緊張

 スーツに限らず、フォーマルな格好は童顔が際立ってしまって似合わないと思っていたのだが、どうも思いこみだったらしい。ワイドな襟のワイシャツ、ストライプのネクタイ、ネクタイと揃いのチーフ、光沢のない上下スーツにベストを合わせて、少なくとも学生には見えない。飛紗さまさまである。これだけのものをよく魔窟から拾いあげてきたものだ。

 その飛紗が、隣に座って居心地悪そうに目線を落としている。今日は婚約指輪はチェーンではなく、左手の薬指につけていた。同じく居心地悪そうにしているのは向かいに座る彼女の父の和紀で、母親の小春だけがにこにことしてかまえている。弟の綺香は出かけているらしい。

 なし崩しに挨拶をした初対面から改めて、飛紗との結婚について報告に足を運んだ次第なのだが、空気が重い。よくテレビなどで特集される「娘はやらん」という厳格な雰囲気ではなく、こういう話は苦手だ、というのが、隣と向かい、両方から発せられている。

「お時間つくっていただき、ありがとうございます」

「こちらこそ。申し訳ないくらいやわ」

 それで、対応はほとんど小春が担当するらしい。慣れていない感じが大変愉快だったので、できるかぎり引き延ばそうかと考えたが、飛紗がじろりとこちらを見て牽制したのでやめておく。間をたのしむ癖はとっくに見抜かれている。

「先日お伝えさせていただいたとおり、いま、飛紗さんとお付き合いをさせていただいています。本日は結婚のお許しをお願いしたくて参りました」

 結婚、と口にしたときだけ、どこか緊張したのがわかった。まったくの無意識で、知らぬ間に不安を抱いているのか、これまで頭になかったことをしようとしているためか。後者はなんとなくわからなくもないが、前者は考えたこともなかった。

 小春が笑顔のまま、和紀に目線を向けた。ここは父親が返すべきところ、と暗に示している。二人は将棋を通じて知り合ったと聞いているが、はたしてどちらがつよかったのだろうか。

 えー、と和紀がそわそわと間を計り、んん、とわざとらしく咳払いをした。まだ悩んでいるらしい。しかしやがて、目線は相変わらずテーブルの中央に置かれた造花に向けられていたが、何かを悟ったように、細く息を吐いた。

「飛紗がこんなにはよう、誰かを連れてくるとは思わんかった。まあ僕が知らんかっただけかもしらんけど」

 実際瀬戸以外を知らない飛紗が、指輪をなでてさらにうつむいた。いや、と隣の瀬戸にしか聞きとれないほどの小さな声で呟く。

「ふつつかな娘ですが、よろしくお願いします」

 やっと瀬戸を見た和紀が、ゆっくりと瞬いて、双眸を和らげた。前回、少し話をしたときに比べると、明らかに心を開いてくれている。

 はい、とはっきり返事をすれば、また照れくさそうに和紀は目を伏せてしまった。

「じゃあ、あとは気軽に話しましょう。いいお菓子買ってきとるから」

 いそいそと台所に向かった小春を見て、明るい母親は救いだな、と思う。すると隣と向かいから、はー、と同時に重苦しい空気から抜け出すような溜息が聞こえてきて、笑わずにはいられない。声をかみ殺していると、バツの悪そうにした二人がほんとうにそっくりで、耐えきれず声が漏れた。

「あらなに、たのしそうやね」

 お菓子を持ってきてくれた小春が、改めて温かいお茶を淹れなおしてくれる。和紙にくるまれた小さな袋を見るなり、飛紗がうれしそうに声をあげた。

 おいしいで、と一つ手渡されて、和紙を開けば、キャラメルで豆が包まれている。口に含むと、かすかにコーヒーの匂いが鼻腔に抜けていき、程よい甘さでおいしかった。どうもアーモンドのようだ。

 鷹村家の三人も口に入れて、ぼりぼりと音を立てながら食べている。

「眞一さんは、ずっとこっちの学校に勤めるん?」

 二個目に手を伸ばしながら、小春が聞いてきた。

「はっきりとは言えませんが、基本的にはそのつもりです」

 史料はこちらのほうが多いし、ひとまず教授になるまでくらいは人脈を広げておいたほうがよい。廣谷がこちらにいるから、というのも、もちろん理由の一つではあるのだが、言うとややこしいので黙っておく。

「まあやけど、当然お墓は東京やもんね」

 しみじみと、しかしひとりごとのように呟かれて、瀬戸は何も言わずお茶をすすった。

「眞一くんの親御さんには、いつ挨拶に行くんや」

 すでに三個を平らげている和紀が、四個目を口に入れながら飛紗に言った。甘党なのかもしれない。眞一くん、という呼び方にたどたどしさを感じる。

「年末業務が激化する前に一度行っとかなと思ってて、来週、ちょっと行ってくる。それで、結納に都合のええ日取り、先に聞いときたいんやけど」

「うちの親に来させますから」

 飛紗がカレンダーを持ってきて、和紀と小春に見せる。一一月、それがだめなら二月以降だ。年末年始は飛紗の都合が悪い。歳末セール、年始のセールで、一年でもっとも忙しいらしい。

 結納なら大安だろうということで、はやくに教えてくれればどこでも大丈夫、と半ば小春に押しきられる形で和紀も頷いた。

「難しいかもしれんが、ぜひお二人ともに来ていただくように、よう伝えといたってください」

 二人とは、父母のことではなく、父とそのパートナーの学のことだろう。学が恐縮しないようにわざわざ言ってくれているのだとわかって、無意識のうちに頭が下がる。当の和紀は表情が見えないように勢いよくお茶を飲んで、おかわりを小春に催促した。

 様子を見ていた飛紗が、はい、と瀬戸にまたお菓子を渡す。遠慮しているわけではないのだが、受けとったので食べることにした。和紙をきちんと折りたたんでいる鷹村家の三人を見て、せめてきれいに広げる。

「ついでに桂凪に会ってこようかと思って」

「ええんちゃう? あの子面食いやからよろこぶやろ」

 けいな。耳慣れない名前に飛紗を見ると、妹、と教えてくれた。東京の大学に出ているということと、飛紗の七つ下ということ以外は、瀬戸はまだ顔も知らない。

 漢字はわからないが、それぞれ将棋の駒から一字取っているらしいので、「けい」はおそらく「桂」だろう。

「あ、ごめん勝手に決めて。よければでええねんけど。まだ予定聞いてへんし」

「いや、いいですよ。会ってみたいし」

 そのあとは、小春からの質問(「その敬語は癖なん?」「親御さんはどんな方?」「ご兄弟はおるん?」)に答えて、飛紗の部屋に移動することになった。二階の角部屋だ。向かいが綺香の部屋で、隣が桂凪の部屋らしい。

「桂凪はたぶん、東京から戻ってけえへんの違うかな。就職先、あっちで見つけたいみたいやし」

 どうぞ、と招かれて、飛紗より先に部屋へと入る。予想どおり、きちんと整理整頓されていた。瀬戸が来るからと片づけたのではなく、普段からこんな感じなのだろう。クローゼットらしき場所とは別に、箪笥が置いてある。自社製品と他社製品をこうして分けているのかもしれない。あとはベッド、本棚、テーブルが主な家具で、それ以外に大きなものは見当たらなかった。枕元にぬいぐるみが並べられているので眺めていると、かわええでしょ、と途端に破顔したので、つい飛紗をなでると、「すぐそういうことする」と弾かれてしまった。

 床暖房のついた絨毯が敷いてあり、その上に座る。飛紗は階下から持ってきたお茶とお菓子をテーブルに置いた。

「青がすきなんですか?」

 全体的に部屋を彩っているので聞いてみると、わりと、という回答だった。

「赤とかもすきやけど、ワンポイントでええいうか、部屋を飾るのは青のほうが落ちつくから」

 確かに、服は青の印象がつよくない。さまざまな色を着こなしているイメージだ。

 本棚の並びからも几帳面さが窺えて、よく魔窟を見て愛想を尽かされなかったものだと感心した。どんなに気持ちが盛りあがっていても、冷めるときは一瞬で冷めることを知っている。

「眞一はぜんぜん、緊張しとらんかったね」

 脚を折り曲げて、膝に頭を載せながら飛紗は言った。膝上のスカートでそんな無防備なことをされては困ってしまう。他の場所で、誰相手でも何も気にせずやりそうなところが。

「すでに一度、挨拶したあとですから」

「前もたのしんどったくせに」

 第一ボタンまでとめるのなんて、学会くらいだ。ネクタイを緩めて、ボタンを外す。さんざんカジュアルな服装を着てきたせいか、首元がきつい服はどうにもいただけない。ジャケット脱ぐんやったら貸して、と言われたので、渡すとわざわざハンガーにかけてくれた。

 暑いのは苦手だ。ベストも脱ぎたいところだが、さすがに憚られてやめた。一度脱ぐともう着たくなくなる気がする。

「緊張することあるん? 眞一も」

「ありますよ。高いところとか」

 いま住んでいる家は四階だが、絶対に下は見ないようにしている。電波塔の頂上階にわざわざお金を払って見に行く人間の気が知れないし、遊園地にある絶叫系などもってのほかだ。

「そういうんやなくて」

 唇を尖らせて、瀬戸の膝に体を載せてきた。ちょうど前髪を分けている生え際に唇を落とせば、今度は身じろぐだけで何も言わなかった。

「飛紗ちゃんに告白したときとか」

 一瞬驚いたように目を開いたが、すぐに眉根を寄せて不服そうに瀬戸を見つめた。揶揄されたと思ったらしい。

「答え、わかっとったくせに……」

 それは、確かにそうだ。はっきりとは言われないまでも半ば思いは伝えられていたようなものであったし、態度からしても確信は持っていた。気づかなかったとは言えないし、言ったところで信じてもらえないだろう。

 とはいえ、緊張していたのはほんとうだ。だからこそ結婚の二文字が出てきてしまったのだ。そんな考えが自分にあったのかと驚いたのは瀬戸のほうで、しかし撤回するほどの後悔もなく、むしろ腑に落ちていた。刹那的ではなく、一生傍にいてほしい、と現実感を持って思ったのは、間違いなく初めてのことだった。

「わかっていても、もしも、が頭に浮かんだんですよ」

 日頃の行いが悪かったせいで、当時の飛紗に確認をとられたくらいだ。ほんまに? と問いかけてきたときの表情は、鮮明に脳裏に残っている。

「もう信じてくれているでしょう?」

「そりゃまあ、これだけ……」

 そこまで言って、口を一文字に結んでしまう。続きはわかっているがじっと見つめると、うるさい、と一蹴された。前髪を耳に寄せるように触れると、体を起こしてちらちらと目線を動かし、隙を見て唇を押しつけられた。

「眞一こそ、ちゃんとわかっとってよ」

 たまにこういうことをしてくるから、油断ならない。自分のことは棚に上げて思い、瀬戸は仕返しのように口づけた。

「自分の部屋でこういうことするん、変な感じ。いちゃいちゃするって、本来、難しいんやね」

 普段は一人暮らしの瀬戸の家で会っているからだろう。気兼ねすることもなければ、誰かに見られる心配もない。学生時代に恋愛を経ていなかったからこその発言な気がして、改めてこれまでの飛紗を考えてしまう。

「付き合うことはなかったといっても、すきなひととか、いなかったんですか」

 聞いたのは単なる好奇心で、深い意味はない。しかし飛紗はじっと考えこみはじめた。答えにくいならいいですよと言えば、うーんと唸った。

「おったけど、どうこうなりたいとかはなかった、かな。芸能人見るのとあんま変わらんっていうか。友だちのお兄ちゃんとか、先生やったし」

「ああ、同級生の兄とか姉がやたら大人っぽく見える現象、あれ何なんでしょうね」

 聞いていて思い出したが、まさに同級生の姉と付き合ったことがある。同級生、つまり彼女からすれば弟には秘密ねと言っていたわりに、内緒にするのがつらい、などと言って一方的にふられたのだ。理不尽である。

 何人くらいと付き合っていたか、と以前に飛紗が疑問にしていたが、実際何人か、数えたことがない。最長で二年だ。ほとんど恋人を途切れさせたことがなく、飛紗と対比させると印象が悪いのは間違いないだろう。

「小学生とか中学生とか高校生の眞一、見たい。絶対アルバム見せてもらうって決めてんねん」

 前に鷹村家に来たとき、飛紗のアルバムを見せてもらった手前、だめとは言えない。

「そんなにおもしろくないと思うけど。あんまり顔変わってないし」

「ええの、見るの」

 小さい子どものように主張して、飛紗は持ってきたお菓子を食べる。先ほど値段を聞いて、なるほど高級菓子だと思った。もちろんそれだけのおいしさがあるので納得はできるが、単なる挨拶のために用意をさせたと思うと少々申し訳ない。そう思いながらも、飛紗がしあわせそうに食べているので、まあいいか、と感じてしまう自分もいて、このあからさまな贔屓に苦笑してしまう。

「一緒に遠出するん初めてやね」

 来週の東京行きのことを言っているのだろう。付き合い始めてすぐお互い仕事が多忙になったことや、部屋に籠って各々すきにするのが性に合っていたこともあって、大阪より遠くに行ったことがない。そういえば京都すらないな、とぼんやり思った。たった一時間弱の距離であるのに。

「たのしみ」

 挨拶は緊張するけど、とつけ加えながらも頬を緩める飛紗に、うん、と返すだけで胸がいっぱいになった。

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