第4話

 ヴィンスはリフォードを部屋まで送り、城の接続部である渡り廊下を歩いていた。その途中には、昨日アイに出会った場所がある。


 少し用心しながら、ヴィンスは足早にその場を去った。


 できればもうあの少女と会いたくない。


 もしもう一度アイに会うことがあれば、シリルに相談しよう。非常に不本意ではあるが、俺一人の力ではどうしようもできない。


 ヴィンスは彼女がただの白昼夢であったことを祈り、自分の部屋のドアノブを握った。あたりは静まり返り、ヴィンスがドアを開ける微かな音が、やけに大きく響きわたる慎ましい部屋にもまたドアの閉まる音が響いた。


 そして無事にヴィンスは自室に入ると、深い深い息を吐く。


 彼女はやっぱり白昼夢だったんだ。仕事のしすぎだろう。


 闇になれた目を擦り、ゆっくりとベッドに向かう。今度こそ、夢の世界に旅立てる気がした。


「おかえりなさい!」


 聞き覚えのある、可愛らしいソプラノの声が聞こえるまでは。


 アイは暗闇の中、ソファの上にちょこんと座っていた。


「……ただいま」


 ヴィンスは顔に手を当てながら、絞り出すように返す。アイはそんなヴィンスをじっと見つめると、駆け寄って彼の足に抱きついた。


「どうしたの?いたいの?」


 心配そうにこちらを見上げるアイに、ヴィンスは苦笑する。


 どう見ても、ただの幼子にしか見えない。そこらにでもいるような……そういえば、先日産まれたっていうアライダの子供は何ていう名前だったか。


「おじさん?」


 ヴィンスははたと我に返ると、苦笑しつつ頭を掻いた。


 近くにあった蝋燭にそっと火を灯し、アイの頭を撫でる。


「ああ、なんでもない」


 よく見れば、アイの目元は薄っすらと赤く腫れ上がっているのが分かった。目が痒かったのか、泣いていたのか。それはヴィンスには皆目見当もつかない。


 ヴィンスは優しくアイを足から引き離すと、ソファで待っているように言う。そして普段全く使わない簡素な台所から、ホットミルクを持ってきた。


 アイはそれを美味しそうに飲むと、ヴィンスに笑顔を見せる。ヴィンスはアイの向かい側に座って、少し難しい顔をした。


「アイ、だったな」

「うん。おじさんお名前は?」


 ヴィンスは少し迷って、口を噤む。


 もしアイのこの姿が魔法による偽りのものであったら、名前を言うことは死に等しい。目を輝かせて見つめてくるアイに、ヴィンスは目を泳がせる。


「……ロベルト」


 不意に口をついたのは、ヴィンスの父の名であった。


「ロベルトおじさん!」

「おい、バカっ」


 大きな声でロベルトと連呼する少女の口をふさぐ。誰かが起きていてはマズイ。


「今は夜だ。だからあまり大きな声を出すな。分かるな?」


 アイは目を丸くさせて、コクコクと頷く。ヴィンスはその手を放し、改めてソファに座りなおした。口からは深いため息がでてくる。


「アイ、どうやってここにきた?」


 アイは可愛らしく小首を傾げる。


「泣いてたらここにいたの」

「なら、前来た時はどうやって帰った」

「分かんない。起きたらおうちにいたの」


 家の場所は、親の所在は、魔法の存在は。いくら捲したてるように聞いたところで、アイは「分かんない」の一点張りであった。


 外はもうすでに薄っすらと明るくなりつつある。恐らく、もうすぐ見張り交代の兵士と食事担当の者たちが動き出すだろう。


 ヴィンスは顔を顰めると、力なく垂れた前髪を手でくしゃりと丸めた。


「致し方ない。シリルに会わせるほかないか……」


 深く深くため息をつき、先ほどアイにホットミルクを淹れてあげたコップに目をやる。もうコップは空っぽである。


 そう言えば、この間はアイがホットミルクを飲み干して……。


「ごちそうさまでした」


 そうだ、この不思議な言葉を呟いたら居なくなったんだ。


 そう思ってヴィンスははたと気がついた。慌ててバッと顔を上げる。


「……またか」


 誰もいなくなってしまったソファを前に、安堵と落胆が入り混じったため息をついた。

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