最終話 《モノ》と《もの》

 9月1日。その日がやって来るまでそう時間はかからなかった。


 俺の妹が死んだ日――。

 俺が母さんと顔を合わせられなくなった日――。


 きっと歯車はこの日を境にして狂いだしたんだろう。それに俺は気づくこともなく、ありのままに受け入れると同時に、心のどこかでは、『仕方ない』『どうしようもない』そう言って理由を正当化し、〝独り〟という自分の殻にこもることで身を守っていたのかもしれない。

 でも、それは違った。

 勝手な憶測だった。

 母さんはずっと待ってくれていた。いつか俺が目を合わせて話をしてくれるはずだ。そう信じてくれていた。

 それが分かったのも全部アリスのおかげだ。彼女が工場にやってきたあの日から、狂いだした歯車が少しずつ直り始めていたのかもしれない。

 今まで色んなモノを直してきたけれど、俺が直せなかったものをアリスが直してくれた。でも、そう思う反面、それは単なる偶然だったんじゃないか? そう考えてしまっている自分がいる。


 彼女は必然だと言った。

 だが、根拠はどこにもない。

 仮に彼女の言葉を信じるとすれば、俺にもまだ役目が残されているのだろうか?


 ベネティウスから戻って10日ほど経ち、今朝みた工場のカレンダーは月が変わったことを告げていた。

 あれから何か変わったことがあっただろうか? そう訊かれても特に何もない。 母さんとアリス、3人で仕事をこなしながら毎日を普通に過ごしてきた。今まで通りの生活。ただ、その中で時々アリスの目がどこか遠くを見つめていたことを俺は知っている。気づいていたからこそ、俺もこれ以上彼女に追求することはできなかった。


 どこかモヤモヤする感じ。

 どこかすっきりしない気持ち。

 これでいいのだろうか?

 本当にこれで――。


 心の中で何か引きずったまま、俺はアリスと一緒にクラストルドの北側へ足を進めていた。

 空はもう夕焼け色になっている。クラストルドの北に人は住んでいない。木々や障害物のない広々としたそこには緑の草地と子供の背丈ほどある扁平な石たちが規則正しく立ち並んでいる。

 ここの岸壁から広がる海はとても穏やかで静かだ。でも、どことなく寂しい気持ちになる。たぶん、ここを訪れる人は手に花束を携えているだろう。そして、ここに来るたび土の下に眠るものたちのことを思い出し、石の前で語る。

 ココはそういう場所だ。

「妹さんのお墓って、どの辺り?」

 花束を持ち運ぶアリスが言う。

「もう少し端だよ。海がみえる見晴らしの良い所で眠らせてあげようって母さんが言ってたから」

 並ぶ石の間を二人で進む。俺たち以外に人影はない。足が草を踏む柔らかくしなやかな音だけが耳を伝う。行く手から吹き付ける風が、『まだ来るんじゃない』と俺たちを押し戻すかのようだった。

 側には一つだけ名前が刻まれていない墓がある。傍から見れば誰のものかも分からないそこを俺と母さん以外に訪れる者がいるなら、それはあいつしかいない。

「ハイロ、あれ…」

「ああ…」

 妹の墓の前に誰かがいることは遠くからでもすぐに分かった。コートを風になびかせ、背中を向けるそれは俺の知るあいつの背中だった。

 久しく見るその姿に右手が握り拳になる。眉間にシワが寄る。歯が食いしばる。

「待って」

 アリスが俺の右手首を掴んだ。そして首を振る。

「お父さんを殴り飛ばしたところで何も解決しない。ハイロの手が痛むだけだよ」

「けど…っ!」

「気持ちはわかる。でも、今は抑えて。私たちは話をしに来た、そうでしょう?」

「………」

 俺はアリスの手を振り払った。けど、一度握り込んだ右手の力は容易に抜けてくれなかった。自分の左手で右腕を掴み、抑え込む。奮い立つ右腕は自分の一部であってそうでないように思えた。水からあげられて暴れ回る魚のように震える。それだけ俺が父さんのことを憎んでいる証とも言えるだろう。

 そう、今日は父さんが俺たちの前から姿を消した日でもあるのだから。


              ◆◆◆


「泣くなハイロード。おまえのせいじゃない」

 あの海上事故後、母さんが運び込まれた病院で父さんはそう言った。当時の俺は待合室で泣いてばかりだった記憶がある。

「でも…、ひっく…、だって…、俺があの時、母さんの言うことを素直にきいてれば……、ひっく…」

「母さんだって言ってただろう。おまえは何も悪くない。悪いのは父さんの方だ。俺が貰ったチケットをおまえ達に渡さなければ事故に巻き込まれることもなかったろうに…」

 あの時父さんは何を考えていたんだろうか。険しい表情で椅子から立ち上がった父さんは何かを覚悟したような、それでいて目には涙を浮かべていた。

 父さんは泣きべそをかく俺の前にしゃがみ込むとこう言った。

「ハイロード。おまえや母さんには辛い思いをさせてしまったな……。父さんには何もできなかった。おまえと母さんにチケットを渡した時、楽しんで来いって言って送りだした自分を殴り飛ばしてやりたいぐらいだ。けど、過ぎてしまった時間は戻らない…。ハイロード、父さんはもうここにいる資格がないのかもしれない。だからな……」

 それが俺と父さんの最後の会話だった。

 その日のうちに父さんは姿を消し、クラストルドを去った。泣いていたこともあり、俺は父さんが何を言って去って行ったのか覚えていなかった。

〝だからな〟その後に続く言葉を俺は真剣に考えることもなく、父さんは俺と母さんを捨てた。そう結論付け、心に刻み込んだ。


              ◆◆◆


 名前のない石の塊が男の眼下に映っていた。この下にはこの世に生を受けるはずだった小さな命が眠っている。太陽の明るさ、潮の香り、波のさざめく音、何一つとして知らぬまま消えた命が…。

 男にとって命を見送ったのはこれが初めてではない。人生で二度、命の灯が消えるところをみている。ここに来ると、以前愛していた人の姿が蘇ってくる。あの綺麗な黄色い髪の女性は完治不能な病と闘いの末、息を引き取った。

 男が何かしたところでこの2つの命が救われることはあったのだろうか? いや、きっとそれはない。男には何もできなかったのだから。これは今まで自由に生きてきた自分への報い。神が与えた罰なのだろう。

「さて…」

 男はその場を去ろうとしていた。帽子を深くかぶると娘の墓標から目を背ける。

「待って下さい」

「?」

 呼び止められる。振り向くと1人の女性が手に花束を持っていた。ひまわりのように鮮やかな色をした髪。ルビーのように輝く赤い瞳。両者の視線が交錯したのは一瞬の出来事だった。空気が張り詰めたように凍り、時間を狂わせる。

「そ、そんな…、そんな事があるわけ――」

 男の表情が一変し、息を飲んだことが伝わる。

「ロスト・スティッカーさんですか? はじめまして。私は《アリス》といいます。今日はあなたの息子さんに案内してもらってここまで来たんですよ」

「息子…?」

 俺の存在に気づいてなかったようだ。アリスに言われると男の視線が彼女の隣に立つ俺に移った。俺の顔をまじまじと見ると、ベルトから顔を覗かせる銀色をした長い鉄の塊が気になったのだろう。一度目線が下がった。

「ハイロード…、なのか?」

 その言葉に俺は頷いた。

「久しぶりだね。父さん…」

〝父さん〟久しく口にした言葉だった。

 男はかぶっていた帽子を取り払う。

「しばらく見ないうちに大きくなったな……、おまえも墓参りか?」

「うん、父さんなら今日ここに来ると思ってた。命日…、忘れるわけないもんね……」

 俺の右手は細かな振幅でまだ震えていた。気づかれないようグッと抑え込む。

「父さん…、いや…、《ベル・ルーフェ》って言った方がいいのかな?」

「!?」

 父さんの左足が一歩後ろへ下がった。

「どこでその名前を知った?」

「……」

「ハイロード!」

 次の瞬間には父さんが駆け寄っていた。俺の肩に掴みかかる。

「父さんにはこの子が何に見える?」

「何って……」

 殴り飛ばしても何も解決しない。アリスのその言葉を信じたかった。

 彼女の方へ目を向けつつ、俺は続ける。

「こいつ、工場の前に落ちてたんだよ。表面には傷がたくさんあったし、おまけに泥だらけだった。やっぱさ、そういうモノ見ると何とかしてあげたくなるのって俺の性分なんだろうね」

「落ちてたって……、ハイロード、この子は人だろう? おまえの言い方だとまるでモノみたいに聞こえるぞ?」

「じゃあ仮に、〝この子は本当にモノだった〟って俺が言ったら、父さんは信じてくれる?」

「信じるも何も。そんな馬鹿げた話があるわけないだろう」

「…そう、だよね。そう言うと思ってた」

 俺は隣にいるアリスの肩を軽くたたいた。彼女から花束を預かる。

「ちょっと妹に顔出してくるからさ。後は任せていいよな? やっぱり、おまえが言った方が父さんも信じてくれるよ」

「うん。わかった。ありがとう、ハイロ」

 俺頑張ったよな?

 ああ、頑張ったよ、俺…。

 父さんの横を通り過ぎ、名前のない石を前に俺はゆっくりと花束を下ろした。石は手で触れると冷たく、雪を被るようについた表面の苔をサッと取り払う。

 背後からは二人の会話が聞こえて来る。

「私のこと。クリシャ・チャーチルの蘇りとでも思いました?」

「……はじめは驚いたよ。でも、すぐに彼女でないことはわかったさ。話し方が違ったからね。それで、そこまで知っていて俺に何の用かな。お嬢さん?」

「そうですね。じゃあ、簡単にいいましょう。私はクリシャさんからの伝言を届けにきました。あなた宛てです。郵便配達員さんみたいなものでしょうかね」

「ほぉ、それを俺に信じろ…と?」

「はい」

「冗談も大概にしてほしいね。そんなオカルトめいた話。世の中、自分に似た人は3人いると言うじゃないか。キミが偶々彼女の姿に似ている、ただそれだけさ」

 父さんが言葉を吐き捨てる。

「じゃあ、何故あなたは私を見たとき動揺したんですか?」

「………」

「クリシャさんに本当にそっくりだったから…、そう思ったんじゃないですか?」

「それは――」

「似た人はいるかもしれません。けれど、まったく同じ姿をした人はこの世にいませんよ。でも、さっきハイロがいいましたよね? 私がモノだったと…あれ本当です。ついこの前まで私はあなたの作った石像だったんですから」

「石、像…?」

 忘れていた何かを思い出すかのような声だった。アリスは話を続ける。

「あなたは病に苦しむクリシャさんに石像を作って欲しいと頼まれましたね? 私、全部知ってます。彼女が好きだということ、一緒にいて楽しいと思えたこと、自分のことを応援してくれる彼女がかけがえのない存在であったこと……。その気持ちを全部私につめ込んでくれた。だから私、悲しかったんです。クリシャさんが私を見ることなく死んでしまって、そのことに責任を感じるあなたの姿を私はみていることしかできなかった。目の周りが赤く腫れあがるまで泣いて、声もガラガラになりながら言ってましたよね。『彼女の最後の望みを叶えてあげられなかった』って…」

 俺は振り向かなかった。

 見なくても分かる。

 父さんは思い出している。あの頃の自分を――。

「おまえ、俺が最後に作った石像……なのか?」

 震える声。戸惑いが伝わってくる。

「はい、そうです。私はあなたに作られたクリシャ・チャーチルの石像です。もっとも、今は人の姿をしていますけど」

「……アリスと言ったな。名前は自分でつけたのか?」

「いえ、ハイロにつけてもらったんです」

「そうか…」

 風の音が耳を刺す。

 肺の空気を入れ替えるぐらい出来ただろうか。父さんが大きく息を吸う。

「奇跡…というべきなのかな。俺はあの時とにかくベネティウスから去りたかった。遠くへ行ってそれで石像を作ることもやめよう。クリシャのことも全部忘れて旅をしよう。行く宛てのない自分探しの旅さ、気が紛れればそれでいい。そう思ってた。そんな中偶然このクラストルドへやってきてフォルアに出会った。きっとその時、俺は死んだような顔をしていたんだろう。悲しみを忘れようと必死だった俺に声をかけてくれた彼女の優しさは少し温かか過ぎた。俺は泣いたよ。涙の理由を彼女は訊かなかったが、気が済むまでココにいればいい。そう言ってくれた。彼女の心遣いに俺は甘えてしまった。このまま本当の名を明かすことなく、新しい生活を送るのも悪くないと思った……。でも、それは傲慢な考え方だったな」

 話の途中、背後に視線を感じた。父さんがこの墓をみているのだろう。

 恐らく話の続きは俺の知るあの事故へと話が繋がる。そうなんだろ? 父さん。

「……クリシャと過ごしたあの家に出来上がったおまえを置いて行ったってのに今こうしてクリシャそっくりな姿になって俺の前にやってきた。不思議な巡り合わせだな」

「それは違いますよ」

「?」

「さっき言ったはずです。クリシャさんからの伝言があると。私、クリシャさんに会ったんです。それでお願いされました。彼に本当のことを伝えて欲しいって。私がこうしてココにいることには意味がある。だから奇跡でも不思議でもないです」

 ハキハキとした声。嬉しいようでどこか泣いている。そんな感じだった。

「本当の…こと?」

 父さんが訊き返す。

 ここから先は最後までしっかり見届けなければならない。俺はアリスとそう約束したのだから。

 アリスが頷いていた。ゆっくりと俺は彼女の下へ歩き出す。

 もう一度、俺を見てにこりと笑うとアリスゆっくりと話をはじめた。

「《彫刻を作るあなたは本当に輝いていた。私は、私が死ぬことであなたにその想いを失って欲しくない。そう思ったので、あなたに私の石像を作ってくれないかとお願いしました。ベル。あなたは何を想って私の石像を作りましたか? きっと私と過ごした思い出やそこで抱いた気持ちをいっぱい詰め込んで形にしてくれたと思います。とても素敵なものに仕上がったんでしょうね。見たかったです。でも…、私が出来上がったそれを見る、見ないは関係ないんです。気づいてましたか? 以前あなたは言ってましたよね?


〝想いを形にする〟と――。


 私への想いがたくさん詰まったそれは形こそ違うけれど私そのものだと思います。あなたが挫けそうになった時、あなたの中に生きる私があなたを支える。きっと正しい道を指し示します。だから、その子を作った想いを忘れないで欲しい。もし、あなたが私の死に囚われているのならばそれは間違いです。私がいなくても大丈夫。私がみたいのは死んだ私のことで苦しむあなたじゃない。想いを形にすると言った笑顔溢れるあなたの姿です。私は、あなたにそれを思い出して欲しかった。私の石像を作ることでその気持ちを蘇らせて欲しかったんです。直接私の口から伝えられなかったことを許して下さい、ごめんなさい。私の代わりにこの子が私の気持ちを伝えてくれたと思います。最後に、私はあなたの幸せをいつまでも望んで見守っています》」

 目を閉じ静かに語るアリスの姿は手紙を読み上げているようだった。写真の記憶をたどった時と同じだ。アリスとクリシャさん、二人の姿が重なり、カタチは違うけれど同じものが確かにそこにいる。

 ねぇ、クリシャさん。不思議な縁だと思いませんか? 俺はあなたとは直接会ったことはない。けど、あなたの伝えたかったことが父さんに届いたところ、ちゃんと見届けました。あんなに泣いてる父さん初めてみましたよ。子供みたいで情けないって思えたけど、見てたら腕の震え、いつの間にか止まっていたんです。俺も父さんのことを許せるようになったんでしょうか。



              ◆◆◆


 帰り道は涼しい風が吹いていた。夕陽が水平線に沈み、周囲は薄暗くなってきているが、名残惜しく夕焼けはまだ空を明るく彩っている。

 父さんはもう少しだけあの場に残ると言った。時を越えて届いたクリシャさんからのメッセージ。色々と想い浸る時間が必要なんだろう。

「ありがとうね、ハイロ。そばにいてくれて」

「今さら改まって何言ってんだ。約束しただろ? おまえのやること最後まで見届けるって」

「そうだったね…」

 二人だけの帰り道。足元に広がる小石の中にごつごつとしたものが混じっているんだろうか。足底からの感覚がまばらに伝わってくる。

「ねぇ、ハイロ。あの絵本のこと覚えてる?」

 後ろ腰に腕を組みながらアリスは俺の顔を覗きこんだ。

「アレか? 前に読ませた《アリス・イン・ワンダーランド》」

「そうそれ! じゃあ、問題です。あの絵本で主人公だった女の子は悪い魔女から異世界を救いました。その後どうなったでしょうか? はい!」

 アリスが『どうぞ』と手を返す。

「どうって…、元の世界に帰ったんじゃ…?」

「おおっと!? 疑問形ですね? じゃあ、2択にしましょう。えっとね…」

 アリスが待つように一言念を押す。知恵を絞りだそうと考え込む姿はなんだか笑えた。頭を色んな方向へ傾けるその馬鹿らしい動きが彼女らしいとも言える。

「う~ん…」

「唸るのは構わないけど、うまく作れるのか?」

「う、うん…なんとか……、よし、い、いくよっ…!!」

「…心配だな」

「そんなことない! ちゃんと考えたもん!」

「はいはい。それじゃお願いします」

 よろしい。アリスはそういった感じの表情だった。

「それでは……、じゃじゃん! ①元いた世界へ帰った ②帰りたくないといって駄々をこね、異世界に残った さあ、どっちでしょうか?」

「おいおい、それじゃどっちが答えか丸分か――」

 何かが俺に歯止めをかけた。複数に絡み合った歯車が急に動きを止める。一見複雑であっても歯車どうしに何かが挟まるだけでその動きは意外と簡単に止まってしまうものだ。

 墓標へ行く前考えていたことが脳裏に蘇る。何か引っかかるこの感じ。


 ハイロ、物事には順序があるんでしょ?


 起承転結とは誰が初めに言ったのか。うまいこと言うもんだ。

 全てのものに〝はじめ〟があるように、全てのものに〝おわり〟があるのも当然。彼女が言いたいこともきっとそういうことなんだろう。

「アリス、おまえ…」

「そうだなぁ…、もし私があの物語の主人公だとすれば迷わず〝②〟を選ぶ。ハイロはどう?」

「……②が正解になれる確率は?」

「残念だけど0パーセントかな…」

 アリスは腰の後ろに隠していた自分の手を前に出す。左手に支えられる右手はだらんと力が抜け、指の先まで弛緩していた。

「さっきから右手動かないの。頭で命令しても拒絶される感じで、身体が少しずつ言うことをきかなくなってきてる……。そのうち立ってもいられなくなるかも。やっぱり、これって役目を終えたからなんだろうね。こうなること覚悟してたつもりだったけど、いざ迎えてみると……なんて言えばいいのかな…」

 雨は降っていない。

 けど、アリスの足元はわずかに濡れていた。頬を伝わる光の粒が止めどなく溢れていく。耳元を風が吹き抜け、生暖かさにひやりと冷たさが感じられる。涙の意味など訊くまでもない。

 アリスが突然動かなくなる場面を俺は何度か目撃している。四肢が脱力し、色を失った瞳はくすみ、まるで糸が切れたマリオネットのように崩れ落ちる。

 俺は自分でも気づかないうちに恐怖を抱いていたのかもしれない。

 いつか彼女がいなくなる時が来る。それを忘れようと、もがいていただけなのだ。

 自分に苛立つ。

 結局、俺は逃げてるだけだった。父さんと何ら違わない。

「アリス…」

 そう呟く。

 自分でもどんな表情をしているかわからなかった。

 アリスは一度俺を見ると軽く目を閉じた。俺は慌てた。ふわりと覆いかぶさるように彼女が倒れ込む。胸元に顔が埋まる。正面から受け止めた華奢な身体は柔らかく、温かかった。

「お、おい、大丈夫か!?」

「ごめん、ハイロ…、ホッとしたら一気に力抜けちゃったかも……」

 熱に苦しむ子供が出すような弱々しい声だった。アリスを背負おうと俺は腋の下から腕を回す。だが、びくともしない。意識のない人ほど重いと聞いたことがあるが、まるで岩だ。コントロールを失い弛緩した筋肉は通常の何倍にも重く、支えているこっちが今の姿勢を保つのに精一杯だった。

「私、ハイロと暮らせてよかった…、一緒にいれて嬉しかった、楽しかった……、もっと一緒にいたいって思った。ずっとこのまま……サヨナラはしたくないな…」

「何死に際みたいなこと言ってんだ! しっかりしろよ!!」

 声をかけないといけない気がした。

 話すのをやめた途端、彼女が消えてしまう。そんな感覚さえする。

「いつものお前はどこ行ったんだよ!! 何ともないことでさえ楽しそうに笑って、怒るとフグみたいにほっぺた膨れ上がらせて……、何も知らない……、お前、好奇心旺盛じゃねーか! この世界にはまだお前が知らないことがたくさんある。俺だって知らないこと、山ほどある。何も知らないで消えるつもりかよ!!」

「……いっぱい、知ったよ…」

「いっぱいって…、何だよ…」

「私…、たくさん教えてもらったよ……、ご飯食べるのって本当においしかった、けんかしても仲直りできるんだってわかった、友達もできた、自分の足で歩いて、見て、感じて……、何も知らない私に付き合って全部教えてくれた人がいたから……、モノだった私でも人の気持ちがわかったの。だから――」

 アリスは必死に顔をあげる。重たそうにまぶたを開け、頬と口が一生懸命に笑顔を作るため動く。茜色に染まる夕暮れと同じ。赤く、透き通るその瞳に映っているもの。目の前にいるその人へ向けて彼女は言う。

「きっと私は、その人のことが好きだった……、そう…思います……」

 ありがとう…小さくそう聞こえた。

 フッと軽くなったかと思えば支えていた手に重量はなかった。彼女の目が眠りに落ちるようにしてゆっくりと閉じられ、とても可愛い寝顔へと変わる。

 俺は彼女の頭をなでた。

 黄色い髪が海へ向かってなびく。追い風だ。行く手を遮るものはない。風はクラストルドの街を吹き抜け、ゲーハさんがいるであろうベネティウスまでも届くはずだ。

 俺は彼女の身体が風にさらわれぬようしっかりと抱きしめる。以前エルラさんにもらったノースリーブの服から出る彼女の腕はちょっとした力で折れてしまいそうなほど細く、繊細であった。

 まだ温もりがある。この潤いに満ちたこの肌が冷たくなるのも時間の問題かと思うと重苦しい。自分の中から大事なものが抜け落ちたようなこの感覚は、大きな風穴となる。どこに形成されたかはともかく、ぽっかりと空いたであろうその穴を塞ぐのもはない。自分で直せるならまだいい。けど、身体の中にある免疫細胞ですら傷口にカサブタを貼ることもままならないだろう。

 言ってしまえば、ほんの数カ月間のこと。彼女がいたのはたったこれだけだ。

 そのわずかな間に一体どれだけ彼女に振り回されたことか。

 あり過ぎる。

 あり過ぎて困るぐらい、色んな事があった。物語でもよく言うじゃないか、長いようであっという間だったと。異世界でいくどもの苦難と死闘を乗り越え、ようやく元の世界に帰ってみれば、実際は半日しか経っていなかった。なんてよくある話だ。そして思う。あれは夢だったんじゃないか? そんな一言で片付くぐらい、現実は平穏で普通。火を吐くドラゴンがいるわけでもなければ、玄関の絨毯が空を飛ぶこともない。

 空想と現実には明確な線引きがある。両者は交わることなく、互いに拮抗し合い、反発する。

 なら、モノであった彼女がものとして歩んだ軌跡はどうだ? ただひとつ、愛する人へ伝えきれなかった言葉を託され、知らない土地、自分のことさえ分からない。まだ彼女が石像だった頃、表面に浮き出る無数の擦り傷や雨風の浸食した跡を目の当たりにした俺には分かる。初めはクリシャさんの山小屋に置かれた彼女を誰かが持ち出したんだろう。売り買いされたかもしれない、道端に捨てられたり、ひどければ車のタイヤに踏まれた可能性だってある。スティッカー工場前のゴミ溜めに運ばれて来るまで大変な思いをしたはずだ。

 でも、彼女は笑顔を見せた。人として初めて出会った俺をとぼけた顔で覗きこんだ。好奇心の塊というべきだろう。彼女の興味は留まることを知らず、どんなことにでも興味を持ち、疑問を投げかけ、紅に染まるその目を輝かせていた。天真爛漫で、青空の下咲き渡るひまわりのように綺麗だった彼女は真夏の太陽のような明るい少女だった。そんな彼女のことを〝モノ〟とか〝もの〟と区別することができるんだろうか?

 彼女と過ごした日々は決して悪いものじゃない。楽しかったと素直に言えるぐらい俺も彼女が側にいることに温かみを感じていた。

 ずっと感じていた違和感。

 その感じを言葉として具現化するのは難しい。けど、彼女が最後に言ったように、きっと俺も彼女……、アリスのことが好きだったんだろう。

「……楽しかったよ、アリス。こちらこそ、ありがとう。俺はお前と過ごせた日々を忘れない。夢なんかじゃない、決してなかったものにもしない。おまえは俺の大事な〝家族〟の一員だからな」

 疲れて眠ってしまった子をおんぶするそんな感じだろうか。アリスを背負うと俺はまた歩き出した。前にニーナを背中に担いた時を思い出す。彼女ほど小柄ではないがアリスの身体は軽く、ふんわりとした柔らかいシルクが背中にあたるようだった。

「このまま街まで運んでくれるんだ、本当にあなたは優しいんだね」

 背面からの声に驚いたのは言うまでもない。

「お、お前!?」

 よそよそしい上目遣いな話し方には聞き覚えがあった。アリスの姿をする彼女は俺の背中からヒョイと跳び降りる。

「久しぶりですね。ハイロード・スティッカー。病院の屋上以来でしょうか。元気そうで何よりです」

「……今さら何しに出てきたんだよ? アリスならもういないぞ?」

「そうね、彼女はあの人との約束を果たした。それはそれで私は別。私はまだあなたに用がある。だからこうしてあなたの前に再び姿を現したというわけ」

「別れの挨拶をした直後だってのに、あいつの姿で現れるのは反則じゃないか?」

「あら、お気に召さなかった? もっとも、あの子がいないとこの綺麗な黄色い髪の毛もこうなっちゃうんだけど…」

 彼女は髪を一払いする。根元から先まで鮮やかな黄色に包まれていた髪の毛がスッと色を変えた。茶色をベースに赤が入ったその髪はカップに注ぎこまれる紅茶のような色をしている。

「へー、私の髪ってこういう色してるんだ……、どう思う? やっぱりあの子と比べると変かな?」

 長く垂れ下がる自分の髪を手繰り寄せながら彼女は言う。

「……お前、俺に用があるって言ったよな?」

 彼女の質問を無視して逆に投げかけた。アリスが言っていたことを反射的に思いだしたからだ。


 私の口から言うのは簡単だけど、それは彼女本人がいずれ語ってくれると思う――。


 写真の記憶をたどった時、アリスは自分の中にいる彼女の存在を知っていた。正確には思い出したというべきか、クリシャさんの家を訪ねた時点で記憶が戻り、自分の中にいる彼女のことも理解した。そんな感じだろう。

 自分の中にいるのは亡くなったクリシャさんではないとアリスは言い切っている。確かにそうかもしれない。自分の伝言を他人に託す、そんなことせずに本人がいるなら直接出てきて話をすればいい、わざわざアリスを代役に立てる必要はないはずだ。

 早く本題に入れと俺の言わんことが通じたのだろうか。彼女は話し出した。

「屋上でのこと、思えてる?」

「病院のことか? まあ、お前が俺と母さんとの間にできた溝を埋める手助けをしてくれたことは覚えてるよ」

「そう…、ならどうして私はそうしたと思う?」

「どうしてって…」

「わからない?」

 少し考えたが首を縦に振る。

 彼女の瞳の色は変わっていた。黒い瞳孔の周りを髪の色より少し明るい茶色が覆っている。

「では、ハイロード・スティッカー。私は今からあなたの呼び名を変えようと思います。いいですか?」

「良いも何も…好きにすればいいさ。変なのだったら遠慮するけど」

「それでは、こう呼びましょう。〝お兄ちゃん〟と」

 その呼び方に身体がぴくりと反応した。

 一瞬背筋が凍る。顔が少し青ざめたかもしれない。

 俺は胸に軽く手をあてた。大丈夫、正常だ。心臓の鼓動は速くもなければ遅くもない。動揺したのは表面だけのようだ。不意を突かれ思考が乱れる。

「どういう…ことだよ!? 俺をからかってるのか! お前は…」

〝アリス〟そう言おうとして口をつぐんだ。急ブレーキをかける。今の彼女はアリスじゃない、アリスの姿をした別の何かだ。

 

 私はあなたがアリスと呼んでいるものであってアリスではない――。

 私に名前はない――。

 私は彼女アリスの身体を借りている――。


 屋上での彼女の言葉が蘇る。

 その一つ一つが繋がり、鎖のように俺の身体へと巻きつく。


 私とハイロが出会ったのは偶然じゃない、必然だったんだよ――。


 アリスがそう言ったことを俺は覚えている。別に疑っていたわけじゃない。ただ俺のネガティブな思考回路はその言葉を素直に受け止めることができず、父さんがベル・ルーフェだったからアリスはスティッカー工場へ導かれ、そこで偶々出会ったのが俺。村人Aだ。彼女が本当に会うべき相手ではない。そう解釈したんだ。

 けど、それはアリスの都合だ。目の前にいる彼女の要件とは違う。彼女は今さっきはっきりと口にしている。


 私はまだあなたに用がある――。


 物事に順番が存在するように、全てのことにはわけがある。今起きていることは過去からの連続でありその結果、半面これから起こる未来のことへ繋がる過程。

 今、こうしてアリスの姿を借りた彼女がここにいる。それに対して彼女の目的が初めから俺にあると仮定するならば、アリスの言った言葉の意味が理解できないわけでもない。


 私の口から言うのは簡単だけど、それは彼女本人がいずれ語ってくれると思う――。


 このフレーズからアリスは今いる彼女の目的を知っていたことが伺える。その後、俺の父さんがベル・ルーフェであることを明かした。

 言い換えるならこうなるのだろうか、〝彼女本人がいずれ語ってくれる〟=〝私の口から彼女のことは一切言わない〟 あの時は父さんのことで頭がいっぱいだった。だから気がつかなかった。けど、今なら分かる。アリスはたぶんこう言いたかったんだ。


 私とハイロが出会うことは必然だったんだよ。だって私の中にはあなたに会いたいって思ってる人、あなたの死んだ妹が一緒にいるんだから――。


「分かってくれたって顔になったね。お兄ちゃん」

 しばし思考の海を彷徨った俺が顔をあげたからだろう。彼女が嬉しそうに言う。

「……納得はしてないけどな。母さんと俺を仲直りさせて得がある奴なんて初めから一人しかいなかった……、そうだろう? そんなに見てて辛かったのか?」

「当たり前でしょう。私が死んだことで二人の距離を離してしまった。責任を感じてたのはお父さんやお兄ちゃんだけじゃないんだよ。まったく、安心して眠れなかったんだから」

 フンッという感じ。

 腕組をしてそっぽを向くその姿は新鮮だった。

「お前、生きてたらすごく生意気な妹だったんだろうな」

「それ、どういう意味よ!」

「い、いや…、変な意味じゃなくて…、その…、母さんに似てるなって……」

 グーパンチでも飛んでくるかと思い、防御の構えを取る。けど、その必要はなかった。

「……私、お母さんに似てる?」

 端的に一言。

「あ…ああ、似てるよ。母さん強気だし。その辺にいるチャラい男でも母さんには負けるんじゃないかな。あー見えて武術とか習ってたって昔聞いたことがあるし」

「そうなんだ…、私のお母さんってとても強い人だったんだね。初めて会ったの病院だったからそんな印象なかったんだけど」

 両手で長い髪の毛を掻き集めると後ろへ回す。どこから出したのか彼女は髪留め用のゴムで自身の毛を上手にまとめて、ポニーテールに束ねあげていた。

「ねっ、この方が動きやすいし、何か強そうに見えない?」

 2、3回。彼女はボクシングのジャブを真似する。

「それでトレーニングウェアとか着てれば完璧だったな。スカート穿いてると迫力がない」

「もう、ノリ悪いね。悪い所ばっかり言うと女の子に嫌われるよ?」

「余計なお世話だ」

「ところで、お兄ちゃん」

「ん?」

「アリスのことどう思ってたの? 好きだったの? やっぱこう何かあるんでしょう? 親子揃って似た人を好きになってるなら、お父さんの遺伝子ちゃんと受け継いでる証拠だね」

「あのなぁ、話ききたいのはこっちなんだ。アリスと関係しておまえはどういう経緯で今ここにいるんだよ? わけ分かんないぞ?」

 話し方が雑になる。

 彼女の返事は意外とあっさりしていた。

「神のチカラってやつ?」

「はぁ?」

「そう、神様。お兄ちゃんは死んだ人がどこに行くか知ってる?」

「天国とか、地獄とか…?」

 自分で言っておいて首を傾げていた。

「死んだことない人に訊いても分かんないか……、そう、例えば、世界中を見渡せる展望台みたいな所かな。そこには死んでも何らかの未練がある人たちが集められてて、意識が漂ってる感じ。望めばどんな所だって見通せる場所。そこで私はずっとお兄ちゃんたちのことを観ていたの。お兄ちゃんが毎朝起きて工場のクレーン動かす前に必ず溜め息ついてたとか、ベッドの下じゃなくて部屋の隅に置いてある本の山にこっそりエロ本隠してたり……」

「まてまてまて! そんなことまで知ってるのか!?」

「知ってるよ。文句があるならこのシステム作った神様に言ってよね。神棚にお供え物でもしたらいいんじゃない? それにしてもアレは傑作だったわ。お兄ちゃんがいない間にアリスったらその本見つけてちゃんと中身チェックしてたんだよ」

「マジで…?」

「まじ」

 発狂しそうだった。頭を抱え、もがき苦しむ。

「あっはは、サイコー。お腹痛いわ」

 つぼにハマったのか、苦しそうに腹部をかかえながら彼女は笑う。笑い事で済むならそれでいい。けど、これは男にとって一大事だ。ましてや女性に観られたんだ、右ストレート、一発ノックアウト、ゴングが鳴る。

「迂闊だった…」

 足が崩れ落ちそうになる。

「そんなエロ本観られたぐらいでへこまないの」

「へこむなって…」

「現に彼女、そのこと気にしてた? 何も言わなかったでしょ? あの天然っぷりからすると『なんだろコレ? 写真集?』ぐらいにしか思ってないよ」

「励ましてんのか?」

「もちろん」

 微笑む彼女の表情は笑っているようにも見え、一方で元気づけようとしているようだった。

「ごめん、話それっちゃったね。えっと、本題に戻すと……私そこでクリシャさんに会ったの。アリスとは違う感じだったけど、とても明るい人だった。それでね、クリシャさんが教えてくれたの。ここにいる人たちは心残りを解消してちゃんと成仏するために神様が集めたんだって、だから神様にお願いすればチカラを貸してくれることを」

「それで、今ココにこうしているのか?」

「そうだよ。お互い話をしてたら、クリシャさんが気にかけていることと、私の心残りがちょうど似てて、神様がまとめて解決しようっと言ってくれたんだ。クリシャさんが気にしてたことはお兄ちゃんも知ってるよね? でも、神様は一度死んだ者を生き返らせるのは禁忌だって言った。だからクリシャさんは自分の石像を人の姿に変えてメッセージを送ることをお願いしたの」

「ちょっとまて、ならどうしておまえは生き返ってるんだよ? 矛盾してないか?」

 彼女はくるりと翻り俺に背を向けた。

 表情を見られたくなかったのだろうか。反対方向を向いたまま続きを語る。

「……お兄ちゃん。私ってちゃんと生まれたっけ?」

「あっ…」

「私って、生まれる前に死んだでしょう? それって生と死の規定でも例外にあたるらしくて、神様は私と石像をひとつにすることを提案してきた。モノだったものをものに変えるためには両者の性質を持たせる必要があって、この方法だと色々と都合がよかったらしいの」

「都合ねぇ…」

 話を聞く限り、神様って結構面倒くさがりな気がする。『まとめて解決』とか言うぐらいだ。髭を生やしたのんきな爺さんが白い服着てぜんまいみたいにとぐろを巻いた杖を持っている。そんなイメージがぼやっと浮かび上がる。

「モノとものの融合には両者の合意がないと行えない。神様がそう言うからそうなんだろうけど。理屈はともかく、私は石像に語りかけた。『私のチカラをあなたにあげる。だから私にも協力してね』って。お互いの了承が得られたところで神様は私たちをひとつにした。まあ、ここまではよかったんだけど、私たち、融合の反動があってアリスは記憶喪失。私も気絶した状態になっちゃって、ひとつになったんだけど石像のままだったの。しばらく色んな所を転々と運ばれたんでしょうね。最終的に行き着いたのが丁度あの工場だった」

 覚えてる。声の出る奇妙な石像だった。初めは小型マイクでも付いたイタズラ用かと思ったくらいだ。

「お兄ちゃんに拾われてアリスが起きたように、私もそこで気がついた。そしたらお兄ちゃんすごい表情して修理工具持ってるんだもん。思わず私言ったの。【……大丈夫。壊れてなんかいないよ】って、後は知ってる通りだと思う。それが鍵みたいな役割を果たしたのかな? 石像モノは無事、ものに変わりました」

 ちゃんちゃん♪

 彼女の話の終わり方は絵本の読み聞かせのようだった。これで物語はおしまい、彼らは幸せに暮らしましたとさ。

 聞いていた子供たちは余韻に浸る。あのキャラクターが面白かったとか、続きがあるならこうなるのかな? 考え、時に夢にも出てくるだろう。豊かな感受性が育まれていく。

 絵本の読み聞かせには物語を理解し易くする工夫がなされている。一番はイラストだ。見ただけで登場人物が今何をしているのか一目瞭然。可愛らしい絵はそれだけで子供が好感を持つ。それに加えてナレーション。説明が入ると耳からもその情報が脳へ伝わってくる。起承転結が明確で、目と耳、2つの感覚受容器が活動しているのだ。大人になっても子供の頃読んでもらった絵本や紙芝居はそれだけ印象にも残る。

 ここまでの彼女の読み聞かせは一部抜けていた。

 子供なら気がつかないかもしれない。けど、俺はもう絵本に満足する歳は卒業している。

「お前の心残りって何なんだ? 解決できたのか?」

 振りかえった彼女の目に涙があった。

「その質問を待ってたんだよ…」

 吹き付ける風がさっきよりも強くなっている。頬を伝う雫は風にさらわれ、宙を舞う。結びあげたポニーテールが旗のようだ。

「私の心残りは家族に会えなかったこと。でも、それは叶った。お母さんとは病院で話をしたし、お父さんの時はアリスの中だったけど、どんな人なのか見てて伝わってきた。今こうしてお兄ちゃんとも話ができて楽しかったよ。でもね、もうひとつあるんだ…」

 両手で涙を拭う。鼻をすする。

 どこから運ばれてきたのか、桃色の花びらが何枚も舞っていた。

 彼女の言葉も風に乗る。

「私に名前を付けて欲しいの」

「名前…?」

 記憶を呼び戻す懐かしい響きだった。以前、黄色い髪をした少女にも同じことを言われ、俺は彼女に名前を授けたことを思い出す。

 すべての始まりにあたる言葉。その意味を再び噛みしめる。

「私がまだお腹の中にいた頃、あの船の上だったかな? お兄ちゃん、生まれてくる私に名前付けてあげてってお母さんから頼まれたでしょう? お腹にいたからって私が聞いてないとでも思ってた? まあ、ちょっと言い過ぎか……、私も完璧に記憶にあったわけじゃないから半信半疑なところもあった。でも、屋上でお兄ちゃんの話を聞いて確信が持てた」

 鼻声混じりに彼女は言う。泣くことを抑えている、俺にはそう捉えられた。

子供は生まれる前から外界の影響を受けるといわれる。将来音楽の才能を開花させて欲しいと願い、お腹にいるうちからクラシックやモーツァルトなどの曲を聴かせる親がいるくらいだ。その効果が曖昧で記憶に残らないとしても感覚的に覚えている可能性も捨てきれない。

「そっか…、屋上で話を聞いてくれたのはお前だもんな。参ったな……、結局あれから名前考えたことなかったんだよ。悪いとは思ってる…」

「直感でいいよ」

「え?」

「お母さんが言ってた。名前を付ける時は直感が大事だって。アリスの時もそうしたんじゃないの?」

「それは確かにそうだけど…」

「なら、そうして。私、お兄ちゃんが名前決めてくれたら成仏するつもりだから」

 軽々しいようで、重みのある返しだった。

 彼女の涙の理由はここにある。そう暗示させる内容が一言に凝縮されている。

「……母さんには何も言わないで行くつもりなのか?」

 意図することが分かったからこそ、俺は尋ねた。

「そうするつもり。アリスの前例がある。石像モノものになったことを信じてくれる人が何人いた? みんな非現実的だって言って、お兄ちゃんの言うこと信じてくれなかったでしょう? 死んだ人間が生き返って会いに来た。なんて言っても同じだよ。お兄ちゃんぐらいしか信じてくれないよ」

 風で乱れた髪など気にせず、彼女は押しつけがましい態度をみせる。

「けどな…」

「けど? 何?」

 おまえはそれでいいのか?

 本当にいいのか?

 やっと会えたんだ。なのに……。

 思うだけで、声にならない。彼女の目は俺を睨むようだった。

 彼女はもう泣いていない。

 彼女の心の声が聞こえたわけでもない。

 けど、こらえている、必死に、ぐっとつむぐ口元はわずかに震え、今にも言葉が漏れ出しそうだ。もう一滴たりとも涙を流すものか、表に出せばきっと自分の決意は揺らいでしまう。

 だから…、そんな彼女だったからなのか、代わりに俺は代弁することを選んでいた。

「行きたくない」

「エッ…」

「本当は成仏なんてしたくない…」

「お兄ちゃん……、何言って……」

 呟くというか、ぼやくようだった。ぽつぽつと降る言葉の雨音は大きくなる。

「食卓を囲んでみたい、お出かけだってしたい、このまま家族と一緒に――」

「やめてッ!!」

 鋭い声に空気が震える。

 彼女の目がしらは熱くなっていた。

「もういいよ…、お兄ちゃん。分かってる。自分の気持ちが今どうなってるかなんて、私が一番よく知ってる…」

「ごめん、余計なことしたな……」

 彼女は首を振る。

「ううん、そんなことない。むしろ嬉しいよ。お兄ちゃんは私のこと気にかけてくれたんでしょう? 分かってる。私だってそんなに馬鹿じゃない」

「ならどうしてだよ? 俺が名前を決めたら消えちまうんだろ? だったらこのまま……」

 俺の唇に人差し指があたった。彼女の指は白っぽく、手首にあの緑色の石が付く腕輪が光る。

「あの子がお兄ちゃんのこと好きになったのも分かる気がする。だって優しいもん。気遣いできる男ってきっとモテるよ」

 抑えつけられているわけじゃない、そっとあてられる彼女の指。口は動かない。麻痺、拘束、そういったものでは言い表せない感覚……そう、これは魔法だ。今俺は魔法をかけられている。だから彼女の指が離れるまで声は出ないだろう。

「お兄ちゃんの言う通りだよ。本当はこのままでいたい。それが私の本心。でも、私は死んでる。もうこの世にいない人なの。今、こうして話をしてる時間があるだけでも幸せなことなんだよ……。ねぇ、お兄ちゃん……、この世界の人たちは自分と個人を認識し、互いに褒めたり、怒ったり、尊敬だってできる。その人が存在して、何をしていたのか、どんな人だったのか、それを誰かに伝えるためには名前が必要だと思わない? 名前は、その人がこの世界にいること、いたこと、その両方を証明してくれる…」

 すっと指が唇を離れた。

 微笑む。彼女の笑顔は天使のように思え、これから消えてしまう人の顔ではなかった。

「だから私に名前を下さい。私は私としてここにいた……。その確かな証を、私は望みます」

「お前…」

「〝おまえ〟じゃない。……名前で呼んでくれる?」

 頭に俺の見たことのない光景が思い浮かんだ。川が流れている。清く、美しく、しなやかに流れる水は冷たく、澄ませば心地よいせせらぎが耳を打つ。

 何かが視界を過ぎる。桃色で、薄く平たい。

 目を凝らす。さっきの花びらだ。風に運ばれ、不規則に舞い上がるそれは何かを彷彿させる。

 あの絵本の内容を――。


『ねぇ、アリス。わたし、あなたがいなくなるのはさみしいわ。このままこっちの世界に残ることはできないの?』

『そんなこと言わないで、私だって○○と別れるの嫌だよ』

『じゃあ、どうして? わたしたち一緒に旅をしてきた仲間じゃない』

『○○は友達想いだね……、知ってる? 私って元いた世界に友達がほとんどいないんだ。いつも独りで本を読んでばかりだったから、お母さんも心配しちゃって……。でもね、私この世界で○○と会えてよかった。皆とも。 皆がいたから頑張れた。支えてくれたから挫けなかった。だから私、元の世界に戻ったら勇気を出して声をかけてみる。○○みたいな友達ができるように頑張る。そう思えたのも○○たちと会って一緒に旅ができたからなんだよ』

『アリス……また、会いにきてくれる?』

『もちろん。○○は私の大切な友達だからね』


 絵本アリス・イン・ワンダーランドのラストシーン。主人公と仲間たちは花びらが舞う中、全てが始まったスイルディーンの街。その川のほとりで別れを告げる。共に旅をした仲間の中に、波を連想させるようなウェーブがかった青い髪の子がいる。名前はセナ。水の精霊だ。父親は人間、母親は精霊という境遇に生まれた彼女は、主人公アリスとも年齢が近く、とても仲が良かった。

 けれど彼女は、魔女との戦いに向いているとは言えなかった。他人思いな彼女は敵であれ、誰かを傷つけてしまうことに抵抗を抱いていた。胸に刃物を突き立てれば心臓が止まる。喉元を掻き切れば鮮血に身が染まる。誰かを殺める覚悟が彼女にはなかった。

 しかし、敵に情けをかければ、その分仲間が危険にさらされる可能性が高まってしまう…。彼女の握るナイフはいつも震えていた。小さいとはいえ、立派な凶器。あたれば傷がつく、血が出る、相手を殺すものであることに変わりはない。

 自分は足手まといなだけじゃないだろうか? 苦悩する彼女に声をかけたのはアリスだった。


『無理に戦う必要ないよ。自分にできることをすればいいと思う』

『でも、わたし…』

『セナ、私もね。戦うのはキライ。争いって憎しみを繰り返すだけ、永遠に終わるものじゃない』

『じゃあ、どうしてアリスは戦うの? 戦えるの?』

『戦ってるんじゃない、守ろうとしてるから。言葉遊びかもしれないけど、間違ったことをして皆を困らせているのが魔女だとするなら、私はそれを止める。倒すんじゃない、気づかせる。悪者って一方的に決めつけてるけど、あっちにはあっちなりの理由があると思うんだ。でも、間違ってることをしてるのに放っては置けないでしょう? だから剣を取る。私の力は皆を守るために使いたいから』

 

 セナはナイフを捨てた。自分にできることは皆を想うことだと気がついたから。

 手を汚すのが怖いんじゃない。私は皆を助ける側に回ろう。支えよう。それだって立派な戦いだ。

 物語でセナは治癒のチカラに目覚める。以降、彼女はこのチカラを使っていく。後衛に回り、傷を癒す。チームのサポーター、誰よりも仲間想いな彼女らしい戦い方だった。



「セナ…」

 思い出したその名を俺は呟いた。

「セナ? それが私の名前?」

「……アリスの名前、絵本から取ってきたことは分かるよな?」

「うん、知ってる」

「物語の中、アリスや仲間のみんなを支える立場にいた子がいたんだよ。お前みたいだって思った。お前は俺や母さんの仲を取り持ってくれた。ずっと心配してくれてたんだろ? それに、アリスの中にいた。彼女が困った時もさりげなく手を差し伸べてあげたんじゃないのか? ……お前は優しいよ。俺が保障する。だから、セナって名前がいいと思う」

「……これであの子と対等かな」

「?」

「何となく思ってた。あの子に絵本の名前付けたから、私にもそうするんじゃないかって」

「嫌…だったか?」

 彼女は静かに首を振った。

「ううん、むしろ逆。とっても嬉しい。ありがとうお兄ちゃん…」

 すーっと語尾が抜ける。セナの姿がわずかに透明になり、重なるようにして向こうの景色が見えた。

 目をこすった。けど、セナの姿は変わらない。

 薄くなる。砂時計の砂が減っていくように、少しずつ。

「お別れ…か?」

「うん、そうみたい」

「会えてよかったよ。ありがとう、セナ。また来いよ。今度は母さんにもちゃんと顔見せに」

「……2度目があるとは思えないけどね」

「それでもいいさ。セナって子は俺の妹で、この世界に確かに存在した。なら、いつかまた逢えるかもしれないだろ? もう会うことないと思ってた父さんにだって会えたんだ。セナに会うことだってそう難しいことじゃないかもしれない」

 セナがくすっと笑う。

 アリスにそっくりだった。

「そうだね、そうかもしれない……。その時はあの子も一緒に連れて来るよ。告白されたんだもん、返事してあげないとかわいそうだよ?」

「そうだな、ちゃんと考えとく」

「よし、じゃあ、サヨナラは言わないことにします」

 俺の視界に映るセナは、小さく手を振っていた。

 俺も手を振り返す。

「またね、お兄ちゃん」

「ああ、待ってる。いつかまた、セナとアリス、二人に逢えるのを楽しみにしてるよ」

 セナの姿は風景へ溶け込んでいく。

 光は身体をすり抜け、混ざり、その輪郭を消失させた。見えなくなっただけ、本当はそこにいるんじゃないか。そう思えた。

 彼女が立っていたところ。その足元。

 そこに見覚えのある小さな石像がひとつ、置かれていた――。



              ◆◆◆


 いつもの部屋。

 慣れ親しんだ金属や塗料の臭い。隅に積まれる本の山。田の字型の窓。古い蛇口の付いた流し台。

 接着剤のキャップを閉めた。塗った場所どうしを慎重に付け合わせる。腰からタオル。はみ出た残りを拭き取る。修理工具でテーブルは溢れていた。空いてるところを探し、直したモノをそこへ置く。

 そこだけは空けてある。

 俺の座るところから見て左斜め前。ガスコンロに近く、奥の休憩室からは遠いテーブルの端。かつて彼女がよく座っていたそこは未だに椅子が引かれたままだ。

 彼女はもうそこにはいない、でも、そこにいる。

 唯一空いているそのスペース、テーブルの上には石像が置かれている。

 彼女が付けていたブレスレッドとともに。

「接着剤、乾いたら教えてくれよな…」

 

 モノは語らない――。

 モノは動かない――。


 けど、


 ものは語る――。

 ものは動く――。


 違いはある。大きな違いだ。両者を否定するわけでもない、むろん、肯定もしない。

 けれども、俺は知っている。

 どちらにも当てはまらないそれを、きっと彼女ならこう言うのかもしれない。


 それは、〝モノもの〟じゃないか――と。




               END

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モノもの ふじはる @kiruha

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