91~100

91

 冒頭ではどん底にいたのに、たった数百ページで救われる登場人物が嫌いだ。底無し沼の泥濘ぬかるみでもがき続ける読者の僕を置き去りにして、勝手に希望を抱く主人公達が嫌いだ。

 だから僕は誰も救われない物語を編むと決めた。ろくでなしのこの物語をいつかあなたが足蹴あしげにして、光の中へ歩めるようにと願っている。

―ろくでなしの物語 序



92

 高層の建築現場にはクレーンがいて、丸っこい家具の足は猫のものねこあしで、ドアの端に蝶の番ちょうつがいがいると教えてくれたのはあなただった。

 優しいあなたが私に囁く名前は世界を開く扉であり、何気ない光景に彩りを与える魔法だった。

 今度は私が小さく愛しい存在に魔法を教えていくから、あなたは遠くから見守っていてね。

―名前の魔法



93

 十年後にあなたと結婚します。幼い頃した約束を彼はずっと覚えていて、親類も私を快く送り出しました。花嫁行列で先を行く彼の背中は大きく、人離れして見えます。

 まだ信じられません。列の中で人間は私だけなんて。

 祟り神に嫁ぐ地獄も、口減らしできて喜ぶ家族といる地獄も、きっと同じなのでしょう。

―地獄と思へども



94

 ずっとうつむいて生きている気分だ。心も体も磨耗していく私の人生って何だろう。

 久々に自転車に乗った小春日和、ふと振り仰ぐと、弓形ゆみなりの細い光がぷかりと空に浮かび、蜜を滴らせそうな一匙のスプーンに見えた。

 私の事情に関係なく月はいつでも冴えてある。心がすっとした。今夜はアイスでも買って帰ろう。

―一匙のスプーン



95

 進化が自然淘汰でなく、生命の意思で起こるものだったら。

 仮定を元に模擬実験シミュレーションを始めると、古代に発生した生命は多種の感覚器を備え巨大化、だが最終的にヒトようの姿になった。

 ある日液晶の向こうから博士、と呼びかけられ腰が抜けかける。自分を作った存在と会話がしたい。それが彼らの意思だったとは。

―生命の望み



96

 ビンの中の暗黒に永く独りで居る。

 元々人だった私は死を拒否し、脳を摘出し保存する処置を受けた。外界を知覚できず意思も発せず、思考だけが永遠に機能する闇への収監を意味すると想像せずに。

 壜には太陽光により半永久的にエネルギーが供給される。今はただ、牢獄を破壊してくれる者を待ち望んでいる。

―壜の牢獄



97

 神殿跡で彼女が奏でる、げんの音楽が風に乗り流れてゆく。

 その演奏には誘眠効果があり、生き物は眠り植物は花弁を閉じ、太陽すら雲の向こうへ顔を隠す。眠くならないのは世界でなぜか僕だけだ。

 究明するため僕らは放浪中だけれど、旅が続けばいいなんて思ってる。今日もまた、音を独占する栄誉に浴する。

―その音楽を聞く者は



98

 猫の定点観測が私の仕事だ。

 夜勤の人員と交代しモニタ上の猫を確認する。街に忽然と現れた体長十mメートル以上の巨大猫は、今日も香箱座りして微動だにしない。本当に生きているのか、と思った矢先、猫がぐわっと歯を剥き出して場が色めき立つ。

 猫は欠伸あくびを終え、何事もなかったようにまたすやすや眠り始める。

―猫の定点観測



99

 君の瞳は綺麗だね。

 昔からきらきら光るものが好きだった。海、夜景、鉱石。世界で最もきらめくものって何だろう?

 それはね、人の目なんだ。僕は綺麗な目を集めてるんだけど、目は持ち主が死ぬと退色も白濁もしてしまう……だから僕は美しい目を集め続ける運命を背負ってるんだ。

 ねえ、君の瞳は綺麗だね。

―君の瞳は



100

 夕食後に計画を実行に移す。睡眠薬を飲ませた妻が寝入ってから寝床へ運ぶ。私がくわだてをいだいていたなどと夢の中でも思うまい。

 食器を洗い、服にアイロンをかけ、軽く掃除をし、朝食の準備を済ませる。妻は私が出勤した後に目覚めるはずだ。食卓に置いた日頃の感謝の手紙を見て、どんな顔をするだろうか。

―夫の計画

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