第34話 古くからヨーロッパで見られ、フランスで特に人気を得たプードル。大きさによって四つに分類されますが、最小のサイズをトイプードルと呼んでいます。
「いらっしゃいませ……」
「こんにちは」
今日の予約表に書き込まれた母の字で、亜依奈さんとアリョーナが来店することはわかっていた。
池崎さんから亜依奈さんの話を聞いたのが二週間前。
その間、池崎さんとは連絡を取っていないし、サークルも休んでしまった。
このひとが私の前に再び現れる意図が私にはわからない。
正式な勝利宣言でもしにきたのだろうか。
「本日はシャンプーのご予約でよろしかったですよね?」
私を見てゆったりと尻尾を振るアリョーナのリードを引き受けて、できるだけ平静を装って確認する。
晴れやかな笑顔の亜依奈さんは「今日はデンタルケアもオプションでお願いしようかしら」と言ったあと、笑顔のままでこう言った。
「アリョーナ、こちらでお世話になるのは今日で最後になるから」
「えっ……?」
驚いて彼女を見ると、いつものように美しい笑顔で晴れやかに微笑む。
「私ね、両親のいる九州にアリョーナを連れて引っ越すことにしたの。もう、この街に執着する理由もなくなったし、CAの仕事もだんだん体力的にきつく感じていたところだったから。
アリョーナがお世話になりました」
「そう……なんですね。アリョーナと会えなくなるの、残念です」
白く優雅な尻尾をゆっくりと揺らしながら、ウッドデッキから駆け寄ってきたチョコ太郎と挨拶を交わすアリョーナを見遣る。
私ですら、大好きなアリョーナとお別れになるなんて、とっても辛い。
きっとその何倍も、何百倍も、池崎さんは――
それに、亜依奈さんと離ればなれになるって――
「あの……。池崎さんは、それで構わないと……?」
彼の名前をこのひとの前で出したくなかったけれど、聞かないわけにはいかなかった。
「馨は、私が選んだ道ならば離れていても応援してるって言ってくれたわ。
両親も私やアリョーナとまた暮らせることを喜んでるし」
「でも……! 亜依奈さん、私に言いましたよね!?
池崎さんを追いかけたくなったって……!
池崎さんが傍にいてくれるのが幸せだって気づいたって……!」
目の前で涼やかに微笑む気まぐれな
「ええ。そう言ったわよ。だけど仕方ないじゃない。
馨に振られたんだから」
「……今、なんて?」
「馨に振られたの。“恋愛感情が情に変わっていたことにようやく気がついた” って」
呆然とする私に「じゃ、シャンプーが終わったらお電話ちょうだいね」と言い置くと、いつものように隙のない優雅さで踵を返し、店の外に出て行った。
久しぶりの再会にはしゃいでアリョーナの長い足にまとわりつくチョコ太郎。
これがお別れになるからと、お互いの気が済むまでひとしきり遊ばせてから、私はアリョーナをトリミングルームに連れて行った。
ブラッシングで毛のもつれをほどく間もドッグバスでシャンプーをする間も、私を信頼して体を預けてくれるアリョーナ。
いつも優雅で穏やかで、颯爽と走る姿が本当に美しかったアリョーナ。
大好きだよ。
いつまでも元気で幸せに暮らすんだよ。
別れを惜しみつつ、いつにもまして丁寧に丁寧に手を動かす。
そんな風にアリョーナに接している間でも、私の心の半分以上は美しい微笑みとともに置いていかれた亜依奈さんの一言に占領されてしまっている。
“恋愛感情が情に変わっていたことにようやく気がついた”
それは本当に、自分の気持ちときちんと向き合った池崎さんの本心なんだろうか。
気がつくと、ドライヤーで乾かしていたアリョーナの被毛に艶とコシが完全に戻り、白い長毛が空気を含んでふわふわと私の指を包んでいた。
「アリョーナ……。いつまでも元気でいてね」
トリミング台にのったアリョーナの目線に合わせて話しかけると、美しい尻尾をゆっくりと揺らす。
池崎さんも、アリョーナとの別れはきっとものすごく辛いだろうな――
二人がドッグランで無邪気にじゃれあう姿を思い出して、涙が出た。
そんな私の頬に、アリョーナが長い
私の気持ちに寄り添ってくれるアリョーナの首に手を回し、私はアリョーナの豊かな胸の毛に顔を埋めてお別れのもふもふをした。
🐶
翌日は、征嗣くんとルークがやってきた。
こちらもしばらくのお別れとなる。
「あらぁ。征嗣くんとしばらく会えなくなるの。残念よねぇ、瑚湖」
爽やか体育会系イケメンの征嗣くんの来店を密かに楽しみにしていた母は、心底寂しそうな顔をしながらルークをトリミングルームへ連れていく。
母の言葉に「ね……」と曖昧に相槌を打つ私に、征嗣くんはいつもと変わらない爽やかな笑顔を向けてきた。
「来週の水曜日に出発することになったんだ」
「そっか……。いよいよだね。
そう言いながら、袋に入れてカウンターに用意しておいたハンカチを「ありがとう」と手渡すと、お互いあの夜のことが思い出されて微妙な空気が流れた。
あの夜の公園での征嗣くんの言葉とキス。
思い出すと、気恥ずかしさより、刺すような胸の痛みの方がぐるぐると混ざり合う感情を支配していく。
気持ちの入っていないキスをしたことを、やっぱり謝ろう。
そう思って顔を上げた私が何か言い出すのを察して、征嗣くんが制すように言葉を発した。
「こないだ俺が言ったこと……。
瑚湖ちゃんとしてはとても考えられないかもしれないけど、今ここで断らないでほしいんだ。
半年の猶予があれば、瑚湖ちゃん自身の気持ちが変わる可能性だってあるだろ?」
「征嗣くん……」
「だから今は笑顔で俺のこと送り出してよ。そしたら俺、あっちでも頑張れると思うんだ」
白い歯を見せて、征嗣くんが右手を差し出す。
その笑顔の後ろで、いつものようにぱたぱたと揺れる尻尾が見える。
私はその日焼けした大きな手を両手で包んで、精一杯の笑顔で彼を見上げた。
「半年間、頑張ってきてね!」
「うん!ありがとう!」
いつものようにジャージ姿で来ていた彼は、ルークのシャンプーが終わるまでの間、いつものようにランニングに出かけていった。
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