくまで推測ですが」

 彼女はタイトルを指差した『誰にも説明できない』と英語で書かれて(書いて)いる。

「『竜』を描いているのではないでしょうか」

 例えようのない――されど胸のうちで雷鳴と暴雨風が吹き荒れ、色彩の奔流が頭の雑念を押し流す錯覚が起きる――感動だった。彼女の言葉は、原田悠介の人生で、最も価値のあるものに思えた。

「大丈夫ですか」

 黒い瞳がこちらを観察していたことに、原田は気付いた。感情の濁流のせいで、思考と五感の働きが途切れていたようだ。

「何か気に障るようなことを」

 彼女は表情を曇らせ言った。原田はすぐさま可能性のある異変を確かめようと、頬に手を当てる。無意識のうちに涙が流れていた。

「いえ」

 原田は「違います」という言葉を紡ぐことができなかった。一度息をついてからではないと返事すらままならない。

「すみません。そういうわけじゃないんです」

 自分でも声が震えているのが解った。

「御高覧、ありがとうございました」

 どのような意味でも、良い別れ方ではないが、これ以上その場には居られなかった。一方的な感情の吐露の後、原田は足早にその場を去った。

 ――顛末を思い起こし、原田は打ち震えた。

 感動と、あの時の後悔を解消できるかもしれない再会に、心が躍っていた。

間違いない、壇上の彼女は、原田の絵の本質を見極めた女性だった。以前、釜坂にはこの話をしている。「あの人が、例の」――と無二の親友にその事実を伝えようとした時だった、

「……違う! それだけじゃない」

 原田の言葉を遮るように、大きな叫び声が上がった。その声が自分から発せられたものと原田自身で気付くまで、しばらくの間があった。

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