風邪

 仕事が一段落した。とはいっても繁忙期の小休止で、もう一山、年末年始にかけて残っているのだが。先日、瀬戸が半強制的に両親に挨拶をしてから、今日は会わなくていいのかとうるさくせっつかれることが増えた。父と二人になった瀬戸が何を話したのか、なんだか妙に気に入られていて、母は母でやり手やね、なんて言っている。弟の綺香だけはもともと知っているので特に感想はなかったが、どこかで抱いていた心配はなくなったらしい。そういう男だと知っていても、瀬戸恐るべし、である。

 今日は何の憂いもない久々の連休で、これまでなら瀬戸の家に行くところなのだが、さすがに疲れが溜まっていた。疲れを瀬戸といることで取っている部分は大いにあるものの、瀬戸が同じとはかぎらない。べったりしすぎている自覚もある。たまには自室でゆっくり、ひとりで落ちつく時間をつくったほうが双方のためにもよいだろう。

 昼近くまで寝て、着替えもせずリビングに向かう。父は将棋、母は仕事のはずだ。テーブルに置いてある朝食(兼昼食)を食べて、一息ついていると、すでにきちんと着替えている綺香がやってきて、驚いたような顔を見せた。

 おはよう、と言いながら、右の拳をこめかみにあてて下におろすと、綺香は飛紗を指さして、両手の拳をお腹のあたりから下に動かした。左の拳の下を、立てた右の人差指がくぐるようにしたあと、その指を体の前で左右に振った。綺香は中学生のときに聴覚をなくしたので話すこと自体は可能なのだが、智枝子の前以外では頑として声を発そうとしない。そのうえ、口を動かすこともきらうので解読が難しいときがある。いまのは「飛紗ちゃん、なんでおるの?」だろう。

「休みやからやけど?」

 手話と読唇、両方で伝わるように、飛紗はしゃべりながら手を動かす。最近の出勤率が高すぎたから、驚かれているのだろうか。それでももちろん、週一回は必ず休ませてもらっていたのだが。

「ええの? 行かんで」

「どこに?」

 何か頼まれていたことでもあっただろうか、と記憶を探ってみるが、覚えがない。

「瀬戸さん風邪なんやろ?」

「え?」

 驚く飛紗に、綺香が驚く。薄く眉根を寄せて笑うのは、困っている証拠だ。余計なことを言ってしまっただろうか、という表情。何も聞いていない。綺香はすでに卒業しているが、国文学の教授相手に将棋を教えるため大学に通っているから、そこで知ったのだろう。

 慌てて部屋に戻り、スマートフォンを覗く。忙しいからとここ数日はろくに連絡をとっておらず、昨日、「明日明後日は久々に休めそう」とラインを送ったのが最新で、「よく休んでください」と返事がきている。風邪のことなど一切書いていないが、やんわり会わないことを示唆している。

 着替えて、いつもよりかなり手を抜いた最低限の化粧をして、髪をまとめた。普段会社に行くのに使っている鞄から余計なものをベッドに放り投げ、玄関に向かう。おかゆくらいならつくれる、と靴を履こうとして、いや待て、あの家にお米はあっただろうかと不安になった。炊飯器はあるが、米の場所がわからない。リビングに戻り、うどんをひっつかんで、ついでに綺香に出かける旨を伝える。案外自炊しているらしく、調味料はある程度そろっているからその点は心配ない。あるかわからない野菜だけ途中で買えばよいだろう。卵はあったはず。

 スーパーに向かいながら、風邪のとき何が必要だったか、頭をめぐらす。そもそもどれくらいの症状なのだろうか。綺香が大学に行くのは火曜日だから、もしかするとほぼ治りかけなのかもしれない。いや、どちらにせよ一人ですべてをやるのはしんどい。うどんなら別に健康体であってもおいしく食べられるものであるし、迷惑ということはないだろう。

 スマートフォンが震えて確認すると、綺香からだった。

「金曜日、けっこうふらふらしながら帰ってたって。智枝子情報」

 ということは、この土日に治す気でいるのか。ありがとう、と返事をして、智枝子にもラインを送っておく。知らなかったとは思っていなかったらしく、「言っておけばよかったね。ごめんなさい」というメッセージとともに、両手を合わせて申し訳なさそうにしている犬のスタンプがすぐに送られてきた。

 別に卒業生でもないのに、教授に気に入られているという理由でいまも月に何回か大学に通っているという智枝子は、瀬戸ともよく顔を合わせているらしい。智枝子のことがすきな教授のことが瀬戸はすきで、三角関係みたいなもの、と綺香に説明を受けた。何度考えてもよくわからない。

 念のため風邪薬も買って、持参したマスクをかけて、合鍵で瀬戸の家に入る。近所だとこういうときに楽だ。

 一応連絡したほうがよかったかな、と思いつつ、「眞一?」と玄関で声をあげてみるが、返事がない。

 廊下を進んでドアを開けると、瀬戸はベッドで寝ていた。荷物を置いて近づいても、起きる気配がない。確かに顔が赤く、寝苦しそうに汗をかいていた。額に手を当ててみると、熱い。首も少し腫れているようだ。とりあえずタオル、とタオルを水に濡らして顔の汗を拭いた。体も拭きたいところだが、せっかく寝ているところを起こすのは悪い。

 ゴミ箱付近に吸いこむタイプのゼリーの入れ物が落ちているところから、ろくに食べていないことが察せられる。とりあえず何かつくってしまうかと、台所に向かった。

 すでに勝手知ったる家になっていてよかった。まな板はどこだ、鍋はどこだと奮闘していては、無駄な時間を喰ううえにむやみに音が響いて仕方がないところだった。

 うどんに卵を落としたところで、瀬戸が身じろいだ。

「起きた?」

 ぱたぱたと近寄れば、風邪のためか少しとろんとした目でこちらを覗いてきた瀬戸が、何度かゆっくりと瞬く。状況を整理しているようで、周りを見渡すようにしたあと、観念して体から力を抜いた。

「ああ、ほんとに飛紗か」

 ふー、と深く息を吐いて、寝転がったまま髪をかき上げた。風邪を引いた、いつもと違うよわった彼にどきん! みたいな展開は少女漫画でさんざん読んできたが、これか、とマスクの下で唇がむにゅむにゅと動く。

「汗すごいで。拭いてもええ?」

「ああ、……うん」

 瀬戸は何か言いたそうにしていたが、しゃべるのが億劫らしい。存外素直に頷いて体を持ちあげ、着ていたTシャツを脱いだ。レンジで温めた濡れたタオルを持ってくる。腕も背中も、こうしているとなんだかいつもとは異なる類の照れくささがあった。しかしすぐに慣れて、拭くことに集中する。

「下は? どうする?」

 一応持ってきたけど、と示せば、瀬戸は上を着て、自分でやります、とタオルごと受け取った。

「首振ってくれればええねんけど、病院行った?」

 縦に動く。ベッドの下側を指さされたので見てみれば、水と薬が置いてあった。

「うどんつくったけど、食べられる? 残してもええから」

 これもまた縦に動いた。面倒くさそうにスウェットを脱いで放り投げたので拾い、ぐっしょりになったTシャツとともに洗面台に持っていく。洗濯機を回しても怒られることはないだろうと、置かれていた洗濯物とともにまとめて入れてしまう。

 戻ればすでに新しい服に変わっていて、下着が放られていたので拾い、洗濯機に持っていった。

 うどんはちょうど卵が半熟になっていておいしそうだった。ベッドの横に置いてあるテーブルに持っていく。れんげの場所はわからなかったので箸とスプーンだ。

 小皿に取り分けて箸とともに渡すと、ありがとう、と小さな声で言われた。食べさせるには難易度が高い。瀬戸も三四なのだし、放っておいてもよいとはわかっているのだが、心配なので仕方がない。本来はこういう姿を見せるのはいやがりそうだ。

 食べ終わった小皿にまたうどんを入れて渡す。案外するすると食べている。

「無理せんでええからね」

 味見したので大丈夫だとは思うのだが、病人相手にはもっと濃い味のほうがよかっただろうか。便利な顆粒だしなので、味の調節は簡単だ。

 しかしおいしい、と言って、瀬戸はそのままきれいに食べつくした。すぐ横になると気持ち悪くなるからと、下半身だけ毛布に入れて、壁に体を預ける。その間、飛紗は鍋や皿を洗って片づけた。

 薬を飲んで一息ついたころには、少し瀬戸の顔色がよくなっていた。

「山宮さんですか、鷹村さんですか」

 どうして知ったのか、と言いたいのだろう。両方、と答えると、小さく嘆息された。声がざらついている。

「最近忙しくて疲れているようなので、移したら悪いと思って黙っていたのに、だめですね」

「気にせんでええから、寝とって。忙しいんは眞一も一緒やろ」

「キスしたい」

 ぱっと顔を上げると、瀬戸は自嘲気味に手を横に振った。

「ごめん、よわってます。気にしないで……なに言ってんだか……」

 背をこちらに向けて寝転がったところからも、恥ずかしがっているのが伝わってくる。普段自己管理をしっかりしていそうなのでなおさら、風邪だと気弱になって仕方ないのだろう。

 もともと直截的な表現で言われるほうが多いから、揶揄するように、後頭部をなでた。

「元気にならんとできへんよ」

「そうね」

 五分だけ換気するから、と断って、窓を開ける。だいぶ寒くなってきた。とはいえ、日付を考えると冷え込みがたりない気はするので、これが地球温暖化だろうか。きっかり五分数えて閉めれば、瀬戸はすでにねむっていた。しまった、残ったほうがいいか帰ったほうがいいか聞くのを忘れていた。

 しかしあまり長居して風邪が移れば気にするだろうし、仕事的にもよくない。簡単に夕飯の準備だけして帰って、また明日様子を見に来ればよいのだ。

 決めてしまえばすぐだった。洗濯物を干すと、先ほど見つけたチンするタイプのお米でおかゆをつくり、冷蔵庫に入れておく。桃のゼリーと、スポーツ飲料を買ってきているので同じく冷蔵庫に入れていることをメモして、テーブルに置いておいた。

 一応、帰るね、と頭をなでれば、小さく頷いた。そう見えただけかもしれないが。



 翌日目を覚ますと、夜中のうちに瀬戸からお礼のラインが入っていた。そして、だいぶ熱が下がったから今日は来なくてよい、とも。本人がそう言うのだから、大丈夫だろう。次の土曜日は半休、日曜日は一日休みの旨を送り、言下にそれまでに治せ、と伝える。あとは自分が風邪を引かないように気をつけるだけだ。

 あんなによわった瀬戸は初めて見た。新鮮ではあったが、やはり当然、いつもの余裕綽々な瀬戸のほうがずっといい。はやくよくなりますように、と祈るような気持ちで、もう一度ねむりについた。



 *



 次の土曜日、仕事帰りに寄れば、瀬戸はすっかり元気になっていた。ラインで様子は聞いていたものの、実際に目にするとほっとする。テーブルに資料を広げて仕事をしていたが、飛紗を認めるとおかえり、と言った。

「先週はありがとう。情けないところを見せましたね。幻滅しました?」

 相変わらず困ったように笑う。この笑い方が苦手だったころなど、遠い昔のようだ。

「あれくらいでするわけないやん」

 荷物を置いて、床に座りこんだ。椅子に座る瀬戸の膝に頭を載せると、当然のようになでられて、心地がよい。この指先に触れると安心する。

「移らなかった? 風邪」

「大丈夫。マスクもしとったし」

 職場も何人か休んでいた。季節の変わり目で、風邪になりやすいのだろう。上司の茂木も、同期の尾野もマスクをして、鼻をすすっていた。どうも繁忙期の小休止で気が緩んだのも原因らしい。その点、飛紗は瀬戸のおかげで気をつけていたので問題なかった。

「これだけまとめますから、ちょっと待ってて」

 言われて、一旦離れる。魔窟から一冊本を取り出してもよいかと聞けば、許可をもらえたので、そろりと隣室のドアを開けた。以前何も考えずに開けたら、ものが雪崩れてきたことがあり、この異界に踏み入れるときはどきどきする。

 今回は無事だった。奥のほうに文庫が積みあげられているはず。本と紙、服で埋もれた部屋のなかを進んでいき、目的の場所に到達した。山を倒しても別に大丈夫と瀬戸は言うが、飛紗のほうが気にしてしまう。一度片づけてみたいが、そもそも物理的に場所がたりないなか押しこめられている感がつよいので、片づけようがないかもしれない。このなかから瀬戸はいつも目的のものをさっさと見つけてくるが、どういう記憶の仕方をしているのだろう。

 文庫の山の、上のほうにある一冊を手に取って、またものを倒さないように気をつけながら戻る。

 ドアを閉めると、真剣な表情の瀬戸が目に入った。いつものへらへらした笑みより、そちらのほうがずっと恰好よい。書いたり読んだりするときだけ使っている眼鏡をかけて、黙々と研究を進めている姿は様になる。いやすでにもてるほうなのだから、これ以上女の子に言い寄られても困るのか。

 ベッドに寝転がり、持ってきた本を開く。ろくに見もしなかったが、タイトルから察するに、お弁当の話のようだ。瀬戸は純文学もエンターテインメントも満遍なく読むので、たまにこうして一冊借りるとおもしろい。

 半分くらい読み進めたところで、瀬戸がベッド脇に座った。

「お待たせ。読みきりますか?」

 ちょうどきりのよいところだった。あとでいい、と伝えて、本をとじる。

「今日は一日、瀬戸といちゃいちゃしたい」

「いちゃいちゃですか」

「そう。ぎゅってして、キスして、まどろみながらしゃべりたい」

「いいよ」

 言うがはやいか、唇をとられて、身動きがとれなくなる。息苦しくなって背中をたたくと、くつくつと笑われた。これでこそ瀬戸だという気がして、じっと眺めていると、またついばむようにキスされて恥ずかしくなる。

「ちゅーしたかったんやもんな?」

 せめてもの反撃としてからかうように言うと、瀬戸は素直にうん、と首肯して、何度も唇を落とした。子どもみたいだ。だけど確かに、キスできるほうがずっといい。飛紗は瀬戸の首に腕を絡めて、自身に寄せるようにした。

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