第15話

 館からさほど離れていない草原で、ジェーンは寝転んでいた。そのまま大の字になって目を瞑る。自分で結った髪は、芝生に寝転んでもさほど邪魔にならないし、ドレープの減ったドレスは軽い。やはり、王宮はあわないのだと、ジェーンは思った。

 もう、戻りたくない。

 それがジェーンの正直な気持ちだった。怖いと、一度そう感じてしまってから、足が竦んでしまう。けれど。

――わがままはおやめ下さい。

一人になったはずの、元に戻ったはずの自分の側には、エリーがいた。オズウォルトの城にようやく辿り着いた夜更けに、邪魔な髪飾りを床に叩きつけながら問うたのを、ジェーンは思い出す。

「なぜついてきた」

「それが役目だからです」

 エリーは髪飾りを拾っていく。

「あなたは王妃なのですから」

その言葉に、ジェーンはかっとなる。

「陛下が真に望んでいるのは、レイチェルだ! 私は只の駒でしかない!」

「政略結婚で望まぬ相手に嫁ぐ方も少なくありません。王太后テレサ様も、八歳で婚約を決められました。あなたは、ただ逃げているだけ。幼子と何ら変わりはありません」

 正論を言われ、ジェーンは言葉に詰まった。むしり取った首飾りを力なく握る。その瞳に、かつての力がないのを見たエリーは、静かに続けた。

「陛下とて、なりたくて王になったわけではありません」

 何がこんなに引っかかるのか。何がこんなにも自分を臆病にさせるのか。ジェーンはわからない。この押し問答の後、ジェーンはエリーと話さず、エリーは静かにジェーンに付き従っている。それがまた、不快感となって心をつく。

幼い頃、ジェーンの父はよく、騎士の物語を話して聞かせた。自分は、今こうして田舎の小さな一領主にすぎないが、エドワード大帝の頃から連綿と続く古い騎士の血筋なのだと。父の理想を語るその眼差しは、子へそのまま受け継がれた。残念だったのは、その受け継いだ子が、娘であったという点だ。兄弟のいないジェーンは、親類や父の友人の少年たちに混じって剣や乗馬の鍛錬をし、その憧れを強めていった。しかし、騎士は男子のみしか認められていない。

「やるだけ無駄だ」

 何度も、ジェーンはそう言われた。同時に、貴族の娘として必要なことを身につけるべきだと嗤われてきた。それでも騎士になりたいと思ったのは、何とかして父の願いを叶えたいという切な子ども心だった。それにいつしか反発心と意地が加わって本人にもわからないところまで来てしまった。

 そんな時、目の前に現れたのがレイチェルだった。

 輝きを放つ美しさ。申し分のない身分。

 どれをとっても、騎士の仕える貴婦人にぴったりだった。そして、彼女を蹴落とそうとするライバルたちや、逆玉の輿やステュアートの醜聞を狙う者たちから守らなければならないという状況も。

 ――どうしてジェーンは、そこまでレイチェルに執着するんだ。

 クロムの問いが、蘇る。

 執着、とジェーンは再び口の中で唱えるように繰り返した。違う、とジェーンは改めて思う。執着しているのは、レイチェルに対してではなく、自分に対して。彼女を守ることで、自分の騎士かぶれの心を満たしていた。結局自分は、自分の理想を実現するために、レイチェルという隠れ蓑を利用していたにすぎないのだ――

 気づいて、いや、冷静に顧みて、ジェーンは涙が出そうになった。その上で、さらに彼女の夢であり、果たさなければならない使命ともいうべき地位すらも、奪ってしまった。

(最低だ、私は)

 いっそのこと、殺されてしまえばよかったのにと、ジェーンは涙するレイチェルの表情を思い出す。心に広がるのは、自責の念ばかりだ。

「ジェーン様、お客様です」

 突然足下の方から声がした。エリーだ。その声に、ジェーンは不機嫌そうに返した。

「気が進まない」

「クロム士爵です」

 来客の名を聞いて、ジェーンは飛び起きた。飛び起きて、目を開けると、その先にいたクロムと目があった。

「何しに来た」

 開口一番、敵意を隠さない一言をかけられ、クロムは苦笑した。しかし、すぐに表情を引き締める。

「ジェーン・オズウォルト。貴殿にレイチェル・ステュアート嬢をかけて、決闘を申し込む」

 ジェーンはぽかんとクロムを見つめる。

「何だ、いきなり」

「受けるのか? 受けないのか?」

「だから、何だ、いきなり」

「騎士は、決闘で雌雄を決するんだろう」

 レイチェルをかけて。

 騎士として勝負するつもりなのか。

 ジェーンは唇をひき結ぶ。これは、クロムの自分への気遣いと、けじめ。応えるのは、自分の義務だ。ジェーンはそう感じた。

「俺は、女だからって容赦はしないぞ。防具は用意してある。そのしけた面はたいて準備してこい」

 ジェーンは言われるがままに、防具を着け、剣を手にすると再びクロムの元へ戻る。エリーがジェーンの背後から、静かに前に進み出た。

「僭越ながら、私が開始の合図をさせていただきます」

 一礼すると、小さな旗を掲げた。二人の間に、緊張が走る。エリーは、頃合いを見計らって、さっと旗を宙に放った。薄い空に、旗が舞う。同時に双方が地を蹴った。衝撃音が鈍く響く。ぶつかり合った二人の剣は、初め拮抗しているかに見えたが、徐々にクロムの方が優勢に変わっていった。

「その程度か? 騎士なんだろ。もっと踏ん張れよ」

 クロムが力を込めて振り払う。ジェーンはよろめくがすぐに態勢を立て直すと、クロムの第二撃を流した。今度は、ジェーンが反撃に出る。しかしクロムに軽々と受け止められた。ジェーンは眉根を寄せる。クロムの一撃一撃はとても重い。しかしそれでも、手加減されているように感じた。クロムの表情はまだまだ涼しい。ジェーンが息を整えるまもなく、次の一撃が加えられた。ジェーンは剣で受け止める。

 みしっ

 嫌な音がする。ジェーンはそう思い、芯を外した。荒海を生き抜いてきたクロム。片や温室で理想を抱いてきた自分。力の差は歴然としているのだ。けれど、あきらめるわけにはいかない。レイチェルがかつて騎士として選んだのは、紛れもなく自分自身。そして、そうありたいと願ったのも自分。

 クロムの剣を受けるたび、木剣が悲鳴を上げる。重い防具に、身体が沈む。しかしそれでも、全身で剣を振るった。しかし無情にも、剣の悲鳴は大きくなる。

「くそっ」

 次が最後か。

そう思った次の瞬間、ジェーンの剣が真っ二つに割れ、衝撃が手に走った。割れた剣の半分が、力なく地に落ちる。二度、三度と地を跳ねる剣を見つめるその視界も、ゆらりと反転する。身体に響く衝撃が、どこか遠くに感じた。乾いた空が広がっているのが見える。中央には、自分を見つめるクロム。

「降参するか?」

 ジェーンは身体全体で息をする。身体を押さえ込もうとするクロムを、エリーが制しているのが目に入った。

「おいおい、お前さんが割り込んでくるのは、ルール違反じゃねえのか?」

 クロムは肩をすくめた。エリーは涼しい顔をしている。

(負けたのか、私は)

 頭の中が、まだ整理できないでいる。そんなジェーンを、クロムが強引に助け起こした。

「頼みがある」

 頼み、とジェーンはようやくクロムの方を見る。張りのあった頬は、生気のない目につられて青白い。芯の通っているようだった体も、ひとまわり小さくなってしまったかのようだ。クロムはよっこいしょと、ジェーンの横に座る。 

「何だ」

 クロムは、少し気恥ずかしそうに頬を掻いた。

「力を貸して欲しいんだ」

「力?」

「子供が生まれる」

「誰の」

「俺と、レイチェルの」

 はあ? と、ジェーンの声が変なふうに裏返る。ぽかんと口を開けたまま、固まった。

「お前と、レイチェルの」

「うん」

「子供」

「そう」

 頭の中で処理が追いつかないようで、ジェーンは思いきり眉根を寄せて考え込んだ。

「冗談はほどほどにしておけ」

「ほんとだって。まだ、レイチェルの家族にも話してない。レイチェルとレイチェルの乳母と俺とお前しか知らない。お前は怒るかもしれないけど、俺らは真剣に――」

 殴られるのを覚悟して両手でガードの体勢を作っていたクロムは、ジェーンの表情を見て腕を下ろした。呆然とした表情で、ジェーンはクロムを見ている。それでも、クロムと視線がかち合うと、戸惑ったように下を向いた。

「どうするつもりなんだ。ステュアート候は許さないだろう」

 やっとそれだけ、ジェーンは言った。

「それで、ジェーンに力を貸して欲しいんだ。ステュアート候への取りなしをしてほしい。都合良く使って悪いと思っている。だが、他に頼れるツテがないんだ。駆け落ちするより、出来れば家族と離ればなれにさせたくない」

「私に、そんな力はない。なぜ私に頼む」

「お前が王妃になる人間だからだ。陛下はお前のこと、お待ちかねだ」

「まさか」

 ジェーンは自虐的に嗤う。

「私はただの駒だ。必要とされてなどいない」

 クロムはじっとジェーンを見つめた。それは軽蔑などではない代わりに、家族や恋人に見せるほどの温かな眼差しでもなく。そっと腕を広げると、友を抱くようにジェーンを抱きしめた。体中が、クロムの体から発せられる匂いで包まれた。むせかえるような香水の香りでもなく、出会った頃のような、海風に晒され続けてきた厳しさのある雰囲気でもない。そして、ジェーンには慣れ親しんだ香りが、鼻をくすぐる。

 ジェーンは改めて、事態を把握した。

 この人はレイチェルの恋人で、そしてレイチェルはこの人の恋人になったのだ。じわりと。まなじりに涙が浮かぶ。ジェーンは逆らえずにそれを流した。どんどん涙は溢れてくる。それでも、嗚咽だけは最後の抵抗だとばかりに漏らさないように、クロムの胸の一角を、今だけと借りて塞ぐ。クロムはそれをただ見守った。

 騎士になりたいという夢も、レイチェルの側にいることも、愛することも、ただ、自分自身を認めて、必要として欲しかったのだ。けれどもそれは全て自分は何かの代わりで、一つとして叶わなかった。そして、レイチェルは自身を愛してくれるクロムという存在を手に入れた。なんてうらやましい、と、ジェーンはレイチェルをうらやんだ。そして、レイチェルを愛すことのできるクロムをも。

「私は、騎士になれないんだな」

「違う」

 クロムは言い切った。

「お前は、普段どんな格好をしてる? 貴族の令嬢だ。片手間では俺に負けるに決まってる。お前はお前のやり方で、騎士になれ」

 自分は、どうしたいのだろう。

 ジェーンは自らに問うた。絡まっていたひもを解いていくように、頭の中を整理する。自分のこと。レイチェルのこと。エリックのこと。

 自分にできること。自分にしかできないこと。

 ひとしきり涙を流し終えると、ジェーンはまだ震える声で言った。レイチェルを、必ずや幸せにしてほしい、と。わかったと、これまでになく真剣な声で、クロムは誓った。そして、「それから」と続ける。

「どの噂が陛下のお気持ちなのかは、俺もわからない。けど、陛下が選んだのは、他の誰でもなくお前だ」

 ジェーンは、小さく頷く。 

「お前は、陛下のこと、愛してるのか」

 突然の問いに、ジェーンは目をしばたく。

「愛、か。難しいな。けど、愛しては、いないと思う」

 だよな、とクロムは正直すぎる友人に苦笑する。

「俺から、新たな友人の門出に、ひとつアドバイスな。お前からも、歩み寄った方がいいんじゃないか」

 似たようなことを、そういえばエリックにも言われていた。もしかしたら、からかいの中に少し、案じる気持ちがあったのかもしれない。

「どうやって愛したらいいんだろう。よくわからないんだ」

「俺も、わからねえなあ。だから、無理に愛せとは言わないぜ。でも、ちょっとだけ、陛下のいいとこ見つけて信じてみろよ。騙されたと思ってさ」

 ジェーンは眉根を寄せて考え込む。

 何を考えているのかわからない。言わないし、顔に出さない。女たらし。

 けれど時折、違う表情を垣間見せる。厳しい、王としての顔。

 それだけだろうか?

 自分はまだ、エリックのことを何も知らないのだ。知らないのに、わかろうとしないで出てきてしまった。

「もう一度、やり直せるかな」

「言っただろ。陛下は、お前のことお待ちかねだって」

 クロムは勇気づけるように、ジェーンの肩を強く叩く。痛いな、と言いつつも、ジェーンの顔に笑顔が戻った。

 一呼吸置いて、ジェーンは涙を乱暴にぬぐう。クロムをはねのけるようにして離れると、表情を一変させた。

「先ほどの申し出だが」

 まだ赤く濡れた目で、それでも鋭く睨んでジェーンは言った。

「ステュアートに恩を売るいい機会になる。考えておこう」

 クロムは、ジェーンの肩を叩くと恩に着ると言って頭を下げた。

 クロムを見送りながら、ジェーンはエリーを呼んだ。風が、足下の草の葉の間を駆け抜けていく。そして、ジェーンの赤みがかったブラウンの髪も。これは、呪いなのかもしれないと、ジェーンはふと思う。それでも、この目が、セントオールに繁栄をもたらす青であるなら、自分の見据えるものを守れるかもしれない。エリーは変わらず、傍らに控えている。

「二つ、頼みがある」

 エリーはジェーンの顔を見上げた。ジェーンはクロムの消えていく方向を見たままだ。

「一つは、史料を揃えて欲しい。呪いの巫女、先王の暗殺に関して、それから陛下のこと」

 エリーは、躊躇うことなくはいと答えた。

「それからもう一つ。私には意見をするように」

 ジェーンはエリーの方を見て言う。エリーは主の顔を、思わずまじまじと見つめた。

「私は王妃になる。そのために、自分にできうる限りのことをしたいのだ。力を貸してくれ、エリー。私には、エリーの力が必要だ」

 エリーは、深々と頭を垂れた。その目に少しだけ喜びの色が滲んでいるのに、ジェーンは気づいた。ジェーンが城に戻るという報は、伝達係によってすぐさまエリックに伝えられた。数日後、ジェーンが城に到着すると、派手な迎えの一団の代わりに、エリックが狩りに行くような出で立ちで、城門で待っていた。

「申し訳ありませんでした」

 ジェーンが馬車を降りて言うと、エリックは、ふんと鼻を鳴らして踵を返した。

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