東京

 新大阪から東京まで二時間半。新幹線は特別な気がして、少しテンションが上がる。それを瀬戸に伝えたら、そうですね、と返されはしたものの、よくわからないという顔をしていた。荷物を足元に置いて、リクライニングを倒す。

 濃紺のワンピースに、白いジャケット、足元は肌色ストッキングとエナメルの黒い靴。指輪はチェーンではなく左手薬指につけている。派手になりすぎないように、また反対に重い印象にならないように気をつけたつもりだが、いざとなると心配になってきた。瀬戸に聞けば大丈夫と言われはしたものの、この男は飛紗に関してはなんでもかんでもかわいいと言ってくるのを飛紗自身よく知っているから、不安は拭いきれない。弟の綺香に聞いてくればよかった。母は大丈夫だと言ってくれていたけれど。

 瀬戸の父とそのパートナーに挨拶をするための東京行きだが、先に飛紗の妹である桂凪に会うことになっている。だから飛紗にとっては、夜が本番だ。妹に何か言われたら、最悪服を買って着替えればいい。

「そんなにいろいろ気にしなくとも、楽観的な二人ですよ」

 隣に座る瀬戸が言う。肘かけを使って頬杖をついていて、気のせいかあまり気分がよさそうではない。いつもの愛想も消えている。

「……眞一って、酔うほう?」

 列車はすでに走り出していて、トンネルを挟みつつ次々と窓の外に新しい景色を映し出している。瀬戸は真顔のまま、わりと、と答えた。酔い止めなどは飲んでいなかったように思うが、そこまでではないのか、薬がきらいなのか、どちらにせよ基本的に酔わない飛紗は水を差しだすことしかできない。

「大丈夫。考え事する以外に何もできないのが苦痛なだけなので」

 薄く微笑まれて、手に持ったペットボトルを仕方なく台の上に戻す。

「それやったら寝る? しゃべっとったらうるさいやろ」

「うるさくないよ。人前で寝るのもいやですし」

 それで、「考え事する以外に何もできない」のか。新幹線でねむるくらい、飛紗はなんとも思わないのだが、みっともないと感じるのもわからないではない。イートインスペースでテーブルに突っ伏していたり、普段の電車で酔っぱらいがだらしなく寝ているのを見ると、ああはならないようにしよう、と思ってしまう。

「わたし、何度も寝とるとこ見とるけど」

 返答はわかっているが、戯れに聞く。瀬戸は呆れたりせず、双眸を柔らかく細めて答えてくれる。

「飛紗ちゃんは別」

「特別?」

「そう、特別」

 満足して、頬を緩める。特別、というのは思いを確認しあったときに使った言葉で、もちろん瀬戸も憶えているはずであるから、一層声がやさしく聞こえた。

 やはりいつもより、気持ちが高ぶっているようだ。新幹線、隣に瀬戸、そして二人での遠出。旅行とは感覚が違うが、初めてには変わりがないから、浮足立つのは許されたい。

 ゆるゆると他愛なく話していれば、二時間半はすぐだった。終点なので、乗客全員が降りていく。少し肌寒くはあったが、窓から覗く空は青く、きれいに晴れている。

 瀬戸に続いて新幹線の改札を出て、桂凪に到着の連絡をする。昼は蕎麦が食べたいという桂凪の我儘により、待ち合わせは六本木駅だ。行ってみたい店があるとかで、六本木ならそのあとお茶する場所くらいあるし、東京駅より絶対空いてると言いくるめられてしまった。着いてみれば確かに人がごった返していて、お昼時のいま、店に入るだけで一苦労だろう。

 広すぎて、案内板があるのにも関わらず、よくわからない。地図を眺めていると、行きましょう、といつの間にか平素の調子の戻った瀬戸に手をとられた。頭のなかで東西南北を認識できたらしく、迷う様子もなく歩いていく。スマートフォンで地図アプリを開いても迷う飛紗からすれば信じられないことだが、瀬戸は一度地図を把握できればもう迷わないらしい。信頼して素直についていくことにした。

「ヒールで誰かの足踏んでしまいそう」

 エスカレータに乗り、思わず右側に寄ろうとしたが、東京は左なのだった。さり気なく瀬戸に手で誘導されて気づく。老若男女問わず、皆急ぎ足で飛紗の右側を通りすぎていった。

「一日その高さでしんどくない?」

「ヒールないほうが落ちつかんもん。低めのやつやし大丈夫」

 瀬戸と身長がそう変わらないので、五センチ以上のものを履いて瀬戸より背が高くなってしまうと、なんとなく先方の親からの印象が悪くなるかなと選んだ靴だ。本人はほとんど気にしていないようだし、普段はあまり考えていないのだが。むしろヒールなど関係なく、形やデザインがきれいな靴を履くと、すぐに褒めてくれる。瀬戸は爪だの靴だの服だの鞄だの、とても目ざとい。言われている側の飛紗がマメだなとしみじみ感じる程度には。

 地下鉄に乗りこみ、一つ乗り換えて六本木駅に行く。以前旅行で東京に来たときには路線図が見づらくて、金額がよくわからなかったものだが、いまはICカードが勝手に計算して支払ってくれる。非常に便利だ。

 改札を出て、指定された場所に着いたが、まだ来ていない。スマートフォンを覗くと、十分遅れる旨が、謝罪のスタンプとともに送られてきていた。

「ごめん、行きたいって言うたくせにルーズな妹で」

「いいですよ。荷物、待ってる間だけでも持ちましょうか」

「ううん、大丈夫。ありがとう」

 待ち合わせスポットなのか、同じように立っている人がちらほらといた。当然ながら聞こえてくる言葉が関西弁ではなく、別の土地に来たのだと実感する。大学は東京であったはずなのに、懐かしさは薄い。もっとも卒業してから五年、東京に来たのは友人に会うための一回きりであるし、学生時代は六本木に来たことがないせいかもしれない。

 前方の階段からばたばたと走ってくる姿が見えて、飛紗が何かを言うよりはやく、目の前でぱん、と両手を合わされた。

「ごめんお姉ちゃん、遅れました! 許してください」

 そしてぺこりと頭を下げる。大学に入ってから茶色に染めた髪を肩まで伸ばし、緩く巻いて、芥子色のニット帽をかぶっていた。帽子につけられている缶バッチが、こすれあってかちゃんと小さな音を立てる。勢いでどうにかしようとするところはまったく変わらない。昔から世渡りだけはうまい子だった。そしてなんだかんだ、飛紗も許してしまう。

 顔を上げて瀬戸の姿を認めるなり、えっ、と声をあげた桂凪をたしなめる。瀬戸はいつものとおりにこにこと(飛紗からすればへらへらと)愛想を貼りつけて、こんにちは、と言った。口元を手で押さえて、ぐいと飛紗を引っ張る。

「え、お姉ちゃん、このひと? なに、めっちゃかっこええやん」

 言われて、そういえば顔立ちだけはよいのだった、と思い出す。そして桂凪は面食いなのだった。

「失礼やろ。紹介するから」

 腕をたたけば、素直に離す。瀬戸はこういう反応に、腹は立つが慣れているのだろう。腹は立つが。

「眞一、妹の桂凪。騒がしいけど、ええ子やから」

「桂が凪ぐと書いてけいなです。A大学の二年、二〇歳です」

「瀬戸眞一です」

 お互い、にこやかに挨拶をする。妹が小さいころから持っているこの愛嬌のよさは美徳だ。顔は飛紗と似ているのだが、服やものの好みなどはほとんどかぶらない。どうすればもてるかを雑誌等で研究し、実際よくもてていた。恋多きというか、それを開けっ広げに夕飯を食べながら話したりするので、父の和紀が「飛紗よりも先に、桂凪が結婚するん違うかくらいに思っとった」と言っていたくらいだ。

 桂凪は地元にいたときと同じように、ぺたんとした靴を履いている。一六六センチなので、ヒールを履いてうっかり男性より背が高くなるのはいやなのだそうだ。

 さっそく行こうかと、桂凪が先導して歩き出す。

「当たり前やけどこっちみんな関西弁違うから、お姉ちゃんおるとうれしいわ。なんや地元におるときより訛り濃くならん?」

「それはわかる。変な対抗心わいとるんやろか」

 桂凪が夏に帰ってこなかったので、会うのは飛紗も久々だ。たまにラインはしているが、桂凪は弟の綺香に特に懐いているので、連絡といえば綺香のほうに入る。

「お姉ちゃんとどこで知り合うたんですか?」

 本人が言うように、普段地元では使わないような濃い関西弁で、桂凪が聞いた。もはや人を変えて何度目かの質問なので、説明もするすると出てくる。飛紗の大学で講師をしていて、半期だけ選択の講義で教えたこと、四年後再会して、その一年後から付き合い始めたこと。

「お姉ちゃんの大学で講師ってことは、頭ええんや。どこの大学出身なんですか?」

「T大学です」

 えっ、という声が、飛紗と桂凪、きれいに重なった。ちょうど高架下を歩いていたので、うわん、と響く。

「いやなんでお姉ちゃんが驚くの」

「知らんかったし」

「ええー、そこは聞いとこうや! こんなに若くて大学の先生やで?」

 確かに若く見えるし実際若くはあるが、年齢的には桂凪の一回り以上だ。その物言いはよくない。瀬戸は笑うばかりで、気にしていないようではあるが。

 しかしそうか、T大学か。それは当然、頭がいいはずだと感嘆してしまう。おそらく脳のつくりが違うのだ。

「月並みやけど、お姉ちゃんのどこがよかったんです?」

 余計なことは聞かんでええ、と背中にかけられているリュックごと軽くたたくが、桂凪がひるんだ様子はない。べらべらと話し出す。

「お姉ちゃん、美人やけど自覚がなくて、あたしが知らんだけかもしれんけど色恋に疎くて、責任感がある代わりに甘えるん下手で、ほしいもんをなかなかほしいって言えへんところがあるんですけど、服はセンスええし化粧はうまいし頭はええし、めっちゃええ女なんです」

 ふは、と瀬戸が笑った。飛紗は恥ずかしくなる。それでは相手に薦めるときの文言ではないか。そもそもそんな風に思っていたのかと桂凪を睨むようにするが、どこ吹く風だ。綺香の言うことは素直に聞くくせに。

「そういうところです」

 端的に返事をされて、桂凪が面食らったように言葉を詰まらせた。

「もっと具体的に話すと怒られそうなので、あとは秘密」

 きゃあ、と頬に手を当てて飛びあがる桂凪に、「若者然とした妹さんですね」と瀬戸が言う。そのとおりだ。仲はよいほうだと思うが、七つ離れているので飛紗としても世代が異なっていて、話が合わないことが多い。

 しかし食の趣味は渋い。好物は蕎麦、焼き魚、土瓶蒸し、鯖寿司など、日本食のオンパレードで、下手なものを食べるとまずいので少し高くてもおいしいものを食べたい、と主張する。美食家というほどではないが、安いだけのチェーン店に行くくらいならいっそ食べない。とはいえはなからお金がなくてカップ麺しか食べられないのであれば甘んじて受け入れる、その程度である。他の娯楽や生活費を崩すほどのこだわりはない。

 ここ、と桂凪が案内してくれた店は混雑していて、店内で少し待つことになった。開業してから二〇〇年以上の歴史があるらしい。さすがの京都も二〇〇年なら、老舗と呼んでも怒らないだろう。店員が皆、笑顔で感じがよい。

「あ、そうや、何て呼んだらええんですかね? やっぱりセオリーどおり、お義兄さんやろか。ていうか、ふたりは何て呼びあっとんの?」

 好奇心が尽きないらしい。しかし、あれこれと次々話題を出してくれてありがたくもある。

「眞一兄ちゃんって言うたら、コナンくんぽくない?」

 こら、と口では言ってみるものの、以前自分も同じように漫画になぞらえて名前をからかったことがあるので、つよくは出られない。瀬戸がおすきに、と答えたので、桂凪がやった、と飛びあがる。そのタイミングで店員に呼ばれ、座敷のテーブルに案内された。

 店名に冠されているとおり、真白な「さらしな」が有名なんだよ、と桂凪が教えてくれたので、そちらを食べることにする。瀬戸も同じようにして、桂凪は一人「もりとさらしな両方食べる」と言って注文した。

「あんた、そんなに食べられるん?」

「お姉ちゃん、大学んとき東京のお店で蕎麦食べんかったん? こっちの盛り蕎麦って正直量が少なくて、おかわり前提やねん。だから大丈夫」

 ちらりと瀬戸を見ると、首肯される。そういうものなのか。

「一杯ひっかける場所ですからね。せっかくだからあとで何かつまみだけでも頼みますか?」

「えっ、食べる食べる。そばがき食べたい」

「桂凪」

 早々に言葉が崩れている妹を注意するが、隣の瀬戸にいいですよ、と制される。愉快そうに笑っているので、それ以上は言わないことにした。機嫌がいい。おもしろがっているのかもしれない。

 蕎麦はすぐに運ばれてきた。メニューにも書かれていたが、もりとさらしなでつゆの色が違う。さらしなを頼んだ飛紗のつゆは甘口で関西でのつゆに近い気がしたが、桂凪に舐めさせてもらったもり蕎麦のつゆは辛口で、醤油に近い。テレビでよく「蕎麦の先にだけつける」という食べ方が出てくるが、この濃さなら納得だ。

「おいしい」

 同意を求めるというより、ひとりごとのように桂凪が言った。思わず口をついたのだろう。二枚くらいぜんぜんいける、余裕、と小さく呟きながらすすり続ける。

 確かに量は多くなく、お腹いっぱいにはならなかった。それでも満足感はあり、腹八分目に落ちつく。そば湯を飲みながら、桂凪リクエストのそばがきと卵焼きを追加注文した。

「お姉ちゃんが結婚相手連れてくるっていうからどんなお固いひとかと思っとったけど、めっちゃ爽やかでびっくりした。イケメンやし」

 爽やか。口のなかだけで噛みしめて、思わず笑いそうになる。飛紗が知っているなかではたちの悪さで一、二を争うが、桂凪からするとそういう風に見えているのか。この笑顔もうさんくさいとは思わないらしい。

 そばがきと卵焼きが運ばれてくる。何やら太った餃子のような形をしたそばがきが、だしのなかにぷかぷかと浮いていた。桂凪は一つ食べて、しばらく咀嚼したあと、「うーん、あたしが食べるわ」と言った。一口もらえばそれがやさしさだとわかったので、甘えることにする。昔は苦手なものが出るとすぐに押しつけてきていたのに、成長したのだなと感じた。

「お姉ちゃんは眞一兄ちゃんの何がよかったん?」

 もう馴染み深く呼んでいる。才能としか思えない。

「なんで桂凪に言わないとならんのよ」

「えー、でも夜は眞一兄ちゃんの親御さんと会うんやろ? 絶対聞かれるで?」

「そんときは答えるからええの」

 しかし、確かにそうだ。ひたすら言葉遣いや仕種で粗相のないように考えていたけれど、その質問をされる可能性は大いにある。自分の子どものどこがよかったのか、聞きたがるのは親として当然だ。当人同士ですら、確認することがあるのに。まさに瀬戸は飛紗の家に来たとき、母親に聞かれていた。

「何度も私がいるところで言うのがいやなんですよ、飛紗ちゃんは」

「ああ、なるほど。よくわかっとる」

 二人で勝手なことを言う。しかしそのとおりなので、何も言い返すことができない。おとなしく残った蕎麦湯をすする。

「お姉ちゃんのこと、面倒くさくなったりしません? 姉としては頼りになるんやけど、女としてはかたすぎるところがあるいうか、もう少し女を武器にしてもよさそうなもんやのに。女子校育ちやからかなあ」

 それは同僚にも言われたことだ。そのうえ、瀬戸には普段からもっと自覚を持ってくれと言い含められている。実際上司の茂木に好意を持たれていたことに、周りは気づいていたのに自分だけわかっていなかった鈍感さを体験しているので、こちらも返す言葉がない。身内に指摘されるのは癪ではあるが。

「面倒くさくありませんよ。むしろ飛紗ちゃんこそ、よく私を選んでくれたと思います」

 瀬戸がどんな顔をしているか、覗かなくてもなんとなく感じとれて、ごまかすように玉子焼きを口に入れた。向かいの桂凪がにやにやとしてこちらを見ている。無視をして咀嚼を続けていると、桂凪が突然ぱっと真顔になって、居住まいを正して斜め向かいの瀬戸に向き合った。

「素直やないお姉ちゃんやけど、よろしくお願いします」

 そしてちょっとお手洗い、と言って席を外してしまった。照れているのだろう。相変わらずに奔放さにはあ、と溜息をつくと、瀬戸がこちらに目を向けて、ゆっくりと瞬いた。

「いい妹じゃないですか」

 確かに、どこかでまだ小さな子どものように思っていたのに。失礼なことをしていたな、と飛紗は蕎麦湯を眺めて、そうね、と頷いた。瀬戸に言われると、なんだか気恥ずかしかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る