第5話

 ヴィンスはいつものように、鐘の音で目が覚めた。二回目の訪問後から既に数日が経ち、今やあの少女は夕方から夜にかけて頻繁に姿を現わすようになった。昨晩も現れたばかりである。


 いよいよ何とかしなければいけない。


 ヴィンスは焦燥感に駆られつつも、寝不足で痛む頭を叩き起こす。


 その日は本来休日ではあったが、ヴィンスにはやらなければいけない事があった。




 久しぶりに降りた城下町は、まだ朝早いと言うのに活気に満ちている。

 様々な種類の魚や果物に野菜。おそらく貿易によるものであろう衣服類は、色彩豊かに店を彩っている。とても朝とは思えないほどの人混みさえも、ヴィンスの心を擽る。まるで幼子のように、ヴィンスはそわそわと辺りを見回した。


 朝の市は仕事上、中々覗く事ができない。こんな日でもなければ、休日だって来れないだろう。ヴィンスはまだ時間もあることだしと、朝の市を見て回ろうかと思っていた。


 しかしちょうどその時、見知った女性と目があった。その女性はヴィンスを見つけると顔を輝かせ、二人の間を妨げる人混みを難なく搔きわける。否、皆その女性の美しい金色の髪を見て、道を譲るのだ。


「ヴィンスさん!」


 駆け寄って来た女性を見て、ヴィンスは目を丸くした。夜空に輝く星々のような金色の髪に、大きな瞳。人々が思わず振り向くほどの美貌をもったその女性は、未だ少女の面影を残している。


「カミラ嬢、約束の時間を過ぎてしまったでしょうか?」


 心配するヴィンスに、カミラは大袈裟に首を振ってみせる。


「いいえ、貴方に会いたくって此処で待っていたんです。きっと此処を通るだろうと思ったので」


 カミラはそう少し照れ臭そうにそう言った。行き交う人たちは珍しそうに二人をちらりと見ると、気づかれないように目を逸らす。ヴィンスは内心面倒なことになったと思った。二人とも、人に名前を知られ過ぎているのだ。


「そうでしたか。しかしお父様に此処にいることは告げてありますか?」


 一気にカミラの顔が固まった。


「あっ」


 恐らくそんな事は忘れて飛び出して来たのだろう。いつものことだから、お屋敷の方はそう騒ぎになってはいないと思うが。


 ヴィンスはくすりと笑うと、カミラの頭を撫でた。


「では一緒にお屋敷に向かいましょう。騒ぎになっては大変です」

「はい、すみません」


 ヴィンスが手を差し出すと、カミラは顔を真っ赤にさせてその手をとった。




 カミラのお屋敷は、中心街から少し歩いたところにある。緑に囲まれ、丘の上に立つ大きな屋敷がカミラの家。つまり名家ブランケンハイム家の邸宅である。


 レンガ造りで二階建てのその屋敷には左右に六つずつの窓がある。玄関を中心として、それらは美しいシンメトリーを保っているのだ。


 その屋敷についてみると、やはり多少なりとも騒ぎにはなっていた。


 屋敷と門の間には広々とした庭があるのだが、何人もの使用人がそこで忙しなく右往左往としている。唯一冷静さを保っているのは、昔からこの家に仕えるレーチェルのみであった。


「まあ、お嬢様!」


 レーチェルは目ざとく二人を見つけると、慌てて駆け寄りカミラにお小言を言う。カミラはしょんぼりとして、そっとヴィンスの手を離した。

 一方のヴィンスといえば、怒られてすっかり意気消沈してしまったカミラの頭を軽く撫でて、レーチェルに笑いかける。


「レーチェルさんすみません。次はちゃんとお屋敷で待っているように言うので、そこらへんで許してやってくれませんか」


 ヴィンスにこう言われては、流石のレーチェルも何も言う事ができなくなる。


「分かりました」


 ため息を付いてそう言うのがやっとだ。


「それでは、お嬢様はお部屋にお戻りください。もう直ぐ先生が見られるでしょう」


 レーチェルはまたため息を吐く。


「先生?」


 ヴィンスがそう聞き返すと、レーチェルの代わりにカミラが口を開いた。


「家庭教師の先生です。今日は確か、ピアノの先生だったと思います」

「そうか、ピアノを。カミラ嬢のような若い女性にはぴったりですね」


 ヴィンスは褒め言葉のつもりで言ったのだが、カミラは気に入らなかったのかふくれっ面をした。


「何かお気に召されることでも言いましたか?」


 ヴィンスが恐る恐るそう言うと、カミラは可愛らしくフンと鼻を鳴らして歩き去る。置いてけぼりをくらった二人は、暫く顔を見合わせた。

 やがてレーチェルは苦笑すると、面食らったヴィンスに屋敷に入るよう勧めた。


「何かまずいことでも言いましたかね」


 ばつが悪そうに頭を掻くヴィンスを、レーチェルは意外そうな顔で見返した。


「お嬢様ですか?」

「ええ」

「そうですねえ。まあ強いて言うなら……」


 少しレーチェルは口を閉ざして言葉を探す。


「女心が分からなかったからでしょうかね」

「女心?あんなに幼いカミラ嬢にですか?」


 レーチェルは小さく忍び笑った。


「失礼。お言葉ですが、きっとそういうところでしょう。お嬢様ももうヴィンス様とお会いしたばかりの幼いお嬢様ではございません。世間一般でいうと、妙齢の女性です」


 ヴィンスは目を瞬かせた。


 時の流れというのは、なんて早いものなのか。


 ヴィンスの脳裏に浮かぶのは、まだ出会ったばかりで年も十ほどの少女だった、カミラの姿ばかり。


「ヴィンス様、こちらのお部屋でお待ちください。直に旦那様もお越しになるかと」

「ありがとうございます」


 部屋に入って、刺繍が惜しげもなく施された椅子に座ってからも、ヴィンスの頭は冴えなかった。ぼうっと白塗りの天井を見つめる。その天井にはシミ一つなかった。

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