第5話 私を作った者 ②

 その日は、誰かが亡くなった。

 温かな春の日差しに包まれる病室。純白のベッドで眠る彼女は優しく、穏やかな表情をしていた。

 悪い魔女に呪いをかけられたのだろうか? 彼女の目が開くことはなかった。冷たく、ピクリとも動かない身体。まるで彼女だけ時間が止まったように思えた。

 ものはその役目を終えると、モノへと姿を変える。

 彼女の姿はまるで私みたいだった。そこに彼女というカタチがあるだけの抜け殻。彼女が再びものとしての役割を担うことはない。

 命あるものいつかは死ぬ。それがこの世の理。抗うことは許されない。

 彼は何も言わなかった。

 ただ私を握りしめ、忘れまいと必死に彼女の姿を目に焼き付けていた。

 彼女は花のような人だったと彼は言う。太陽のような温かさと、透き通る夏の青空に向かって一心に花開くあの花のように。

 彼女がものとして役目を終えたように、あの瞬間、きっと私もモノとしての役目を失ったのだろう。

 ならばモノとして終わった私に、どうしてものとしての役割があったのだろうか。


 それは彼ではなく、もしかするとベッドに横たわる彼女の方が知っていたのかもしれない――。


              ◆◆◆


「アリス…、おいアリス! 着いたぞ」

「う…、う~んハイロ…、おはよー…」

「おはようって…寝ぼけてるのか? ベネティウスに着いたんだぞ」

「えっ、…イタッ!?」

 ゴンッと鉄板の音が響いた。セスナの天井に頭を位打ち、アリスは痛そうに頭を抑える。

「大丈夫か!? 気をつけろよ、狭いんだから」

「うう…、ごめんなさい……あれ? ゲーハさんは?」

「ああ、先に行ったよ。ちょっと用事があるんだってさ。30分後にまた落ち合うことになってる」

「そーなんだ。何だろうね用事って?」

「さあな。まあ、ゲーハさん多忙そうだし。色々あるんだろ。俺たちは街でも見て歩くか。何か情報あるかもしれないし」

「うん」

 桟橋に降り、準備されていた固定用ロープをセスナに括り付ける。初フライトは緊張したが大きなトラブルもなく飛行は順調だった。感謝の意を表し、俺たちは機体に一礼してから出発した。

 ベネティウスはアスナザール大陸の東の港町にあたる。芸術が盛んな所で、世界中で活躍する有名な画家、工芸家、彫刻家の多くがここにアトリエを構えていると言う。俺も来るのは初めてだ。クラストルドが白なら、ベネティウスは茶といったところか。レンガのような色をした岩石を丁寧に敷き詰めた道や建物には目を見張るものがある。また、それに呼応するように広がる青い空と海。バックに緑広がる山岳地帯の地形を活かし、見事にマッチしたコントラストと爽快感に心惹かれる芸術家が後を絶たないのも分かる気がする。

 少し歩くとメインストリートに入っていた。やはり港町、たくさんの人で溢れ、道の両脇には商店がすらりと軒を連ねている。クラストルドと似た雰囲気も感じられるが、やはり新鮮さがある。足を進めながらざっと左右を見る限り、店先で扱っている商品は海産物よりも工芸品の方が多い。置物や絵画、アクセサリー、どれもここで活躍する芸術家たちの作品を売っているのだろう。種類が豊富に揃えられている。

「ハイロ! ハイロ!!」

 前を歩いていたアリスが店先から俺を呼んでいた。足早に駆け寄るとすぐさま彼女に腕を掴まれた。店員さんの『いらっしゃい』という声が遅れて跳んでくる。

「ねぇ、みてみて! この貝のネックレスすごくキレイなんだよ!! あっ、あっちのもサクラ色してて可愛いかも」

「欲しいのか?」

 テンションの上がったアリスに俺は尋ねる。

「ほしいけど…がまんしなきゃいけないってわかってるよ。ハイロ貧乏さんだもんね」

 グサッと矢が突き刺さる……感じがした。

 なら何故呼んだ? 見せたかっただけか? 直接言われると心が痛む。

 俺は腰に手を伸ばし財布を取り出した。中身をチェックすると札が3枚、小銭が少々といったところ。極端に高いものでなければ一つぐらいこの店の商品が買えないわけでもない。

 目線を横へとスライドさせる。

〝我慢する〟と言い張った割に、アリスは店から動こうとしていなかった。おもちゃが欲しくて諦めきれないと粘る子供と同じだ。商品を凝視したまま唸り固まっている。そんな様子を見ながら、俺はもう一度財布に目を落とす。

 そういえば、今までアリスに何かあげたことなかったな……。

 そんな考えがぼやっと頭に浮かび上がる。直後、俺はハッとした。慌てて首を震わす。いやいや、プレゼントとか何考えてんだ。そういう意味じゃ……って、そういう気があるわけでもなく……。

 何気なく、俺は店先の手近なファッションリングを一つ掴んだ。適当に選んだものだったが、リングの表面にはとても微細な模様が描かれており、綺麗な色で全体が仕上げられていた。普段からモノを直しているとこういう所に目が行きがちになるのは自然な反応なのかもしれない。

 それにしても、これ一つ作るのも大変な時間と労力がかかっているのだろう。

 リングの裏にはC・マリーと名前が彫られていた。これを作った人の名前だろうか? 俺は芸術に詳しくない。けど、このリングには作った人の想い、マリーさんという人の気持ちがたくさん込められていることは分かる。自分の作品が誰かの手に渡り、その人が使ってくれることを切に望み、今ある自分のチカラ、ありったけの情熱を注ぎ込んで一生懸命に作られたモノ。この店には同じ形や色をしたものが多数あるが、ひとつとして同じモノは存在していないだろう。

 アリスにも制作者がいる。少なからず彼女を作るにあたって同じように想いを込めたはずだ。

 どんな想いを込めたのだろう? 

 一体アリスはどんなものを抱えてこの世に生れて来たのか?

 いつも明るく、一生懸命な彼女の姿を見ていると、少し前までモノだったという事実がだんだんと薄れてくる。今この時間がいつまでも続くとは限らない。彼女がものとして存在しているこの瞬間も、あの時、工場の前で俺が見つけなければ無かった時間だったかもしれないのだ。

 そう思うと自然と言葉が出ていた。

「どれがいいんだ?」

「え?」

「せっかく遠出してきたんだ。記念に好きなやつ買ってやるよ。さっきのネックレスか?」

「あ、えっと…、ハイロ、無理しなくていいんだよ…? 私はただハイロにも見てもらいたかっただけで…」

 アリスが遠慮がちに俯く。左右の人差し指がくっついては離れるを繰り返す。

「遠慮すんな。こんなこともあろうかと、少しはお金貯めてたんだんだぜ」

「ほんと…?」

「本当だよ」

 嘘をついた。でも、悪い嘘じゃない。

 アリスの表情が喜びにあふれる。俺もホッとしたというか、嬉しかった。二人で知らない土地を見て歩いた。その証。何か思い出に残るものがあってもいい、そう思っただけだ。

「えっとね……じゃあ、コレとコレがいい!」

 アリスが手にしたのは、小さな丸い緑色の石がついたペンダントと同じ石の付いたブレスレッドだった。良く目を凝らしてみるとどちらの石にも十字の模様が入れ込まれている。

「え…、どっちも欲しいのか?」

「うん。二つとも」

「どっちか一つってのは……ダメ?」

「えー、ハイロ好きなやつ買ってやるって言ってたじゃん」

「まあ、言ったけどよ…」

 チラッと値段のついたタグを確認する。うお! 高っ!? 片方ならまだしも二つとなると手持ちのお金ではどうにも手が届かない金額だった。

 アリスは引き下がりそうにない。となれば、取る行動は一つに絞られる。

「すみません。コレ、まけてもらえませんか?」


              ◆◆◆


〝アリス〟という少女の姿を初めて見た時、ワタシには違和感があった。

 以前どこかで同じ髪の色をした女性を見たような気がしてならないのだ。

 ベネティウスの中心にある茶色い円柱形の役所。その待合室のソファーにワタシは座っていた。さすがにこの街の住人は理解がある。有名人が側にいても大騒ぎを起こさない。それが日常という風に歩く人々は通り過ぎていく。

「ゲーハ・ツーウォ様。お待たせしました」

 スーツ姿の真面目そうな男性がワタシに近づいてきた。先ほどカウンターで受け付けを行ってくれた青年だ。手には封筒を持っている。

「オウ、どうデシタか?」

「はい。確かに《クリシャ・チャーチル》という方はベネティウスに在住されていました。もう20年も前になりますが役場で最後に確認した時は婚姻届を提出された時でいた。ですが…」

「?」

「調べたところ、入籍は受理されていませんでした。本人、またはご家族から中止の申し出があったようです」

「中止? 理由は分からないのデスか?」

「申し訳ありませんが、こちらから言えるのはそこまですね……詳細は諸事情としか記録に残っていなかったもので…」

 青年が封筒からA4版の用紙を取り出す。当時の入籍手続き記録のコピーだった。確かにその他の欄に《諸事情により撤回を申し上げます》と書かれてある。本人の筆跡だろうか? それにしては大きく荒れた字だ。

「コレ、できればお借りしたいのデスが、個人情報等の面から大丈夫デスかね?」

「ええ、構いませんよ。住所こそ記載されていますが、現在は使われていない空家のようですし。その他の重要な情報に関しては、ご覧の通り名前以外は意図的にこちらで消させて頂いてますのでご心配はいりません」

 意外とあっさり青年は返事を返す。

「サンキューデス。感謝しマス」

 立ち上がると青年はもう一度声をかけてきた。

「あの、ゲーハさん。今度一度あなたのアトリエをお訪ねしてもよろしいでしょうか? ぜひ、あなたがを作る姿を拝見したいのです」

「いいデスよ。いつでも都合のいい日にいらして下サイ」

「あ、ありがとうございます!」

 役所を出ると日差しが強かった。腕時計を確認。ハイロードさんとの待ち合わせ時間までまだ余裕があった。ゆっくりと行くことにしよう。

 ワタシの名前はゲーハ・ツーウォ。有名になってしまった仏像職人だ。最近は育毛の万頭《まんず》という髪の毛を司る仏像を制作している。男性の髪の毛は衰退する一方だ。近年ではストレス性の脱毛病というもの存在が確認され、女性といえど、髪の毛の悩みを抱える者は少なくない。ワタシは直接何かをしてあげることは出来ないが、せめて彼らの心の支えになるモノを作ろうと思い立ったわけだ。しかし、どこから情報が漏れたのか、出先で髪の毛に悩む人々に追いかけ回される原因になってしまうとは、なんとも不運だった。

「本当、ハイロードさんには感謝しきれマセンね」

 そういえば彼らにこの話はしていなかった。まあ、後で話す余裕もあるだろう。

 その時、また話すことにしよう。


              ◆◆◆


 メインストリートを離れ、両側が茶色の建物に囲まれた道をしばらく歩くと円状に開けた場所に行き着いた。中央に曲がりくねった鉄柱が立っている。ベネティウス到着時にゲーハさんが指定した待ち合わせ場所に間違いないだろう。

「ハイロ、本当にお金あったの?」

「……気にするな」

 アリスの手には紙袋があった。中には先ほど店で購入したペンダントとブレスレッドが入っている。店主は中々の強敵だったが、俺は頭を下げ続け、どうにかこうにかで値切ってもらえた。

「それにしても何で二つ欲しかったんだよ? 一つあれば十分じゃ…」

「はい」

「おっ!?」

 アリスが袋の中から取り出したペンダントを俺に手渡す。

「私のはブレスレッドで、ペンダントはハイロの分ね」

「ちょ、おいおい! 俺の分って…?」

「…ハイロとおそろいにしたかったの。私、普段はネクタイすることもあるからブレスレッド。ハイロならペンダントしてても変じゃないでしょ」

「それで…、二つ欲しかったのか?」

「うん」

 アリスが嬉しそうに笑みを浮かべながら手首へブレスレッドをはめる。俺はしばらくペンダントを貰ったまま棒立ちしてしまった。

「つけないの?」

「えっ、あ、ああ…」

 首にペンダントをくぐす。紐の長さはピッタリだった。胸元で緑色の石が光る。

「その石。アレに似てない?」

「?」

「丸い形にばってん…、《ネジ》みたいでしょ? さっきのお店で見つけたとき、前にハイロが私にネジの閉め方見せてくれた日のこと思い出しっちゃったの」

 そういえば、そんなこともあった。

 あの時はアリスと喧嘩してエアコンパネルの修理が遅れてた。〝変〟って言ったとか言ってないっていう話から始まって、今思うとお互いどうでもいいようなこと言い合っていた。

 また、アリスが初めて仕事を手伝うと言った日でもある。どこにでもある普通のネジがキラキラと宝石のように煌めき、俺の中でも彼女の存在が温かく、安心できるものであったことが分かったあの時。

 俺が見つけなければアリスのものとしての時間が始まらなかったのと同じだ。俺もアリスと出会わなかったらずっと一人止まっていた時間の中で動き出すことはなかったんだと思う。

 アリスと会うまで、俺はこの工場で毎日仕事して、食って、寝て。独りでいることに何の疑問も抱かなかった。でも彼女が居候するようになってから、独りじゃないことに対し少なからず違和感を感じ始めた。やかましいと怒鳴ったり、呆れて溜め息が漏れたり、一緒にご飯食べたり。昔なら当たり前だった家族との生活を思い出すようだった。

 だからこそ、俺は母さんに会いに行くことを選んだ。

 今だから分かる。アリスが変わったように俺も彼女がいたから変われたことがたくさんあった。

「………」

 なんだか目の周りがじんわりしてきた。ぐっとこらえる。

「ど、どうしたの急に? 私なにか変なこといった?」

「い、いや…、何でもない。それに変なのは元からだろ?」

「むむうっ! そういわれるとなんか嫌なこと思い出してきたかも…」

「おっ…! やるか?」

 俺は挑発してみた。返事の前にアリスは周囲を見渡す。

「……やめとく。あまりさわぐと周りに迷惑じゃない?」

 よく見ると子供から大人、老夫婦といった面々がここにはたくさん来ている。追いかけっこする人、ベンチに座って話をしている人、散歩を楽しむ人、様々だ。

「きっとここ、公園なんだよ。この街の皆が大事に使ってる場所で喧嘩なんてみっともないでしょ?」

「……驚いた」

「え?」

「おまえの口からそんな言葉が出てくるなんて、成長したな」

「ま、まあ…、私だっていつまでも子供じゃないんだし」

 アリスが顔を掻きながら言う。

 そうだな。いつまでも同じ時間は流れないものだ。

「お待たせしマシタ! 合流場所がちゃんと分かったようで良かったデス」

 俺たちを見つけたゲーハさんが駆け寄る。何が入っているのか、手には封筒を持っていた。

「ゲーハさん! 用事は済んだんですか?」

 俺が尋ねるとゲーハさんは親指を立ててきた。

「ばっちり終了シマシた。では行きますか。《ベル・ルーフェのアトリエ》へ」

「えっ!?」

「そ、それってどういう……」

 俺とアリスは驚いた。ゲーハさんは可能性の話こそしていたが、ベネティウスにベルのアトリエがあるという確証はないと言っていた。今の発言からするとゲーハさんは俺らと別行動中に何らかの確証を得たということになる。用事というのはそういうことなのだろうか?

「話は後にしまショウ。この封筒に書いてある住所。そこが怪しいと思うのデス」



 少しずつ空が近くなって行く。代わりに海と街からは徐々に遠くなって行く。

 足元には石ころや木の枝が転がり、潮風が吹くたびに木々が囁くようにザザッと葉を震わせている。

 封筒の中身は婚姻届だった。名前と重要な部分は消されていたが、書かれていた住所はベネティウス後方にそびえる山中を示していた。ゲーハさんによるとちょうどそこは小高い丘になっているという。そこがベルのアトリエだというのだろうか。少なくともゲーハさんはそう睨んでいる。そういった顔つきになっていた。

 ただ、不自然なのはその婚姻届がキャンセルされていたこと。普通ならあまりないことだ。

「ゲーハさん。まだですか?」

 俺の足が限界と疲労を訴えていた。先を行くゲーハさんとアリスが立ち止まり、振りかえる。

「もう少しデス。ハイロードさん、頑張って下サイ」

「ハイロは修理の腕あるけど、体力ないよね」

「うるさいな…」

 セスナの運転疲れが今頃やってきたのか、いつもより足がしっかりしていなかった。それとも単に俺が怖がっているのだけなのだろうか?

 この先にアリスに関する手掛かりがあるのかもしれない。期待する半面、何もないで欲しいという気持ちが俺の心のどこかにあった。何もなければ、またいつも通りの日常が帰ってくる、そんな気がした。

 アリスは普段と変わらない様子だが、今、どんな気持ちでいるんだろう?

 期待? 不安?

 いや、きっとそんな感情は通り過ぎているだろう。

 クラストルドを出発する前の彼女は心を決めたという感じだった。不安はあるがどんな結果であろうと受け止めてやる。そういった覚悟が俺には伝わった。だからこそ、俺は最後まで彼女のやるべきことを見届ける。そう決めたんだ――。

 俺の足に再び力が入る。地面を強く蹴飛ばす。

 進もう。答えはもうすぐだ。

 長い木のトンネルが終わると広い空間に出迎えられた。頂上へ向けてある登山ルートとは外れた小高い丘。ぽつんと古びた一階建ての家がそこにはあった。三角の屋根、丸太を組み合わせて作られたログハウスは至る所に虫食いがあり、蜘蛛の巣に覆われていた。それにしても、この立地条件ならベネティウスの街並み、青い空と海の全てを眺め見降ろせるだろう。芸術活動をするのには申し分ない環境だ。

 すでに中に入ったのだろうか。アリスとゲーハさんの姿はなかった。俺は玄関へと近づく。ドアノブは楽に回ったが、取っ手が崩れ落ちそうなほどボロボロになっていた。

「アリスー!、ゲーハさんー!」

 中は静かだった。物音一つしない空間。部屋の中央にテーブルがあるだけで他には何も見当たらなかった。

「オウ、ハイロードさん!」

 何だろう? ゲーハさんが手招きしていた。何かモノを手にしている。写真立てだろうか?

ゲーハさんの下へ足を進めると奥の方で独り立ちつくすアリスがぼそりと呟いた。

「泣かないで…、泣いてもあの人は帰ってこないから…… ねぇ、泣かないで… 泣いても悲しみが増えるだけなんだよ……」

「アリス?」

 ぽつり、ぽつりとアリスの頬を涙が流れ落ちる。

 その様子には見覚えがあった。クラストルドの病院屋上でアリスが涙を浮かべながら俺に向かって言った事。よく似ている。


『あなたの様子があの人に似てたから……』


 あの時、アリスの中に潜むもう一つの意識が言った言葉。

 様子? 似てた? あの人って…。

 何か大きな歯車が回り出したような感覚だった。身の毛がよだつ。何だ? 俺は何か気づいているのか? この胸の違和感は一体…?

「私の読み通りデシタ。ハイロードさん。コレを見て下サイ。部屋に置いてあったのデス……」

 俺が途中で立ち止まってしまったので、ゲーハさんの方が俺に向かって来た。

 近くに来るなり写真立てを差し出してきた。

 写真に焦点があう。

 網膜に像が上下左右反転に投影され、視神経が情報を脳に伝達する。

 一瞬、ほんの瞬く程度、俺は自分の目を疑った。脳が情報を誤認した? そんな有りもしない事さえ信じたくなるくらい自分の目に移るモノを受け入れがたかった。

「こ、これって…!?」

「ハイロードさん。この写真、あなたなら誰に見えマスか…?」

 黄色い長い髪に赤い瞳。服装は違うが写真に移っていたのは人の姿をした現在のアリスそのものだった。白いベッドをわずかに起こしカメラに笑顔を向けている。 俺は身体がこわばった。心臓の鼓動が遅くなったようにドクンと一回の脈がゆっくりと全身に広がっていく。

 ギギギっと床が軋む音がした。写真に目を奪われているとアリスがゆっくりと近づいてきていた。

「ハイロ、私ね…、ここに入った瞬間、全部思い出したんだ……」

 一歩一歩距離が縮まるたび、俺の背筋はゾクゾクしていた。気温が高いはずなのにまるで極寒の地に立たされているような感覚。身体が凍りつきそうだった。目の前にいるのがアリスだというのに手が震えて止まらない。

 怖い――。 彼女に対してそう感じてしまっている。

 写真の女性はなんだ? 一体アリスと何の関係がある?

 そればかりが頭を過ぎる。

「ハイロ震えてる。もしかして私のこと怖がってるの?」

「そ、そんなこと…」

「私は私だよ。その写真の人とは違う」

 アリスが俺の持つ写真に手を伸ばす。驚く程なめらかな動き、ゆったりとしているけれどスキがない。一度掴まれたらどんなに力が強くても確実に奪われる。そんな確信があった。

「待って下サイ」

 アリスの手首を別の手が掴む。ゲーハさんだった。

「あなたには訊いておかねばならないことがありマス。もしかしてあなたはクリシャ・チャーチルなのではないデスか?」

「……いいえ。私はアリス。さっきも言ったけど、あの人とは違う」

「なら、ならば何故? あなたはクリシャと同じ姿をしているのデスか! 以前ベルはこの写真を片手にワタシを訪ねてきたのデス。人を題材に彫刻を彫るためにはどうすればいいのか。1から教えて欲しい。そう言ってマシタ。ワタシには彼女とあなたの見わけがつかないのデス!!」

 二人の会話が良く分からない。クリシャ? それがこの写真に写っている人物なのか? どうもゲーハさんは何か知っていた感じがある。もとから? いや、そんな素振りはなかった。

「ゲーハさん。私の姿があの人に似ているのは、あの人をモデルにして《ベル・ルーフェ》が私を作ったからなんですよ。詳しくは言っても信じてもらえないかもですけど」

 アリスがゲーハさんの腕をはらい、俺の方に向き直る。その目は紅に染まっていた。あの時と同じだ。彼女の瞳に吸いこまれるような感覚。赤い炎に身を焦がされてしまうような気がした。

「ハイロ。写真を借りてもいい?」

「あ、ああ…」

 俺は写真を手渡した。アリスは黙って受け取る。

「ハイロ。一緒に来て」

「え?」

「ハイロには見ておいてほしいの。私が生まれた理由を……」

「見るって…、そんなのどうやって……!?」

 目を閉じたアリスの手の上で写真が輝き出す。瞬く間に部屋中が温かい光に包み込まれた。視界が黄色一色に染められ、鮮やかな黄金色の光が夏に咲くひまわりのように思える。

「ホワッツ!? 一体何が…」

 ゲーハさんも目を眩ませているようだ。慌てている声だけが聞こえてくる。

「ゲーハさんはここで待っててください。すぐに戻ります。行こう、ハイロ」

「行くって? おまえ一体どこに行くつもりなんだよ!?」

 眩しい光の中。俺は精一杯叫んだ。

「今から私のチカラで写真の記憶をたどるの。ちょっとしたタイムトラベルみたいなものかな」

「タイムトラベル!? 何言って…」

 眩しい光の中、ブレスレッドのついた手が俺の手を握りしめる。

 アリスはそれ以上何も答えなかった。

 ただ、これだけは分かった。俺はまた、不思議な現象に直面しているんだと。初めてアリスと出会った時もそうだったが、対処する方法がない以上、身を任せるしか他にない。

 俺は彼女の手を握り返した。


              ◆◆◆

 

 気がつくと俺は不思議な空間に立っていた。

 いや、漂っていると言った方が妥当かもしれない。上下左右何もない真っ白な世界。普段下に向いているはずの重心はどこかに置き忘れたかのように身体がふわりと宙に浮く。方向感覚が狂う。手足を動かすと空を切るばかりで形あるものに触れることはなかった。

【ハイロ、こっちだよ】

 アリスの声だった。姿はない。やまびこのように何度か声が反響する。

「こっちって……ココどこだよ? わっと!?」

 返事が返ってくるよりも足が地面を捉えた。急に重力を感じたため、平衡感覚に違和感が走る。くらっと目眩に近いような感じ。一度目を閉じ呼吸を整える。

 再び目を開け、前を向くとそこには黄色い光の扉があった。

【ここは私の中。今ハイロの意識は私を媒介にして写真モノと接触をはかっている状態にあるの。その扉から先へ進めば、20年前ここで何があったのか分かると思う】

「アリス、おまえ一体……」

 そこまで言って口が止まった。

 おいおい、今さら何聞いてんだよ、最初から分かってたはずだろ?

 俺自身の声が思考と反対に語りかけてくる。悪い自分が囁きかけてくるようだ。

 アリスはものじゃない、モノだ――。

 耳元で声が止まらない。事実でありながらそれを認めたくない、必死に耳を手で塞ぐ今の自分がいる。

 違う…。

 何が違うのさ? 本当だろう。否定しようにも覆らない事実なんだよ――。

 違う! 今のあいつは……あいつは……。

 何を言っても変わらないよ――。

 そんなことない! そんなこと……。

 自分でも気づいていないのか? いや、そう考えている時点できっと俺は答えを知っている。ものとかモノって線引きするんじゃない。それは今の彼女を言い表すことができる唯一の言葉。

 その言葉を言えた時、きっと全てが解決するそんな気がした。

【ハイロ、物事には順序があるんでしょ?】

 アリスの声が俺を呼び戻す。

「……そうだったな。見てくるよ、おまえの過去。その後で話聞かせてくれよな」

【うん】

 アリスの返事と同時に俺は光の扉を押し開いた。


              ◆◆◆


 私の名前はクリシャ・チャーチル。家はベネティウス後方に広がる山の中腹にあります。街から少し離れていて小高い丘になっている所ですが、昔から自然の中で暮らすのが私の夢だったので不便はありません。毎日鳥のさえずりや風の音、木々の合間から差し込む日の光が心地よく、ここから見える青い空と海は絶景です。

 ここに住むようになったのは私がこの山で自然保護活動や山岳ガイドの仕事をしていることもあると思います。決して儲かる仕事ではなく、むしろその辺りで働く一般企業の給料の方が高いぐらいです。

 でも、私はこの仕事に誇りを持って一生懸命取り組んでいます。自分のやりたいこと興味のあることを仕事にできるのはとても幸せなことなのでしょう。

 ある日、一人の男性がふもとにある環境センターを訪ねてきました。カウンターで受け付けをしていた私はその人に声をかけられ山を案内することになりました。 彼は《彫刻家》だと言いました。名前はベル・ルーフェ。まだ若く歳も30に達していないような若々しいフレッシュな第一印象だったことを覚えています。

「ベルさんはどうしてこの山に?」

 山を登りながら私は彼と話をしました。

「今生き物の彫刻を作ろうかと思ってまして。野生の動物を近くで観察して彼らの生活や生き生きとした生命力を表現できるモノにしようと考えているんです」

「まあ。素敵な考えですね。でも、この山にはあまり珍しい生き物はいないかもしれませんよ?」

「そんな貴重な種でなくていいんです。どこにでもいるタヌキでも構わない。素朴で身近にいるからこそ、当たり前過ぎて気づかないこともあるじゃないですか」

「そうですね。私そういう考え方好きです」

「はは、そんなこと言われたの初めてだな。芸術の世界ではマイペース過ぎるとか言われてズレた奴みたいな感じ受けてましたもので」

「そうなんですか?」

「ときにクリシャさん。あなたは生き物に好かれるタイプなんですか?」

「えっ…?」

 ベルが茂みの向こうへ目配せする。私が振りかえるとそこには大きなクマがいました。2メートルはある大きな巨体に特徴ある月状の模様が額に刻まれていました。

「ムーン・ヘッド・ベアーかな? 距離も近い。目立った色を見ると興奮して襲いかかってくるとも言われているが、クリシャさんの鮮やかな黄色い髪をみても暴れずに大人しくしていますね」

 疑問を抱きながらも彼は観察を続けました。その目は真剣で、キラキラと輝いていたのを覚えています。

「普通あんな大きなクマが近くにいたら驚きますよね? 大丈夫です。私、この山に住んでいるのでこの辺りの動物は私のことをよく知ってるんですよ。あの子はよくこのルートを散歩することが多いんです。まだ子供ですし、危害を加えない限り人を襲う心配はないと思います」

「住んでる? この山に?」

「ええ」

「それは興味深い。ぜひ一度伺ってもいいですか? 間近で感じる生き物の生態系や暮らしとの関わりとか、ゆっくり話を聞きたいものです」

 その日から彼はよくこの山を訪れるようになった。私は彼が来ると必ずと言っていいほど彼と一緒に山に入り、彼をガイドするようになってしました。彼には不思議な魔力のようなものがあるのかもしれない。彼の話は聞いていて飽きることなく、むしろ彼の話に吸いこまれるようにして私は聞き耳を立てていました。

 彼を私の家に招待した時もそうだった。彼の話をもっと聞きたい。もっと彼のことが知りたい。いつの間にかそんなことを思っている自分がいたんです。


 そう、私は彼に恋をしていました――。


 彼は決して裕福ではなく、質素な暮らしぶり。芸術家としての有名人とは程遠いものでしたが、毎日一生懸命に石像を作っているだけで彼は幸せだといいます。

〝気ままに自分の想いを形にする〟それが彼の口癖であり、私の一番好きな言葉です。自分のやりたいことを思う存分楽しみながらも、その必要性や存在意義を追求していく彼には自由という言葉がとても似合っている気がしたんです。

 彼と私がこの家で一緒に暮らすようになるまでそんなに時間はかかりませんでした。彼の方も私に気があったということなのでしょうか。お互い充実した日々で、日中私は仕事がありましたが、家に帰ると必ず彼は一つの作品と料理を作って待ってくれていました。私は彼の作る作品が楽しみで、楽しそうに語る彼の姿が大好きでした。

 もっと彼の作品が世の中に認められればいいのに――。

 そう思いました。

 でも、彼はいつもこう言います。

 一番大事なのはその作品に込める想いだと。

 彼にとって作り出す石像は彼の想いそのものであり、それが他人に認められるかどうかはそんなに重要ではないのかもしれない。なら、せめて私だけでも、彼と彼の作品の良さをわかってあげられる人で有り続けよう。

 だから、自然とこんな言葉が出てきたのかもしれない。


「ねぇ、ベル。私たち結婚しない?」


 彼が首を縦に振ってくれた時、私はとても嬉しかったのを覚えています。これから新しい幸せが始まる。きっと私、希望に満ち溢れていたんだと思います。

 でも…、神様は残酷でした。

 私と彼が一緒にいられる時間に制限を設けてしまったんです。

 ちょうど婚姻届を出した週でしょうか。初めは仕事中のめまいに始まり、突然私は受付のカウンターで倒れ、意識を失いました。気がついた時には病院に運ばれていて、検査の結果、原因不明の脳の病に侵されていることが医師の口から語られました。先生は自己免疫疾患と難しい言葉を使っていましたが、分かり易くいうなら自分の免疫細胞が異常を起こしてウイルスでもない私の正常な脳細胞を敵と誤認して食い荒らしてしまう病のようでした。

 医者は私に長くないことを告げました。現在の医療技術ではこの病の進行を遅らせるのが精一杯で治すことはできないのだそうです。治ることのない病。私は落胆しました。異変はまず記憶力の低下から始めりました。日付やちょっとした物忘れに近い症状が続きました。そして数カ月で運動神経が侵されたのか両足が言うことをきかなくなりました。車椅子の生活になったかと思えば今度は少しの動作で息が苦しくなる。やがてベッドから起きることもままならなくなり、日々進行していく病は私から少しずつ自分という存在と自由を奪って行きました。

 ですが、私には病よりも心配なことがありました。彼のことです。入院した私が弱っていく姿を見るようになってからは大好きな彫刻も作れなくなってしまい、目の前が暗闇に包まれたようだと言っていました。そんな彼の姿をみているのが何よりも辛かったです。前みたいに彼には生き生きと石像を作ってほしい。そんな気持ちばかりが膨れ上がっていくのを感じていました。

 忘れっぽくなってしまった自分が忘れないうちに彼に言わなければならない事がある――。

 日々、メモ代わりにつけていたノートの片隅に書かれてあった文字を私は偶然にも彼が面会にやってきた時にみることができました。

「ベル。石像はもう作らないの?」

 病室を訪れた彼に私は言いました。

「作らないというか、作れないのさ。アイディアが浮かばないし、気持ちが枯渇してしまったみたいで、以前のように込めるような想いもないしね…」

 花瓶の花を差し替える彼の表情は死んだ魚のようでした。私の方がよほど元気な顔をしているそう思える程に。

 彼を元気づけよう。それができるのは私だけなのかもしれない。

「ベル…、私から一つ提案してもいい?」

「提案?」

「前から思ってた事があるの。ほら、私ってば最近忘れっぽいじゃない? 言おう言おうと思ってずっと言えないでいたの。ベル。あなたに私の石像を作って欲しいの。 きっとこれがあなたにする最初で最後のお願いになると思う」

「最初で最後って…、そんな事軽々しくいうもんじゃない。医学の世界だって日々進歩している。クリシャの病気だってきっと――」

「……私は真剣に言ってるつもりよ。冗談とかそういった気持ちはないわ」

 私の一言を彼がどう受け取ったかは分かりません。でも、彼は再び彫刻刀を握ってくれました。病室で私の写真を一枚撮るとそれを片手に街中の彫刻家の下を訪ねて回ったと聞きます。きっとあまり寝ていなかったのでしょう。度々病室を訪れる彼の目の下が黒くなってましたから。

 彼は私のためにどんな気持ちを込めてくれるのだろう。

 何も言わないけど、きっと一生懸命に作ってくれているはず。

 私のために――。

 そう思って毎日を過ごす私には自然と笑みが零れていました。看護師さんたちも驚いたでしょう。余命短い私がどうしてそんなにも明るく楽しそうにしていられるのかと。

 ようやく彼の作る石像が完成した頃でしょうか。タイミングの悪いことこの上ない感じです。私は彼の作った石像をみることなく、この世を去ってしまいました。

 ベッドの上で眠る私をみて彼はうなだれたでしょう。きっと涙が枯れるぐらいたくさん泣いたんだと思います。でも、これでよかったんです。私があなたに石像を作って欲しいとお願いしたことには別の意味がある。彼にはその意味が伝わったでしょうか? 

 それを祈るばかりです。


              ◆◆◆


 再び俺の前に光の扉が現れた。写真の記憶がここで終わったことを告げている。 扉を開け放つと眩い光が俺を包み込んだ。

【お帰りなさい】

 アリスの声が耳に伝わる。まぶたを開くとあの白い空間だった。

「ただいま」

【どう? 全部わかった?】

「ああ、わかったよ。おまえが作られた理由」

 少々間が開いた。アリスの声が遅れて聞こえる。

【どう…、思った?】

「どうって…」

【何で私がものになったのか、ハイロにはわかった?】

「まあ…、大体な。あそこまで見れば大よその検討はつく」

【そう、そうだよね……、あらためて言う必要もないかもしれないけど、きっとハイロが考えてることで合ってると思う。私は、クリシャさんの最後の言葉をその本当の意味をベル・ルーフェに伝えるためにやってきたの】

 だと思った。

 あの終わり方だと、恐らくベル本人は彼女の最後の望みを叶えられなかった自分に対し自己嫌悪しているに違いない。彼女の言う本当の意味というものに気づいていないだろう。詳しいことは考えても分からないから追求はしない。けれど、きっとアリスはクリシャさんの代理役として神様に使わされたのだろう。神様もそこまで悪い奴じゃない…と思う。クリシャさんの心残りのため配慮してくれたならば、きっといい奴だ。

 でも、ならばどうしてアリスは俺のところにやってきたんだ? それだけが分からないでいる。ここまでの話からすると俺は全く無関係。部外者もいいところだ。それに、あの時の病院屋上での件もある。

「アリス。一つ訊いてもいいか?」

【なに?】

「おまえの中にもう一つの人格が存在してないか? 少なくとも俺はそいつに会ってる。もしかしてあいつは《クリシャさん》じゃないのか?」

【……ハイロはそう思うの?】

「違うのか?」

 俺は眉をひそめる。

【うん、違う。私の口から言うのは簡単だけど、それは彼女本人が語ってくれると思うし。それと…】

「?」

【ハイロにはベル・ルーフェの顔。最後まで見えなかったでしょ?】

 アリスが躊躇うように言う。そういえばそうだ。さっきの記憶の中で彼の顔だけがぼやっと霧がかかったようにもやもやとしていた。気にはならなかった。でも、彼女がそう言うのだ、何か意味があったに違いない。

【アレね、私が意図的にやったの。ハイロには見えないように】

「何でそうする必要があったんだよ?」

【……】

「なあ…」

【一度戻ろう。ゲーハさんも待ってるし。話はその後でいいかな?】

「わかった…」


              ◆◆◆


 気がついた時、俺はテーブルに顔を伏せていた。一連の出来事が夢のようにも思える。

 でも、全部ここであったことだ。この家でクリシャ・チャーチルとベル・ルーフェはともに暮らしていた。あの封筒の婚姻届。あれは彼女の死を機にベルがキャセルを申し立てたものなんだろう。 

 俺は身体を起こそうと全身に力を入れた。

「あ、ハイロードさん。気がつきマシタか」

 起き上がる俺に気がつき、ゲーハさんが駆け寄る。

「ああ、ゲーハさん。ただいまって言うべきなのかな?」

「とても不思議な現象デシタね。お二人とも急に意識を失ったので驚いたのデス」

 俺はゲーハさんよりも室内に彼女がいないことの方に気が向いていた。

「……アリスは?」

「そう言うと思ってマシタ。事情は一通り聞いていマス。アリスさんなら外デスよ。ハイロードさんが起きたら来るように伝えて欲しいと伝言を預かっているのデース」

「ありがとう。ゲーハさん」

 俺は部屋を跳び出した。ゲーハさんはついてこない。気を利かせてくれたのだろうか。

 外は青空だった。潮風が心地よく吹き付け、身体中を洗い流すように吹き抜けていく。

 黄色く長い髪を風になびかせながらアリスは街を見下ろしていた。彼女の姿にクリシャさんの像が重なってみえる。

「アリス。今度は訊かせてくれるよな?」

「………」

 アリスは黙って振りかえった。手を後ろで組み、ふと笑顔を俺に向ける。

「ハイロ。私たち、あの工場で会ったよね?」

「ああ…」

「私はものとしての役目を果たすためにやってきた。結果、私はハイロと出会ったの」

「……それは必然だったって言いたいのか?」

「うん」

 アリスが頷く。

「なぜ?」

 俺の直球な返しに対し、アリスの目が一瞬戸惑いの色を見せる。答えを知っているけどあえて口をつむぐ仕草は本当にわずかなことだった。

「それは……、ハイロ、あなたのお父さんが《ベル・ルーフェ》だからだよ」

「えっ…」

 思ってもみない回答に胸の鼓動が止まったかに思えた。

「な、なに言ってんだよ!そんなわけ…」

「私は事実を言ってるだけ。ウソだと思う?」

 アリスは表情を変えなかった。

「だって、父さんは俺が一番嫌いな奴で……、俺と母さん置いて行方をくらませた奴で……、それで――」


 なあ、ハイロード。〝自由〟の意味わかるか――。

 あの人はあの人なりの答えを見つけるために、そうしたんだから。何にも縛られずに自由に生きる。それがあの人の選択――。

〝気ままに自分の想いを形にする〟それが彼の口癖であり、私の一番好きな言葉です。自分のやりたいことを思う存分楽しみながらも、その必要性や存在意義を追求していく彼には自由という言葉がとても似合っている気がしたんです――。


 なんだこの感覚。皆違うことを言っているはずなのに一連の言葉にある繋がり。

 俺は、父さんの何を知っていたんだ? 

 あいつは10年前の豪華客船の事件後、母さんの病室を訪れたのを最後に行方がわからなくなった。それは単に俺たちのことを捨てた。ずっとそう思ってた。


 でも仮に、それが母さんのお腹にいた妹の死が原因だとすれば?

 

 自分が何もできないまま誰かが死ぬ。そんな辛い場面を俺はついさっき垣間見た。みているからこそ、余計に考えが晴れなかった。

 自分でも気づかないうちに両手が地面についていた。四つん這いになり、額から汗がぽたり、ぽたりと垂れる。

「ハイロ、私があの場所に導かれたのはあなたのお父さんに会うため。きっとそうなんだと思う」

 アリスの言葉ひとつひとつが重く、それでいて突き刺さるようだった。両手を強く握りしめる。手元の土がわずかにえぐれた。


 なんだよそれ…。

 なんなんだよ……。

 もしかしたら母さんだって知らないんじゃないのか……。


 俺は顔を上げた。片足を曲げ、手を膝につき、重い腰を上げていく。

 アリスの顔をみる。視線が交錯した。

 だとすれば、そうなのだとすれば、父さんに会うことができれば、俺とおまえは無理に出会わなくてもよかったんじゃないのか?


 本当に必然だったのか――?

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