第27話 長い話

 呼び鈴のあとに、わたしは玄関の扉を開ける。

 そこに立つ翔さんは、鈍感なわたしにでも分かるくらいに、元気がない様子だった。部屋の中に翔さんを招き入れて、それから二人の長い話が始まった。

「りんさん、突然押しかけてごめんね」

「いえ、気にしないでください」

「ありがとう。これから話すことは、ぼくの過去についてです。明るい話ではないから、途中で気分が悪くなったり、聞きたくないと思ったら、正直に言ってください」

「はい、翔さんも何かあったら言ってくださいね」

「これは、ぼくがまだ二十歳くらいだった頃の話です。当時のぼくの生活は荒れていました。たまに会う程度の知り合いは数人居ましたが、それでも、今では考えられないくらいすさんでいたのです。そのうち、ぼくはある夢を見るようになります。その夢は、今の生活を続けるぼくが、その生活の中でターゲットを見つけて、そのターゲット、つまり女の人と心中しようとするのです。そのうち、現実の世界で、その女性とよく似た女性を街中で見かけました。ぼくは、びっくりして、本当にびっくりして、夢と現実が一瞬だけれど、分からなくなったくらいなのです。そのとき、ぼくはあの夢の通りにしよう。だけど、命をとってしまうのは申し訳ないから、自殺する自分を看取ってもらおうと思ったのです。今思えば、ただの悪夢なのに、そう考えるのはおかしいですよね。その為に、相手は想像できないくらい不快な思いをするのです。それすら、考えられないくらい当時のぼくはおかしかった」

 そこで、翔さんの言葉が途切れた。翔さんが、わたしの方を見る。

「ねぇ、この続きを、りんさんは聞いてくれますか?」

「はい、最後まで聞かせてください」

 わたしは、頷きながらそう言った。

「出会った季節は秋の終わりごろで、もう冬と言っていもいいくらいの気候でした。カウンター席があるレンガ造りのカフェで、ぼくはコーヒーを飲んでいました。そこへ、偶然その女性がやってきたのです。女性はココアを注文していて、席を二つほど空けて同じカウンター席へ座りました。ココアを手にする彼女を見ているうちに、ますます、彼女に看取ってほしいと思うようになりました。確実に死ぬためには、どうしたらいいのか真剣に考えていました。そして、何度か彼女の姿をカフェの近くや、店内で見かけていくうちにぼくの決心は固くなりました。その頃に、ナイフを買いました。果物ナイフと言えばいいのか、刃渡りが短いナイフです。そのナイフを実際に肌に当ててみたりして、自殺のシミュレーションなんかをしていました。そうしてぼくは、ナイフを持ち歩くようになります。もちろん、自殺するためです。そして、看取ってもらうためです。決して他の人間を傷つけようとは思っていませんでした。ふとしたことがきっかけで、気づけば彼女と会ったら挨拶程度に会話をする関係になっていました。でも、そのときはただそれだけです。それから時間が流れて、春が見えてきた頃に、ぼくは計画を実行することにしました。念入りにシミュレーションをして、何があっても自分以外の人間は傷つけないように、とても時間をかけて準備を終わらせたのです。あとは、実行するだけです。そんなある日の午前に、世間を騒がせた事件が起こります。その事件が渋谷の事件です。横断歩道を渡る人々を無差別に襲い死者も出てしまった。その段階になって、ぼくはようやく気づきました。看取ってもらえて、幸せなのはぼくだけなのだと、ようやく気づいたのです。それに、目に見える傷はできなくても、心と言う場所に傷ができてしまったら、それは彼女をあのナイフで刺したのと同じなのだという当たり前の事実に、計画を実行に移すその日に気づいたのです。それから、ぼくが向かう場所は決まっていました。近くにある警察暑です」

 うつむいたまま話す翔さんは、かなり辛そうに見えた。聞いているわたしは、不思議と怖いと思わなかった。ただ、このまま話を続けたら、翔さんが倒れてしまいそうな気がした。

「暗い話で、ごめんね。まだ、続きがあるんだ。無理はしないで、言ってね」

 それから、翔さんの話はまだ続いた。

「ぼくは、警察に自首という言い方もおかしいけど、とにかく、警察に行こうとしていたんです。そこで、終わるはずだった。だけど、今でも分からないけど、彼女の姿がぼくの視界の隅に入って、それから、彼女がぼくの方に歩いてくるのをただ待っていたんです。このときには警察署に行こうとしていたくらいだから、自殺をするつもりもなくなっていました。そうしているうちに、彼女がぼくの手を引いて、着いた場所はいつものカフェでした。中に入ると、店内の目立たない席に二人で座りました。注文もせず、ただ、二人でいたんです。気づいたらぼくは『ごめんね』と彼女に謝っていました。そして彼女に、ぼくは全てを話してしまったんです。これからどうするかというところで、彼女は、ぼくの手を握ってくれました。そして、見たこともないくらいに、綺麗な涙をたくさん溢れさせて、ぼくに『なんとなく気づいてたよ』と、そう言いました。彼女の涙がぼくの手の甲に触れて、それは熱いくらいの温度でぼくは生まれてからはじめて、愛情というものに触れました。何がどうなっているのかは、ぼくにも分かりません。だけど、彼女と出会ってからぼくの荒れた生活は、今の生活になりました。現実の世界に、戻ってきたかのように、健康的な生活です。そんな日々が続いて、二人ともやがて年老いて、それでも一緒に居るんだと思っていました。でも、りんさんならこの話の続きが分かると思うんです。だって、あの場所で出会ったから、分かっちゃいますよね。彼女は亡くなりました。交通事故に巻き込まれてしまって、それで亡くなったんです」

 わたしは、翔さんを抱きしめていた。翔さんの体は、少し震えている気がした。

「りんさんは、優しいですね。こんなぼくを抱きしめてくれるなんて、本当に優しい。あたたかい人だ」

「翔さんだって、そうだよ。辛い過去の話を聞かせてくれるんだから、わたしには、十分あたたかい人に思えるよ」

 翔さんは泣いていないのに、なんでわたしが泣いているんだろう。わたしは、まだ何も翔さんに話していないのに、なんでわたしが先に泣いちゃうんだろう。

 次に話すのは、わたしの番だ。

「わたしも、翔さんに聞いてほしい話があります。聞いてもらえますか?」

「うん、りんさんのお話を聞かせてください」

「わたしが育ったのは都会から少しだけ離れた田舎です。でも、何もないわけではない中途半端な田舎です。そんな町で過ごしました。高校生活が終わりを告げる頃に、今の会社に内定が決まって、わたしは都会に出て一人で暮らすことになります。そんな生活の中で、大好きだったあの人と出会います。彼とわたしは同い年です。そして、彼は前に住んでいた不動産の管理人の息子でもあります。自分でも気づかないうちに、わたしと彼は恋に落ちていたんですよね。それが十九歳の頃でした。それからの二年間は楽しかったです。一緒に買い物に出かけたり、ちょっと遠いけど鎌倉まで行ってみたりして、思い出ならたくさんあるんです。わたしも、翔さんと同じで、当たり前のように歳をとっていって、それでも一緒に居るんだと思っていたんです。だけど、突然それは消えてしまった。彼の場合は急に心臓が動かなくなって、そのまま亡くなりました。そのときわたしは一緒には居なかったけど、そう彼の父親から聞きました。最初に聞いたときは信じられなくて、でも、どうしてか涙が勝手に流れてきたんです。それからは、あっという間でした。毎日ただ呼吸を続けていて、葬儀が終わっても彼の死を受け入れられなくて、結局、お盆の時期になって、ようやく受け入れました。翔さんに出会う前は、ただ時間を過ごしているだけで、ぼーっとしていると彼のことを考えているんです。彼がいなくなってから、もうすぐ四年が経ちます。会社にいるときの一日は短いのに、休みの日だけやたらと長くて、どうしてこんなにも時間の進み方が違うんだろうって、いつも思っていました。これで、わたしのお話は終わりです」

 優しい沈黙を頼りに、ただ流れていく時間を見送っていた。

 わたしたちはお互いに大切な人を亡くして、多分だけれど、もう一生ひとりでいてもいいとそう思ったのだ。それなのに、わたしにとっては彼が、翔さんにとっては彼女が、二人を出会わせてくれた。

「りんさん、聞かせてくれてありがとう」

「うん、わたしの話をきいてくれてありがとう」

「今度、りんさんの大切な人に会わせてください。それから、できたら花束を供えさせてください」

「ありがとう。ぜひ、そうしてください。わたしも、翔さんの大切な人に会わせてください」

「いいですよ。近いうちに行きましょう」

 そうして、わたしたちは約束の日を決めた。

 玄関まで見送るわたしに翔さんは、そっと、優しいキスをしてくれた。

「ありがとう、またね」

 翔さんは軽く手を振る。

「うん、また会いましょう」

 わたしも手を振り返す。

 きっと、未来は暗いものではない。だって、翔さんがいるから、きっと明るいものになる。わたしは心からそう思った。

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