第一話 夜中に迷い猫を拾っても、感謝されるとは限らない。 四

 宮島はハンドバッグを取り上げると、即座に家を出た。

 飛び切りの嫌な予感がした。

 客観的に考えて、今の北条が普通の状態ではないのは明らかだったが、宮島の勘はさらに強いアラームを鳴らし続けている。

 妻と娘を目の前で起きた事故で失って以降、暫くの間、北条は外界に対して全く反応を示さなかった。あまりの出来事に完全に心と身体が分離してしまったかのように見えた。

 宮島は、事故直後から週に三回は北条にコンタクトし続けており、その間の彼の変化を見ていたが、「北条は未だに事件を真正面から見ることが出来ていない」と考えている。

 家に誰もいないことは認識しているが、それ以上のことを理解することを彼の中の安全装置が全力で拒んでいるらしい。退院して現実の生活に戻っても、現実感が失われているように見える。

 今もそれは続いており、会社には通勤しているものの対人関係に支障をきたしている。先ほどの電話のように北条と会話をすることが既に困難であり、宮島以外の人間と話をしようとすると言葉すら出てこないこともある。

 だから、今は書面で指示を受けて書類整理のような仕事をするぐらいのことしか出来ていない。まだ会社側が配慮を続けていたものの、それがいつまで継続するのか予断を許さない状況であると、宮島は思っている。

 彼の口ぶりからすると、さすがに痺れを切らし始めた上司から、時折厳しいことを言われているようだ。


 その彼が猫を拾ったという。


 そこまではよかった。

 北条が再び他者と関係を持ちたいと考え始めた兆しだとすれば、実に喜ばしいことである。宮島は少々寂しい気がしたが、それは横に置いておいて、以前の穏やかで明るい北条が復活するのは大歓迎である。

 ところが、彼はそれに続けて「猫が着替えをした」と言った。

 これがどうにもおかしい。着替えるということは、最初に何か服を着ていたということになる。誰かに大切に飼われていた猫であれば、その可能性もあるかもしれない。

 しかし、彼はさらに「娘の服が似合っている」と言った。

 これで宮島の不安は最高潮に達する。

 ――北条君は今、普通じゃない!

 以前の北条の性格からすれば、見知らぬ幼女を自宅に連れ込んでどうこうするというのは絶対にあり得なかった。しかし、娘を失った彼がどうかは宮島にも分からない。


 道すがらタクシーを捜すがなかなか見つからない。

 駅に向かう足も遅々として進まなかった。

 時間経過がもどかしい。

 この瞬間に北条の部屋まで飛んでいけたらよいのにと思う。

 何故かは分からないが、学園祭に遊びに来た友人の由香里を北条に紹介した時の胸の痛みを思い出す。

 あれはひどいミスだった。

 もう二度とあんな間違いは犯したくない。

 何故かは分からないが、由香里が事故で亡くなったことを聞いた時の、悲しみとともに沸き起こった薄暗い情念のうずきを思い出す。

 強く頭を振ってそれを打ち消した。

 今それを考えるのは、人としてどうかと思う。

 路地の向こう側に駅が見えてきた。

 ここで加速しても実質的な意味はなにもないのだが、宮島は足をさらに忙しく前へと送り出した。

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