第2話 契機

 とりあえず、携帯電話だけを持った。

「行ってきます」

 午後九時を回ってから、原田悠介はらだゆうすけは両親の了解を得て屋外に向った。玄関に飾ってある二つの額を一瞥し、靴を履く。額にはそれぞれ、姉と自分が描き同じ賞を受賞した絵が収まっていた。

 保護者の無関心故に奔放な行動が許されているわけではない、原田はそれが許される程度には信頼を得た人間だった。両親や教師は、類稀な芸術の才を始めとする、彼のあらゆる美点を認めた。この時間帯でも、「軽い運動がてら、題材を見つける」という言葉で、快く送り出してもらえる信頼があった。

 原田は、特に妙なことをするでもなく、宣言通りのことをした。我流のトレーニングをし、思うがまま走って辿り着いた先の、気に入った風景を携帯のカメラに収めるというものだ。本来ならデジタル一眼のカメラが良いが、日頃の練習用の題材にはこれで足りる。

 モチーフの調達はともかく、体を鍛える必要は既に無くなっていた、彼が入る高校――県内屈指の進学校では、後ろから消火器で殴られることはないからだ。

 

 もう、幾らでも絵を描くことだけに集中できる筈だった。だが、原田にとって防衛手段の強化は、彼の伯父の喫煙のように止められないものになっていた。これは、小学校中学年のころから身を守るための鍛錬が必要となり、それが定着してしまったが故の空しい習慣だった。

「何、やってんだろう」

手の甲で汗を拭いつつ、無意味な行為をしている自分に問いかけた。

 月と桜の木の下。至らぬと自覚する少年は笑った。破顔に付随し響く声は綺麗だろうに、他人からは酷く恨まれやすかった。

 原田は聴力にも恵まれていた。それが彼の運命を変える嚆矢となった。

「――――――、―――」

 優れた聴覚は、自嘲じちょうの微かな反響に混じる雑音を感じ取ってしまった。

「変だな」

 夜分遅いという時間でも無かった。しかし、このあたりは閑静な住宅地で、こんな時間帯に騒がしくなる要因はない。原田はどうにも気になり、耳を澄ました。金属が擦れるような音が原田の耳朶に届き、続いて覚えのある響きが明確に聞こえた。

 それは叫びだった。

 響きには、とても演技や悪ふざけの類とは思えない真実味があった。

 彼の平穏は、またもや自身の才覚のために崩れ去る。無意識のうちに原田は走り出していた。疑問は当然浮かんでくるが、今は無視する。例え駆けつけることが無意味で、この叫び声が何かの間違いであろうとも、何かあってから後悔するよりはましだろうと自分に言い聞かせ先を急いだ。

 だが、目的に向かい十メートルほど走ったところで、覚悟していた後悔は不意に訪れた。

 今まで、感じたことのない不快感が、原田の体を停止させた。「そこに近づくな」という命令を直接脳に植えつけられたように足が止まり、どうしても、その叫び声のする場所に近付けなくなる。

「なんだ、これ」

 原田を支配したのは、今まで経験したことのない苦痛だった。敬愛する芸術家を馬鹿にされた時のような怒りと、食い散らかされた死骸に近づくような根源的な忌避の感覚が心を満たした。一瞬にして全身から汗が流れ、悪寒が全身を苛んだ。

 ぐらついた体勢を立て直そうとわずかに後退する、それだけで症状が緩和し、驚くほど気分が楽になった。だが、悲鳴の理由を確かめるまでは引き下がれなかった。原田はそういう人間だった。

 丘の頂上にたどり着くまでに、原田は先ほどのトレーニングとは比較にならないほどの疲労感に襲われていた。体から噴出した汗の量は、傍から見れば水でもかけられたかと見紛うだろう。どこかで意地になっていたのかもしれない、彼は勝手に体が嗚咽を漏らすのを、なんとか意識から外そうと、這うようにして前進した。

 

 正義感により行われた探求の末に待ち受けていたのは、原田が今まで見たことのある種別のものであり、直接見たことがない規模の、暴力の痕跡だった。

 舗装された道路やへいが、所々削り取られ破壊されている。何をもってこんな損傷が生じたのか、原田はあらゆる仮定をしてみたが、どれも納得には至らなかった。破壊痕の種類が複数あるのも、そして、これほどの異変があったというのに騒ぎにならないのも、尋常な手段によるものとは考えられなかったからだ。

 声は出なかった、何の準備もせず到着してしまった迂闊さを猛省した。だが、彼の中で来てしまったことそのものへの後悔は皆無だった。この状況が何であれ、辿り着くことができて良かったと純粋に思えた。

 足元には、赤い色の液体が溜まっていた。明らかに何かが死んでいるというのに(直感した)、空気は澄んでいる。そこには不思議な静けさがあった。

 原田の視線は、濡れた地面を滑っていった。彼の両の眼は、二つに分けられたであろう肉塊を捉えた。両断され横たわるその肉塊は、明らかに人のものではなかった。

 巨大な死骸の脇に人影が立っている、またも直感した。この人物こそがあの巨体を両断したのだと。足元を見つめるその人影の様子には、原田の錯覚でなければだが、棺の中を見るときのような、ある種の敬意があるように思えた。殺したものとしては似つかわしくない感情だ。

 死骸の傍に佇んでいる者は女だろう。暗闇の中で詳しくは解らず、また長身であったが、原田の中に疑いの余地はなかった。己の観察眼――彼が他人から賞賛される才の一つ、そして唯一自負する才――を信じきった。

 原田はポケットから携帯電話を取り出した。この惨劇を外部に伝えるための行動で、既に自分の命は半ば諦めていた。

「すごいな、どうやってここまで」

 通話ボタンを押した時に、その声は原田に届いた。静寂を破った声につられて、彼は異形を殺した存在を確かに見た。九夜月を背にし、刃を携えた姿を。

「事件ですか、事故――」

 電話越しに警察官の声が聞こえる、この時、既に彼は、この惨状をもたらした者に右手を掴まれていた。

「悪い、それは止めてくれ」

 早い――、そう思った矢先に、夜の闇を観察していた彼の意識は、より暗い闇の中へ落ちていった。

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