第16話



 ジェーンがひっそりと城に戻ったのは、まだ冬の寒さが染み入る日だった。申し訳程度の日差しが石造りの城内をさらい、山吹色に染める。変わらない城内は、どこか感慨深げにジェーンを迎え入れているようにも見えた。

 帰還後も、何事もなかったかのように教育カリキュラムが進められ、まためまぐるしい日々が始まる。ジェーンはそれを、以前とは比べものにならないほど精力的にこなしていった。周囲の好奇の目は変わることなく注いでいたが、それを呑み込む気概で地を踏みしめていた。そんな中で、その倒れそうな背を支えてくれたのがエリーだった。エリーは帰還するなり彼女の願いを忠実に実行した。王室の資料室から、先王時代以降の布告からゴシップ記事、巫女関連の物語や詩歌集など、あらゆるジャンルの資料を持ち出してきた。ジェーンはそれを、寝る間も惜しんで片端から目を通した。

 昼間時間が空けば、伝承を頼りに隠れて遠出もした。エリーは片時も離れず、ジェーンの脇に控えていた。声をかけるでもなく、ひたすら。

「何を夜更かししているんですの、ジェーン」

 今まで通り接してくれたらいいというジェーンの言葉に、遠慮なく言い放ったのはヴァネッサだった。女官の手で衣装の色あわせをされ、生地に埋もれているジェーンの肌を、これまた遠慮なしに触る。

「夜に訪ねてくる方もないでしょうに、どうしてそんなにがさがさの肌をしているの? 呆れてものも言えませんわ」

 形のよい眉を顰めて、ヴァネッサは言う。しかしすぐに、その眉尻を下げた。

「気にしてるんですの?」

「何を」

 特に思い当たる節もないような声で、ジェーンは返す。体は女官たちのされるがままで動かすこともなく、また連日の夜更かしのせいで頭はぼんやりしている。

「何をって……陛下のことに決まってるじゃない」

辺りをはばかるように、ヴァネッサは特に声を落とす。ジェーンがみっちりスケジュール管理されている間、エリックはといえば、婚約者がありながら、他の女と遊んでいるともっぱらの噂だった。

「何だ、そのことか」

 心中穏やかでないわけではないが、今のジェーンは自分のことで手一杯で、エリックにまで気が回らない。

「何をのんきなことを! 陛下が愛人を作って、そちらに寵愛と権力が移ったらどうしてくれるんですの!」

 ヴァネッサは、冬が明ければジェーンが王妃になることなど気にならないかのように言った。ジェーンの頭が、まどろみから引っ張り出された。

ヴァネッサの妹が、ジェーンの女官として付くことになっている。衣装合わせをしている女官たちも、ブラッフォードの息のかかった人間たちだ。今のうちに釘を刺しておかないといけないと思ったのだろう。しかしジェーンは、首を横に振った。ヴァネッサは不満そうな顔を向けた。

「確かに、私はあなたとは対立する派閥にいた人間ですわ。でもあなたを見ていて一つ、一人の女として言わせてほしい。女性問題は、もうちょっと口出ししていいと思いますわ!」

 ジェーンは、困ったように唸った。

「私がいたかもしれないポジションの人間が、全ての令嬢が憧れていた座が、そんな不幸せな顔をして座っていなければならないなんて、許せませんわ」

 万感を込めて、ヴァネッサは言う。ジェーンはまじまじとヴァネッサを見た。自分は、そんな顔をしていたのかと、そっと頬に触れる。不覚だった。

ふと、以前にレイチェルが、ヴァネッサや他の令嬢たちと、対立したいわけじゃないのにと表情を曇らせていたのを思い出す。ああ、と心の中で溜息をついた。

「優しいんだな、ヴァネッサは」

 ジェーンは素直に感想を言った。ヴァネッサは呆気にとられる。

「あ、あなたがあまりにも哀れに見えたから言っただけですわ! 王妃殿下になられたら、そんなこと申し上げられませんから!」

「うん、親切にありがとう。でも、私は陛下の女遊びを止める気は、今のところないんだ」

「――ジェーン」

 ヴァネッサは肩を落とす。ジェーンは細かく刺繍のされた群青の生地を見つめた。セントオールのシンボルカラーは、セントオールの国内では王族のみ身につけることが許されている。どんなに願っても、ヴァネッサは身につけることのできない色。そして、ジェーンが背負わなければならない色。ジェーンはふと、その深い海のような色にクロムを思い浮かべる。そうしてそうっと目を伏せた。

ヴァネッサの他にも、エリックの火遊びを快く思っていない者がいた。あれからそのことは一切口にしないヴァネッサに比べて、こちらは少々やっかいだった。

「失礼します」

 こぢんまりとした庭園を見渡せる窓辺の椅子に、貴婦人が腰掛けている。ジェーンはその背に声をかけた。前に進み出て礼をする。

「久しぶりね、ジェーン」

 育ちの良さをうかがわせる柔らかな声音。初めてこの声を聞いた時、ジェーンはこれが王室の人間かと惚れ惚れしたのを覚えている。自分が、近づけもしないだろうと思っていた存在、それが王太后テレサだった。宮廷で礼儀作法を学び始めて数年がたつ。しかし、彼女らを指導していたのは主にテレサの右腕と言われているグレイ夫人で、直接テレサと会話したことはなかった。よもや、このような形で彼女と対面することになろうとは。ジェーンは深々と礼をした。

「掛けなさい」

 促されてジェーンは静かに腰掛けた。手際よく、二人の前にお茶の用意がされる。比較的簡素な服をまとった女官が、そっとお茶を注いだ。ジェーンははて、と心の中で首を傾げる。見たことのないひとだ。年の頃は、テレサと同じか少し上くらいで、動作には無駄がない。室内の冷え具合を表すかのように白い湯気が、小さなカップから立ち上った。紅茶に移された、むせかえるような花の香りが鼻をついた。テーブルの中央には、アクセサリーのような砂糖菓子が真白い陶器に入れられ、隣にはそれとは打って変わってシンプルなオレンジケーキが置かれている。

「びっくりしたわ」

 率直に、テレサは言った。

「陛下が選んだのがあなただって知って」

「陛下は王太后様に、相談されなかったのですか」

 ジェーンはつい、聞いた。テレサはいやな顔一つせずに答えた。

「陛下が私に相談するのは、庭園のことくらいよ」

 そう言うと、窓の外に顔を向ける。ジェーンもそれに続いた。

「私にできることと言ったら、それくらいだもの」

 貴族にその殆どの権限を奪われ、幽閉状態にあるテレサの状況は、ジェーンもよく知っている。それを紛らわせるかのように、豪勢な庭園を作り上げ、貴族の娘たちを集めて、その教育に情熱を注いできた。陛下にふさわしい王妃を、自分で育て上げようと思っていたのだろうというのは、ナタリーから聞いた噂だ。その中ではねっ返りだった自分が選ばれて、さぞや心外だったろうと、ジェーンは身を固くした。

「そう固くならなくていいわ。さ、ケーキもあるのよ。食べて」

 テレサはそう言って、自らもカップに口をつける。ジェーンもそれに倣った。話は衣装合わせのことから、エリック指定の英才教育のことと、世間話のような会話が続く。ちらちらとのぞくテレサの表情は、あくまでにこやかだ。初顔合わせは、このまま無事切り抜けられそうだ。あとは、とジェーンは唾を飲み込む。かねてから、思っていたことがある。

「あの、テレサ様」

「何かしら」

「お願いがございます」

 テレサはカップを置いてジェーンをじっと見つめた。ジェーンは背筋を正すと、思い切って口を開いた。

「お茶会を催したいのですが、いかがでしょうか。暖かくなってから、テレサ様の庭園の一角を、お借りできませんか」

「かまわないわ。私の庭を楽しんでもらえるのは結構なことだもの。子細を詰めて、日が近づいたらまた相談して。――でも」

 テレサの顔つきが、みるみる厳しくなる。

「あなたは王妃となる人間です。あなたに今一番必要なのは、語学や儀礼の知識。余計なことをしている暇などないはずですよ」

 テレサの言葉に、ジェーンの表情が強ばった。

「トレヴィシックの者から聞いていますよ。あなたが何をしているのか」

 ジェーンは思わずあたりを見回す。控えていた女官たちは、ジェーンにお茶をいれた女官を除いて、いつの間にか退出していた。このひとは、テレサ付きのトレヴィシックか、とジェーンは残った女官を見た。道理でこれまで見たことがないはずだ。

「これは警告です。今すぐ詮索をおやめなさい」

「なぜですか」

 ジェーンは声を上げる。

「私はただ、王室の歴史を学びたいだけです」

「先王陛下はご病気で亡くなられました。呪いの巫女など、空想の産物です。王室とは何の関わりもありません。そのようなものに惑わされて、貴族の傀儡となってもらっては困りますね」

 テレサはぴしゃりと言った。

「あなたに付いているトレヴィシックは、一体何をしているの? 王室を滅ぼしたいのかしら」

 ジェーンは思わず身を乗りだした。

「私が、集めてこさせたのです」

 テレサは冷ややかな目を女官に向けた。

「あまりトレヴィシックを信用しないことね。先王陛下の暗殺の噂も呪いの巫女の噂も、元はといえばトレヴィシックが責務を果たしていないために沸いた、王室の恥。これ以上の恥の上塗りはやめてほしいわね」

 ジェーンの頭に、かっと血が上る。しかし、目の前の相手はテレサだ。ジェーンは唇をかみしめる。テレサはなおも続けた。

「あなたの使命は、王室を次代に繋げていくこと。あの忌々しい貴族たちの毒牙から逃げきらねばならないのです。そのことだけを考えなさい。陛下が火遊びをやめないのは、あなたにも原因があるんじゃありませんか」

 テレサなりの助言なのだ。ジェーンは頭では理解する。王という後ろ盾を失い、貴族の言うことに諾々と従うしかなかったテレサ。そしてエリック。最後まで、貴族の手から王冠を守り続けた自負がある。

と。

 軽いノックの音が、緊迫した室内の空気を打ち破る。二人の視線が、ドアの方を向いた。ドアの向こうからひらりと、蒼い上着を身に纏ったエリックが現れた。

「お話のところ、失礼します。ジェーンを借りたいのですが」

 金細工の小箱を片手に、エリックは言う。

「それから、おみやげです」

 小箱の蓋を開けると、そこにはバラの形をした透明な飴細工が、いくつも入れられていた。微かな光を取り込んで、つやめいている。テレサが受け取らずに目で合図すると、女官が進み出てそれを受け取った。

 テレサは顔を顰め、追い払うようにジェーンをさがらせる。ジェーンは一礼すると、素直にそれに従った。エリックも、二言三言言葉をかけると、後に続いた。

「ありがとうございます」

 部屋を出たエリックに、ジェーンは声をかける。エリックは肩をすくめた。

「たまたまだ。母上に絞られたのか?」

 ジェーンは頭を振った。

「余計なことをする暇があったら、精進するように言われただけです」

 そうか、とエリックは独り言のように返す。

「無理もないだろうな」

「テレサ様の立場はわかります」

 ジェーンは肩の力を抜いた。どっと、疲れが出る。息をつくジェーンに、やめるのかとエリックは問うた。テレサが知っているのだ、エリックも当然、ジェーンが何をしているのか知っているだろう。

「やめません」

 強い意志の感じられる口調で、ジェーンは返した。

「どうして?」

 間髪入れず、エリックは問う。からかうような、試すような、そんな表情でジェーンの心を覗こうとする。

「私は、飾りにはなりません」

 挑むように、ジェーンは口にした。覚悟だ。レイチェルやヴァネッサや、その他の人たちの夢やら野望やらを退けて、図らずも手にした椅子への。

「エドガーの言葉が気になって。それから、先王陛下のことも。先王陛下は、名君として名高い方でした。それが戦争を機に、評価ががらりと変わります。必要以上に貴族への取り締まりを強化して、民衆への負担を強いました。私のような田舎の人間ですら、おかしいと思うほどに。これを知らぬふりをしたまま、王妃となるべきではないと思ったのです」

エリックは、口元に微笑をたたえる。廊下に、一筋だけ冬の淡い光が差し込んでいる。靴の先でそれをとらえて、光の差す方を見た。

「お前は、お前の好きにしたらいい。俺が生きている限りは、俺が後ろ盾になってやる」

 ジェーンは目を丸くする。ぽかんと、開け放たれた口で、ようやく問う。

「いいんですか?」

「何度も言わないぞ」

蒼い上着の背だけ向けるエリックに、ジェーンはほっとしたように笑んだ。ふと、クロムの言葉を思い出す。

エリックのいいところはここだ。王でありながら、物事にとらわれない。

エリックは背を向けたまま歩き出す。

「あの、陛下」

「何だ」

「一度、皆で食事をする時間をとれませんか。テレサ様と、陛下と、私と」

 戻ってくると決めたときから、王室の一員となると覚悟を決めたときから、考えていたこと。

一瞬、エリックの足が止まる。しかし、すぐに再び歩き始めた。

「無理だな、忙しい」

「まさかデートで、ですか?」

 冗談のつもりで尋ねたジェーンに、エリックは素っ気なく返した。

「そうだ」

 ジェーンはむっとして追った足を止める。先ほどまでの感謝の気持ちが、一気に吹き飛んだ。

「わかりました」

 悔しさの滲む声で、それだけ言う。テレサの、寂しさを押し込めた笑顔が、脳裏をかすめた。それと同時に、また、わからなくなる。冬の、暖かみのない光を受けながら、蒼の背中が五歩も十歩も前を歩いて行く。ジェーンはそれを、重い足取りで追った。

一日の日程を済ませ、部屋に帰る頃にはもう、夜の帳が重く落ちてしまっている。凍える指に、ジェーンは息を吹きかけた。セントオールの冬は、寒い。ジェーンは厚手のガウンを羽織り、膝掛けをかけると、眠い目を擦りながら椅子にもたれかかった。堆く積まれた本が、ジェーンの視界を遮っている。もっと勉強しておけばよかったと、ジェーンは息をついた。

ごん。

鈍い音をさせて、本の塔の向こうに何かが置かれる。

「なに、」

 ジェーンは身体を起こしてその音の正体を確認しようとする。すると、横からさっと手が伸びてきて、塔をさっとよけた。その向こうには、大きなワインの瓶が置かれている。

「どうしたんだ、これ。ていうか、その本一気に持てるの?」

 ジェーンが目を丸くしているのを尻目に、エリーは軽々と本を別の机に移動させた。代わりに、どっしりとしたグラスを二つ、運んでくる。

「飲みましょう」

「いや、飲みましょうって」

 エリーは、有無を言わさずグラスをジェーンの前に置くと、豪快にワインを注いだ。反射的に、ジェーンは礼を言う。

「あのオバさん、細かいんです。気にしない方がいいですよ」

「は」

「ほら、飲んでください」

 状況が飲み込めないまま、ジェーンはワインに口をつける。

「陛下も陛下です。ジェーン様に関しては、本当に配慮が足りない!」

「どうしたんだ、エリー」

 目を白黒させて、ジェーンは問う。何だか、普段のエリーとは、人が違うようだ。普段のエリーと言えば、鉄仮面のような顔に冷徹なまなざしをたたえた、トレヴィシックの顔を常に貼り付けている。

「まさか、飲むと人が変わるのか?」

「まだ飲んでませんし、私は強いですよ」

 きっぱりと、エリーは言い切る。そう言うならと、ジェーンはもう一つグラスを用意させ、一人で飲ませるなと、エリーにも飲むよう促した。エリーは、宣言通り、グラスの中身を一気に飲み干す。ジェーンは、うわ、と感嘆の声を上げた。

「何だ、こっちが素なのか?」

 エリーは、ジェーンのグラスにもワインを追加しながらちらとジェーンを見た。

「任務中は、ああしてないと怒られるんです。あくまでも、トレヴィシックの一人ですから。そりゃ、今この瞬間もですけど」

 つまむものはチーズでいいですかと言いながら、エリーは色とりどりのチーズの入ったガラスの器を二人の間に置く。ジェーンは遠慮なく鮮やかなオレンジのキューブを手に取った。口に入れると、強い酸味が噛んだところから広がってきた。

「その緑の、オススメですよ」

「え、これえらいにおいがしてるけど」

「騙されたと思って食べてみてください」 

 ジェーンは、勧められるままに口に放り込む。

「かっっら! 何これ」

 目に涙を浮かべて、ワインで一気に流しこむ。痛いほどの辛さは、ワインでは流しきれずに舌を痺れさせた。口を押さえたまま、エリーを渾身の力で睨む。当のエリーは、可笑しそうに笑っていた。ジェーンは器の中に目を走らせる。緑のキューブを捉えると、素早く掴んでエリーに押しつけた。

「笑ってないで、エリーも食べろ!」

「残念でした、私辛いの平気なんですー」

 難なくエリーは咀嚼し、飲み込む。ジェーンはむくれて残りのワインを飲み干した。すぐさまなみなみとワインが注がれる。

「ええい、飲むぞエリー! 付き合え!」

 やけになって、ジェーンはワインの瓶を掲げる。

「地獄の底までお供しまーす」

 初めて見せる笑顔のまま、嬉しそうにエリーはグラスを傾けた。

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