181~190

181

 怖いんだろうな、とずっと想像していた。あんな高さから時速百㎞近い速度で踏み切るのだ。

 でも違うのかも、と四半世紀以上凡人として生きて初めて思う。その人が心底楽しげに、恰も重力を振り切るかのように跳び――飛んでいたから。

 僕も十年ぶりに感じたくなった。スキーでの、あの頬を切る風の感覚を。

―飛ぶ



182

 黄昏時たそがれどきにのみ人間界に姿を現す屋台あり。そこでは要らぬものを売り、幽世かくりよにしか存在せぬものを購える。物や命や概念、何でもござれ。

 何処いずこからとも知れぬ茫とした灯りが照らす小さな店の一角で、僕の自我は生まれた。売られたのか、これから買われるのかは分からない。

 今はただ、はざまの世界を漂う日々だ。

―間の世界にて



183

 金魚は話す、ひらひらと。

「所詮金魚なぞ人に愛でられる能しかないちっぽけな存在さ。狭い鉢をぐるぐる回って退屈な一生を送るのさ」

 猫は応える、なあなあと。

「僕らをご覧。猫はどこでも自由だし、何でも知っているんだぜ。話をしようよ、鉢から部屋から世界を知るんだ」

 二匹は笑う、楽しそうだねと。

―金魚と猫、世界を語ること



184

 エルガーの変奏曲エニグマには文字通り小さな謎と大きな謎が隠されていて、後者は未だ解明されていない――のが通説だが、大学時代の恩師が生前その謎を解いたことを私だけが知っている。

 私は彼のことづけに従い、真相が記された未開封の書簡を棺に納めた。

 彼は燃え、謎は生き続ける。不思議と穏やかな気分だった。

―生き続ける謎



185

 辻斬りに偽装して俺を殺せ。病で死ぬよりもお前に殺されたい。

 彼の頼みに抗うすべなど私にはなかった。したたる雨と流れ出る血が混ざって夜に溶けてゆく。私の腹を読んだか、お前は生きろ、と今際いまわに彼は言った。だから私は生きねばならぬ。

 彼を想った私への、これは罰か。

 頬を雫が滴り落ちる。夜明けが近い。

―生という罰



186

 あの人と体を重ねるとき、眼裏まなうらにいつも線香花火が閃いた。慎ましく咲いて、儚く散っていく真夏の徒花あだばな。それはあの人の一生そのもので。

 とはいえ、長命種の自分にとって人間の生は瞬きのようなものだ。文明が滅んだ世界で、私は花火に似たあの人の魂を探している。

 どんな姿形でも、私は必ず見つけ出す。

―線香花火の魂



187

「やはり何か画材に秘密が? 魔法の筆のような」

 取材を受けて質問される度に、師匠は困り顔で微笑を浮かべる。下書きなしで巨大かつ細密さいみつな絵画を描くのに必要なのは、それこそ魔法めいた驚異的な集中力と、日々の修練の賜物である正確無比な筋肉の動きだ。

 芸術に抜け道はない。師匠の横顔はそう物語る。

―魔法の筆なんて



188

 かつてヒトは星々にこの世で最も美しい音を捧げた。天の川。昴。シリウス。プロキオン。

 地球の知性体は滅びてしまったけれど、彼らの遺骨を拾い集めるように、私は星の名を遺跡から探し続ける。ベガ。スピカ。ベテルギウス。

 人類が名付けた玲瓏れいろうな響きたちが、彼らへの弔いの鐘となることを願いながら。

―星を拾う



189

「ですから、坊っちゃん」

「君にさらさら気がないのは分かってる。それでも好きって言いたいんだ」

 困った雇い主だ。私は機械アンドロイドで、どんな感情記述プログラムされていないのに。

 夕方、不貞寝した彼に毛布をかけながら、存外いとけない寝顔に頬が緩む。待て。いま私は、笑ったのか? 非搭載の心臓の鼓動が聞こえた気がした。

―気がなくても



190

 ああ、その団扇? 夏草と月だけの絵柄なんて変だろう?

 昔は絵の中に蛍を飼っていてね、あおぐ度にふわふわ蛍が飛び交って綺麗だったのさ。でも出入りするうちに迷子になったか、いつしか皆消えちまった。

 冗談だろって? 確かに証拠はないさね。どれ、久方ぶりに使おうか。不在を想うってのも風流だからね。

―夏に不在を想う

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