Interlude ~池崎馨の夢 Ⅸ~
隣国のシュバルツ・カッツェ王国を再び訪れた僕は、アイナ姫の元へまっすぐに向かった。
流行り病からすっかり回復した彼女は自慢の黒い被毛にも艶が戻り、いつもどおりの美しさで僕に微笑んだ。
「あら、カヲル王子。わたくしの病気が治った途端慌てて自国へ戻ったあなたが、とんぼ返りでまたこちらへ戻ってくるなんて、一体どんな用件かしら?」
「自国に戻り、僕は本当の自分の気持ちに気づいたんです。
長年お慕いしていた貴女には、きちんとお会いして告げねばならないと思い戻ってまいりました」
訝しげに小首を傾げる黒猫の姫をまっすぐに見つめる。
「アイナ姫。お互いに寄りかかるのはもうやめましょう。
貴女の気持ちが僕に向いていないことをわかっていてそれでも貴女の傍に僕がいたのは、貴女がいつか僕に振り向いてくれるかもしれないという甘い期待を捨てきれなかったからだった。
けれども、心の傷が癒えずに僕を頼ってくる貴女を放っておけないという情のようなものが、いつしか恋愛感情にとって変わり始めていた」
僕の決別の言葉にも、彼女は余裕たっぷりの笑みを見せる。
「確かに、わたくしは貴方とお付き合いしている間もずっとレオンナ公国のユウト公のことが忘れられませんでした。
けれども先日流行り病にかかった時に気づいたの。
わたくしに必要なのはカヲル王子、いつも傍にいてくださった貴方だったと」
以前の僕ならば、ずっと望んでいたその言葉を彼女の口から聞けて、天にも上る気持ちになったことだろう。
けれども僕は気づいてしまった。
僕の、
姫の、
本心を。
「貴女は僕を愛しているのではない。
僕を必要としているだけなのです。
そして、貴女にとって必要なのは、弱い自分を見せて甘えられる人だ。
それは僕でなくてもいい。
僕も貴女も、淀んだ澱を心に溜めて、本当の気持ちが見えなくなっていた」
アイナ姫の表情が曇る。
僕は構わずに続けた。
「そのことを、ひとりの純真な娘が僕に教えてくれた。
彼女といると、僕は湖のように澄んだ穏やかな心でいられる。
僕は彼女を愛しています。
だからもう、貴女の傍にはいられない」
「わたくしを一人ぼっちにするのですか?
貴方が傍にいてくれることの幸せに、やっと気づいたばかりだと言うのに」
目に涙をためる姫。
けれども長年少しずつ溜まっていった澱が流れてはっきりと心が見えた今、僕の気持ちは揺るがない。
「先ほども言いましたが、貴女が必要としているのは僕じゃない。寄りかかることのできる誰かなのです。
ユウト公への未練を断ち切れた今、貴女も新しい恋に踏み出すべきた。
簡単に寄りかかることのできる僕が傍にいることは、貴女のためにもならない」
姫の漆黒の瞳から真珠のような涙が零れた。
けれどもそれはたった一粒で、顔を上げた彼女は再び美しく微笑んだ。
「そうね。貴方の言うとおりだわ。
わたくしもいい大人なんですもの。
貴方にいつまでも寄りかかって甘えてはいられないわよね」
「アイナ姫……。
貴女を長年お慕いしておりましたことを、僕は後悔していない。
どうかお幸せに」
「わたくしはちょっぴり後悔しております。
貴方のような素敵な方がずっとお傍にいてくださったのに、その幸せを当たり前のように享受するだけで、感謝できなかったこと……。
ですからせめてお祈りしております。
これからの貴方が幸せでありますようにと」
お互いに澄んだ穏やかな気持ちでアイナ姫と別れ、僕は自国ルシアナ王国に戻った。
しかし、僕が自国へ着いた足で向かったのは自分の住む王宮ではない。
ココと初めて出会った、あの美しい湖のほとりだった。
そこに行けば、きっとココに会える。
ココに会えたなら、その時は自分の気持ちを伝えよう。
君といられれば僕は幸せだ。
君を愛していると──
湖のほとりを馬で歩き回ったが、ココの姿はない。
少し奥にある森に入ってみたところで、一軒の小さな可愛らしい家が建っているのを見つけた。
「すみません」
馬を下りてドアをノックしてみたが、留守のようで誰も出ない。
諦めて再び馬に乗ろうとしたときに、お付きのドーベルマンの護衛が茂みの向こうを指さした。
「王子。あそこに人影が見えます。
この家の者かもしれません」
僕は急いで茂みをかき分けて進んだ。
そこにいたのは、狩人のイングリッシュ・セターだった。
「君はあの家の住人なのか?」
「あの家? ……ああ、あれは王宮の給仕係をやっていたココという娘の家だよ」
僕が王族の身なりをしていることに気づかない様子でセターが答える。
「ココを知っているのか!?
留守のようだが、彼女は今どこに……」
「そう言えば、どこか遠いところへ引っ越すとか言ってたな。
なんでも、ここに住んでたら辛いことを思い出しちまうからってさ」
「えっ!? 引っ越した……ってどこへ!?
それは黒いラブラドールレトリバーと一緒にか!?」
「さあ……。行き先も、誰と行ったかも俺にはわかんねえよ」
呆然とする僕を残し、セターは狩りの続きをするために森のさらに深いところへと入っていった。
僕は気づくのが遅かったのか。
自分の気持ちにもっと早く気づいていれば、彼女に辛い思いをさせることも、僕が彼女を失うこともなかったのだろうか。
彼女がもふもふと顔を埋めてきた自分の白い胸元を見つめる。
顔を上げたときのキラキラしたココの笑顔が思い出されて、僕の瞳から涙が零れた。
僕は、彼女を失ったのだ──
────
──…
……
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