第35話 プードルは元々狩猟犬。そのため高い頭脳と運動能力をもち、愛玩犬としてだけでなくセラピー犬や警察犬など様々な方面で活躍しています。




 池崎さんに、確かめなければならないと思った。





 次の土曜日、前回は気まずくて一度休んでしまったサークルに参加した。


 私服で時間通りに来た池崎さんは、いつもどおりのアルカイックスマイルでおばさま達の質問に丁寧に答えている。

 私のために新しい毛糸を何種類か持ってきてくれていて、穏やかな笑顔で次に編む作品を一緒に考えてくれる。




 ああ、やっぱり私は彼が大好きだ。




 砕けたガラス片を抱きかかえているような思い。

 どんなに痛くても、傷ついても、私は胸に抱き続けると心に決めたんだ。


 だからやっぱり確かめないと。





「お疲れさま~」

「じゃ、また~」


 サークルが終わり、市民センターの外に出る。

 小春日和だった昼間の暖かさはすっかり消え去り、空気を研ぎ澄ませるように吹く木枯らしが夜空の星を瞬かせている。


「池崎さん」


 おばさま達が解散するのを見届けて、愛車に乗り込もうとする彼を追いかけた。

 建物の明かりの届かない暗い駐車場で、ドアに手をかけていた池崎さんが私に向き直る。


「どうかした?」


「亜依奈さんに聞きました。

 アリョーナを連れて、九州へ行くって……」

「ああ、うん。それなんだけど、実は昨日彼女らは九州に行ったよ」

「えっ?」

「家の買い手がすぐに見つかって、先方が早く引っ越したいと希望したみたいだ。

 亜依奈も有給消化に入ったのと、福岡のビジネススクールで講師の募集がタイミングよく見つかったって言ってね」


 淡々と話す池崎さんの顔を街灯の光が遠慮がちに撫でる。そのわずかな光の下では、彼の表情はいたって穏やかに見える。

 けれど、こんな薄っぺらい明かりでは、池崎さんの心の中まで見通すことなんかできない。


「池崎さんは……それでいいんですか?」


「ココちゃん。君に言われて、きちんと自分の気持ちに向き合った結果だよ?

 僕は離れた場所から彼女を見守るって決めたんだ。

 それが彼女にとっての幸せならば」


「亜依奈さんを振って彼女の背中を押すことが、大人の対応なんですか?」




 どうして私はここで “ああそうですか” と引き下がれないんだろう。




「前に池崎さん言いましたよね?

 大人な対応をしても、自分の大切なものを守れなければ意味がないって……!」


 池崎さんのアーモンドアイが見開かれ、揺れる瞳が心の動揺を映し出す。


「本当の気持ちに向き合っても……

 また背中を向けてしまったら意味がないじゃないですか……」


 涙が頬を伝った軌跡に木枯らしが触れてピリピリする。

 その軌跡を温かい涙がさらに辿る。


 池崎さんの眉根が寄せられて、大きな右手が額を覆う。

 俯いた口元から、ふうっと長いため息が漏れた。



「どうして君はそうまっすぐにぶつかってくるんだ……」



 初めて見る、池崎さんの苛立ち。




「せっかく諦めたのに……

 まいったな」





 ふっと苦笑いした池崎さんは、額に置いた手を離し、目頭で次の涙が作られるのをなんとか抑えようとしている私をまっすぐに見据えた。





「確かに僕は大切なものを失うところだった。

 彼女を迎えに行こうと思うよ」





 アルカイックスマイルで、穏やかに言う。





 これで本当に私の恋が終わる。






「よかった…です……」






 嘘じゃない。


 よかった、って思える。


 自分の気持ちに向き合えたことを。


 池崎さんが本当の気持ちに向き合えたことを。


 池崎さんを、好きになれたことを。





「引き止めてすみませんでした。

 ……おやすみなさい」


 コートの袖で涙を拭って、ぺこりと頭を下げた。


 自転車置き場まで戻ろうと、池崎さんに背中を向けた。


 がくん、と歩みを止められる。

 二の腕を掴まれた感触。




「待って」




 池崎さんの低い声。




「このままじゃ、夢のとおりになってしまいそうだ」




 唐突に出された “夢” という言葉に驚いて振り返った。





「僕が戻るまで、どこにも行かないで」





 掴まれた右腕がさらに引き寄せられ、振り向きざまだった態勢が崩れる。


 私はそのまま池崎さんの腕に抱きとめられた。


 池崎さんの言葉と行動に混乱する。


 真っ白な頭の中に、池崎さんの胸からとくん、とくん、と微かな心音が聞こえてくる。


 戸惑いと動揺は次第にその音に宥められ、奥底に沈んでいたわずかに残る澱すら浄化していく。






 何も考えずに、池崎さんの腕に包まれていた。






 やがて、ゆっくりと腕が解かれる。





「九州から戻ってきたらまた連絡するよ。

 おやすみ」


 穏やかな声を残して、彼は車に乗り込んだ。



 🐶



“このままじゃ、夢のとおりになってしまいそうだ”


“僕が戻るまで、どこにも行かないで”




 三日前に言われた言葉を、私はまた思い出していた。


 その言葉から考えられるのは、池崎さんが亜依奈さんを迎えに行っている間に私がいなくなる、っていうことだけど……。


 いなくなるとしたら、征嗣くんを追って私がオーストラリアへ行くとか?


 ない! それはない!!

 征嗣くんにはこの半年間オーストラリアで頑張ってきてほしいと、心から願っているけれど。


 半年後──


 私はまだ池崎さんへの思いを胸に抱いたままなのだろうか。


 征嗣くんに会えば、彼の気持ちに再び触れれば、私は新しい恋に踏み出せるんだろうか。


 今の私は、やっとの思いで上陸できた取り付く島から結局出航できないまま、遠くにくっきりと見える池崎大陸を体操座りで眺めている。




 あのとき抱きしめてくれたのは、池崎さんからのエールだったように思う。




 彼が九州から戻ってきたら、きちんと思いを伝えよう。


 それができれば、きっと私はこの島を出航して新たな航路を探しに行けるはず。


 大陸への憧憬を胸に抱き続けながら──



「できたぁ……!」


 そんなことをいろいろ考えているうちに、オフホワイトのセーターの最後の一段を編み終えた。

 あとは身頃や袖の編み目を綴じ合わせて、きちんと形にするだけだ。



 ピロリン♬



 LINEの着信音。


 膝の上でまるまっていたチョコ太郎をどかし、充電中の携帯を手に取る。


〔昨日、九州から戻りました。

 今日は定休日だよね?

 夕方椎名川親水公園で会えるかな〕




 ぎゅっと心が固くなる。




 けれど、たった今決意したばかりだもの。

 逃げちゃダメ!頑張るのよ!瑚湖!





〔わかりました。17時に公園に行きます〕




 送信してから、私は急いでセーターの仕上げにとりかかった。

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