191~200

191

 海月くらげは死ぬと水に溶けるの。誰からも忘れられるのが、私の理想の最期。

 そう言って言葉通り痕跡も残さず失踪した彼女はなぜ、私にそれを伝えたのだろう。願いに従い、彼女の声を、色素の薄い髪を、瞳を、肌を、忘れるべきだろうか。

 彼女の言葉はしこりとなって胸に残っている。存在しない海月の骨のように。

―海月の骨



192

 子らが健やかに育つよう。儚い一生が安らかであるよう。

 足下の緑陰で戯れる者達へ、枝をざわめかせて私は祈る。無論想いは人間には届かない。それでいい。

 ある日、木陰で休む青年が私を仰いだ。

「ずっと独りで祈っていたんだね」

 ああ、彼には届いたのだ。我々の間を微風が吹き通る。まるで祝福のように。

―緑陰の祝福



193

 嫌いな同僚の頭部が、台所の床の新聞紙の上にごろり、と転がった。私はそれに向けて全力で麺棒を振り下ろす。

 球状の物体は外圧に強くて割れにくい。割れろ。早く割れろよ。

 やがて根負けしたとばかりに、それは破裂するように鮮やかな赤さの割れ口を外気に曝した。西瓜割り。私の密かなる夏の楽しみだ。

―密かな夏の楽しみ



194

 旅の風をまとった存在だから、切手は愛おしいのかもしれない。

 未使用の切手には、これから遠くまで行けるという清潔な期待感。時空間を超えて僕の手元に届いた切手には、どこか懐かしい異郷の香り。

 肖像、動物、植物、景観。小さな四角形に収まったものたちに導かれ、僕の想像力は遥か彼方へと旅立つ。

―切手の風



195

 一対いっついの赤い光が、じわりと幽暗にあらわれる。姉の仇討あだうちがしたい。少年が言うと、悪魔は体躯を闇に溶かしたまま嗤う。

「義憤に悪魔が手を貸すと? 衝動の核に他人がいるようではまだまだだね。憎しみに身を浸し、害意そのものに堕ちたらまたおいで」

 少年は立ち竦む。一対の赤い光が、じわりと幽暗に紛れた。

―堕ちたらまた



196

 いるはずのない人の前に、酒をなみなみと注いだグラスを置く。

 それを掲げる彼女は、いつからか俺の部屋に現れるようになった。まるきり狂人的行動だが、理想の相手を想像しながら擬似サシ飲みをしていたら姿が見え始めたのだ。

 俺はいつか彼女に取り殺されるのかもしれない。それも良いなと思っている。

―いないはずの彼女



197

 僕が呼びかけると、錆び色の船体せんたいが砂の中からふわりと浮上した。値踏みするような時間があり、やがて「この老いぼれに何を望む、小僧」と船の声が響く。

 僕の願いはただ一つ。遥か続く砂の海の、果てをこの目で見てみたい。

 よかろう、大それた馬鹿は嫌いじゃない、とかつて祖父の相棒だった船がうけがった。

―砂の海の果てへ



198

 文字でも音でも、その名前を知った者に無情な死をもたらす、強大な力を持つ存在が私だ。

 名の呪力に守られ長く平穏に暮らしていたのに、開国の勢いで西洋から乗り込んで来た不死者なる存在が私の日常をおびやかしている。

「あなたはこの世で最も純粋で美しい」

 ああ、忌々しい。私はほだされたりしない。絶対にだ。

―矛と盾の彼ら



199

 群青色の鶏の卵を見つけても決してかえしちゃいけないよ。人喰いの化物が生まれるから。そいつは孵化して最初に見た人間以外を皆殺しにしちまうんだ。

 旅芸人風情がなぜそんなに詳しいかって? それより嬢ちゃん、奉公先は酷い人間ばかりなんだってね。変な気は起こさないことだ。

 忠告はしたからね。ひひ。

―化け物の卵



200

 知識が増えるのが楽しくて勉強している僕を、頭でっかちと同級生はからかう。

 君は砕氷船みたいだ、と近所のお兄さんは微笑して言った。

「あれは自重で氷を割って進むわけ。知識で頭が満たされたら、困難を乗り越える方法が色々思いつきそうでしょ?」

 僕を照らしてくれた彼は今、南極にいるのだそうだ。

―君は砕氷船

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