時ちゃんと運命の一日――後半戦――

第6話時ちゃんと運命の一日――後半戦――1

時ちゃんと運命の一日――後半戦――1


 背中が寒い。でもお腹は暖かい。体が揺れて、足は地についてない。

「こーちゃん、駅までもう少しだよ、まだ寝てるの?」

 聞き慣れた明るい声、能天気で何を考えているのか分からない時ちゃんだ。お日様のような香りがどこか……それもものすごい目と鼻の近くから感じる。

「お母さんなの?」

「……? こーちゃん寝ぼけて勘違いしてるの? えへへ、私だよ」

 くすくすっと笑う時ちゃんの声。笑われてる? 目を覚ますと、時ちゃんの天使の輪が現れた髪が目の前にある。

 気が付くと、ここは駅前で、私は時ちゃんにおんぶされていた。

 時ちゃんは気を失った私をおんぶしてここまで連れてきたんだろう。私と一緒に街に行くことになっていたから。

 そして、気を失う前のことを思い出す。

 お外へ出たら、知らない男の人と怪しい女の人に私と時ちゃんは追いかけられていたんだ。

「あれはなんだったの?」

 そう聞いたけど、時ちゃんはデトデトと変な歌をまた口ずさんでいた。答えてくれないみたい。

 それから私をおんぶした時ちゃんは、目的の駅が次の駅なのに路線図をじっと見てて、らちが明かないから買う切符の金額を教えて、ちゃんと二枚分の切符を買わせる。お父さんが暇だったら、よく二人きりで街に遊びに行くからこれくらいは知ってるんだ。常識だよね。

 時ちゃんが二枚分の切符を、同時に改札に吸い込ませると驚いて笑っている。

「おや? お嬢ちゃん、具合でも悪いのかい?」

「そんな風に見えますー? ただのごっこ遊びなんだよーえへへー」

 親切な駅員さんが話しかけてきた。たぶん私がおんぶされてるからだと思う。でも……と気にかけてくる駅員さんに、時ちゃんは首を振って大丈夫大丈夫とその場を後にした。本音を言えば、少し横になって休みたい気もした。

 電車がホームにやってきて、たくさんの人が出たり入ったりする。時ちゃんはやってきた電車に本当に乗っていいのか迷っているみたいだ。ここでも私がこれだよ、と教えてあげると喜んでその電車に入っていった。電車の中は人でいっぱいだったけど、周りの人が道開けてくれて、さらには老人ばかりで埋まっていた座席まで譲ってくれた。時ちゃんはそこに座ると、私を膝枕で寝かせてくれた。

「二人だけかい? お父さんとお母さんはどうしたんだい?」

「親はどっちも死んじゃいました……でも今はこーちゃんがいるから全然つらくなんてないんです、えへへ……」

 座席を譲ってくれたおじいさんが話しかけてくる。たぶん私が膝枕されてるからだと思う。時ちゃんの過去話に周りの老人は涙を流し始めた。なんだか私のお母さんとお父さんも死んじゃってるみたいにお話が進んでる気がする。

 電車が止まると私は起き上がる。十分くらいしか横になってないけど歩けるくらいは平気になった。電車から降りると老人とお話しに花を咲かせていた時ちゃんも、急いでついてくる。この駅は、特に人がいっぱいいて人ごみの中をかき分けて歩くのは困難だと感じる。

 だから仕方なく、時ちゃんに体をくっつけて右腕にしがみつき、後ろに隠れるようにして進んでいった。時ちゃんは人の動きを読んで人ごみの中をジグザグに進んでいく。途中にあるコンビニや雑貨店の中にも寄り道して入っていく。もしかしたらゲーム感覚で楽しんでるのかもしれない。

 そうしてやっと改札へたどり着き通過した。お外に出ると顔が寒くて、額に汗を掻いてることに気づいた。

 ここまで来るのにずいぶんと長かった。お外を出た時の出来事を時ちゃんに聞きたい。

 だけど、先に時ちゃんが私に質問をたくさんしてくる。

「まずはどこいくの? デートの定番といえば映画館とか水族館? 最近は植物園とかも人気だよね。あと私は動物園は苦手だからね、ちゃんと覚えていててよ、それからね――」

 時ちゃんは街でなにをするか、実にたくさんの予想をしている。またゲームをするとか、図書館にいくとか、レストランでごちそうを食べるとかいろいろ妄想が尽きない。

 でも私はそんなことするために街に来たんじゃないんだ。

 お父さんの職場に行くんだ。

 お母さんはお父さんの職場に行くって言っていた。それなら私もそこに行って、お父さんにごめんなさいを、お母さんに大好きだよっていう大切な思いを、ちゃんと伝えにいくんだ。私がいつまでもお父さんとお母さんの家族で居続けるために、大事なことを伝えにいくんだ。

「くすくす、こーちゃん真面目な顔してるーやっぱりドキドキしてるの? かわいーいぃ」

 そこにこのバカを連れて行けばどうなると思う? 私のお父さんならきっと、もう二度と我が家に遊びに来ないでくれって追い出す。そうだよ、お父さんがこのバカにそう教えてあげればいいんだ。

 時ちゃんなんて、ただの友達で、あくまで他人なんだから。

 人の往来が減ってきたところで、私は時ちゃんの前へ出た。時ちゃんの質問の一切を無視して、ただひたすらにどこかへ歩きだす時ちゃんの道しるべになってあげる。

「ねぇ時ちゃん、あの知らない男の人と女の人って誰なの? どうしてあんなことしてきたの?」

「…………知ってどうするの?」

 時ちゃんは明るさを消した、無機質な声音で聞いてくる。

 それに、私が知ってもそれをどうするかなんて私は考えないと思う。せいぜい、警察やお父さんに相談して対処してもらうのが関の山だ。

「どうもしないよ。知ってるなら教えてほしいだけだし、それにあの人たち本気だった……泥棒とか人さらいとか……すごく悪い人なんじゃないの?」

 そうなんでしょ時ちゃん? この時の私は先生に答えを聞くような気持ちで質問していていた。決して軽い気持ちじゃない。

「そんな悪い人たちじゃないけど……」予想外にそう否定して、「そうさせたのはくーちゃんのお父さまなんだって」

「……え?」

 そうさせた? のはお父さん? 時ちゃんが何を言っているのかよく分からない。それにくーちゃん……それって私のことだ。幼稚園の頃の私のあだ名。

「くーちゃんのお父さまっていろんなデザインを手掛けたりする広告代理店の会社なんでしょ? 最近はかわいいアニメとかドラマのお仕事もしてるよね、すごい忙しいのにクオリティもすごくて周りから頑張ってるって言われてて……」

「まってまって、なんで私のお父さんのことをそんなによく知ってるの? それに……」 私のお父さんがあの人たちとなんの関係があるっていうの? そう言葉に出したいけど、口にできない。お父さんはあの人たちになにをしたの? とそう聞いてるのと同じだから。

「……この先ってくーちゃんのお父さまの職場だよね? でっかい看板が目立つからすぐわかるよ。もしかして今からそこに行くの? デートの内容は会社見学だったりするの? くーちゃんはホントにお父さまっこだよね。今日とかお父さまのお部屋にいたし、私とご飯たべるよりお父さまとご飯食べたほうが嬉しいんでしょ? それにお父さまに会いにいくからそのお気に入りの服、着ているんでしょ?」

 私が言葉に詰まっているから、時ちゃんが勝手にいっぱい喋りだす。人口知能みたいにそこが尽きない。

 でも変だ。いま面と向かって話しているのが時ちゃんじゃないみたい。だって、電車にも一人で迷って乗れないくせに、私よりたくさんのことを……知らないことを知っているみたいだ。

 まさか、私とお父さんのことを監視してたり? 時ちゃんは親がいないから、私がうらやましくてストーカーみたいな行為をしてたりするのかな? 

 立ち止まって時ちゃんの顔と向き合う。そうすると、時ちゃんは黙ってくれた。私が何か言うのを待ってるみたいだ。

「と、時ちゃん。時ちゃんは……なんでそんなことを知ってるの? 誰かから聞いたことを言ってるんだよね? 私のお父さんが……その……好きなの?」

 そういう風に私には聞こえた。時ちゃんが私のお父さんの子供になりたい風に。

「そうなのかな……もしそうだったら、くーちゃんはうれしい?」

 時ちゃんは無表情でただ私を見つめてくる。そうだったら(私のお父さんが好きだったら)うれしい? と聞かれている、それに頷いたらどうなるのだろう?

 その先を想像するのは今の私には考えがつかない。こんなことを聞いた私がバカに思えてきた。

「……うれしくないよ、それで何でうちのお父さんのこと、いっぱい知ってるの? そっちを答えて」

「くーちゃんが知ってもなにも変えられないと思うけど教えてあげようかな」まるで上から物をいっているみたいだった。「これはお母さまとかおじさまとか……あの人たちから頑張って聞いたことだから、本当のことなんだよ」

 お母さんから聞いた? それにおじさまっていうのは時ちゃんの親代わりの人のことだ。そしてあの人たちと時ちゃんは話したことがあるの?

「でも、あの人たちと時ちゃんは初対面だった……よね?」

 なにかが引っ掛かる。それは夢の中で見た、いや聞いたお話。たしか時ちゃんが死んじゃったっていう信じられないお話。

「……まさか……あの人たちが時ちゃんを……ころすの?」

 そうだ。私は日曜日の朝に起きて、時ちゃんがやってきてケンカした後に、時ちゃんが死んでしまうという夢を見ているんだ。それも二回。全部日記帳に書いてるから夢の内容はまだ容易に思い出せる。

 日記、日記……あれ? お腹に手を当てて探してみるけど日記帳の形がない。服をめくってお腹を露わにして叩(はた)いてみるけど、何もない。

「こーちゃんが探してるのってこれでしょう? くすくす」

 時ちゃんも私の真似をして服をめくりお腹を露わにすると、そこに私の探していた日記帳があった。声が明るくなっていて、私のあだ名が変わっている。

 どうして時ちゃんがもってるの? そう聞く前に私の手は伸びた。

 だけど、それをするりと躱した時ちゃんは私から距離を取って逃げる。逃げられても追いかける私だけど、すぐに無理だと諦めた。運動神経で時ちゃんに敵う者はいない。

 歩いて時ちゃんを追い詰め、近くの公園まで追い込む。道端でこんなことを話すより、公園で話した方が迷惑が掛からないよね。

「こーちゃんのお父さまの職場よりさ、ゲーセン行こうよ、そこで諭吉さんを百円玉にしていっぱい遊ぶの! 楽しいよぉ!」

 えへへーと頬に手を当てて妄想してる時ちゃん。そんなにいっぱいの百円玉は私の長いお財布には入らない。

 それより、今は時ちゃんがころされることだ。それが今日、本当に起きるか分からないけど、たぶん起きるんだ。

「時ちゃんは今日ころされるんでしょ? それであの人たちに聞けたんでしょ? 信じらないけど認めるよ……」

「なにを……?」

「時ちゃんは私と同じ夢を見ていて、死ぬのが、これから起きることが全部分かるんだ……」

 全部がつながった。時ちゃんは夢の中で聞いたお話を、バカみたいに信じて話してるんだ。

 だけど時ちゃんは、私の言い分と全然違うことを口にし始める。

 私はすっかり忘れてたんだ。あの時、時ちゃんが言っていたのに。

「えー? うーん、ころされるのは私だっけ……確かおじさまが助けてくれたから…えーと、あー」

 私はそれを思い出し、時ちゃんも思い出すと、時ちゃんの顔に表情というものが消えた。玄関で言っていた。あの人たちから逃げる前に言っていた。

 額の汗を乾かしていた風も、影法師を表す真上の日差しも、口の中の唾液もなにもかもが乾燥して凍りつく、ひどく寒い感覚、不快感、嫌悪感が全身を襲う。

「ころされる? 何言ってるの? 死ぬのは、殺されるのはくーちゃんなんだから」

 え?

「今夜十二時、くーちゃんは熟睡した瞬間を狙われてハイエースに乗せられ誘拐されるの、覚えてないの?」

 なにを言ってるの? 時ちゃん? その口調はいつもより早くて、私はあまりうまく聞き取れない。またあだ名だって変わってるし、また時ちゃんじゃない誰かと話してるみたい。

「じゃあ死ぬ時は幸せに死ねたんだよ、よかったね、もし目が覚めてたら絶対目覚めが悪いもん、痛くて痛くて外傷はないのに胸はまだ止まってるみたいで苦しくて苦しくて――」

「待って待って! なに? なんのお話してるの? だって今日は時ちゃんが死ぬんだって、お母さんが電話をもらってそう言ってて、だって! そうでしょ!?」

 そうなんでしょ? と、時ちゃんのお腹に収まってる日記帳を指さす。

「へーえ」その返事は不良(ヤンキー)みたいな言い方で、「私が砂いっぱいの麻袋に詰められて川を流されてる間、私はそんな扱いだったんだ、私のことをあの女がそうおまわりさんに言ったのかもね」

 それを聞いて私は混乱を極めた。時ちゃんは本当に死んだの? それともその時点ではまだ死んでないのか。私は時ちゃんの遺体をちゃんと確認したのか? 違う、時ちゃんの部屋が夜になっても暗くなっていただけだ。

「やっぱり生きてたんだ……じゃあ私がしんじゃうの? これから起きることってなんなの?」

 時ちゃんがしぬんじゃなくて私がしぬ。それが本当か分かんないけど、それを回避するためにはどうすればいいか考えなくちゃいけない。

 時ちゃんが私の知らないことを知っているなら、それを知りたい。

 だけど時ちゃんはポケットから携帯電話を取り出して画面を見ている。

「そういうのも教えてあげたいけど、でも時間がもったいないよね」時間を確認してるみたい。

 そう言って、今度は日記帳を差し出ししてくる。それを返してくれるようだ。手を伸ばして掴むけど、時ちゃんの手が離れない。

「これを受け取ったらくーちゃんにこれから起きることを教えてあげるよ、でもね」

「……でも、なに?」

「このあとはずっと一緒だよ、それを守れた後に、全部教えてあげる」

 その約束は悪魔の契約みたいな、質の悪いのイジワルに聞こえた。だって、大好きな私がしんじゃうのに時ちゃんは危機感を抱いていないみたいで、むしろ遊びたがっているからだ。

「ずっと一緒? それって私が眠るまでってこと?」殺されるまで教えないってことなの?

「そうだよ、とりあえず今日は諦めて、また次の日に全部教えあげる」

 時ちゃんが何を言っているか理解できなかった。何度考えたってやっぱりそれは、私がころされちゃうんじゃないか。

「それって……結局……。時ちゃんは何を考えてるの? 私、死んじゃうんだよ……?」

 私は日記帳に伸ばした手を離すどころか、その場に膝をついて座り込んでしまった。スカートが地面に着いて汚くなってしまうことなんかどうでもよくなっていた。お気に入りのスカートなのに。

「大丈夫だよ……まだ、まだまだだいじょーぶ!」いきなりテンションを上げて、「さらにこの後デートに付き合うこと! あと一万円を軍資金に提供だよ! あとあと、デートの終わりはキス! どう? こーちゃん? 受け取る気になった?」

 なんかいろいろ追加してきた……。その条件を聞いて、むしろ受け取る気がなくなってくる。

 この後はお父さんの職場で時ちゃんが叱られるんだよ。そうなる予定だったけど、この日記帳を受け取ったらそれも叶わなそうだ。

「……どうして今日はわがままなの? ゲームは諦めてくれなかったし、宿題終わっても帰ってくれないし、今日だって私がいないのに探してくるし……」

 夢と今日の現実がごっちゃまぜになる。時ちゃんが変なこと言うから、私も意味わかんなくなっちゃう。

「わがままかな? むしろこーちゃんのわがままを私が聞いてる気がするけど。だって、こーちゃんが絵本読む時だって静かにって言われたら静かにするし、温めてって言われたらくっついてあげるし、宿題しろっていうから嫌でもしてるんだよ? こーちゃんのいうことなんでも聞いてると思うけどなぁ……」

 それは時ちゃんがしたいことだからしてるんでしょ? それに、時ちゃんが私の言うことをなんでも聞くのなら、今のお願いだって聞いてくれないと困る。

「じゃあ、日記帳を返して。それとこれから起きることを教えて、時ちゃんが知っていることなんでも教えてよ」

「それはや!」さっきと言ってること違う。なんでもって言ったのに聞いてくれない。

「なんで?」

「……そんなの決まってるよ……」

ぱっと咲き誇るひまわりみたいな顔で声音にも明るさが増す、


「今日が何度でも続くならね、こーちゃんにいっぱいわがままを言えるんだよ。こんなに楽しい日は二度とないって気がするじゃん♪」


 全てはそういうことだったんだ。

 大好きな私にべったりな時ちゃん。だけどそれを、鬱陶しいと思う私。

 だけど私が時ちゃんを頼らないといけなくなったら? 時ちゃんを必要にしたら、どうなるの?

「お願い♪ こーちゃんがこの日記帳を受け取ってくれたら、絶対今日が楽しくて忘れらなくて思い出に残って寝ても思い出して思い返してくれると思うの、ね? そうおもうでしょ?」

 そんな機会(チャンス)が来たから、時ちゃんは私をお人形のように飽きるまで遊びつくし、ずっと一緒なんていう無茶苦茶なお願いを押し付けてこれるんだ。

 そして、時ちゃんはこの時間がいつまでも続くように願っている。

 それを聞き入れないと、私が殺されてしまう。しかも、今日の私が殺されるのはたぶん確定で、今(いま)日記帳を受け取っても次の日に、ううんこれが夢になってから教えてもらえるんだ。

 というか今日が夢になってこの日を繰り返す……、次があるなんて保障できるのだろうか? これが現実で終わりだったりしないだろうか。

 それを考えるといつまでたっても日記帳は帰ってこないし、明日を迎えることもできないだろう。

「……いいよ、でも今日は死にたくないから、殺されない方法を時ちゃんも考えて……」

 そう言って日記帳を掴むとするりと私の腕の中に収まり、手を離した時ちゃんは私の体を持って立たせてくれる。スカートを優しく叩(はた)いてくれる。

「それじゃあ……デート開始ー!」


 そういうことになった。

 いや、なっていいんだろうか?

 だけどそんなこと、今の私には考えられてなかったんだ。今は私が殺されない方法を考えてて、まずはお父さんに相談することが一番だと思った。

 でも、時ちゃんが私の手を引っ張ってお父さんの職場とは全然違うところに行く。

 それが時ちゃんと約束したことなんだから仕方ない。

 時ちゃんが携帯電話をいじって行き先を決める。予想はしてたけどやっぱり最初はゲームセンターだ。一万円札を全部百円玉にすると、ゲームで全てを使い切ってしまう時ちゃんが怖いので、三千円分を百円玉に変えて時ちゃんにじゃらじゃらと渡した。それを時ちゃんはわーいとポケットにぱんぱんに詰め込む。落とさないでよね。

 ここには時ちゃんの大好きなゲームがいっぱいある。私はピコピコとうるさいし、チカチカと七色の電球が目に優しくないから全然好きじゃないけど。

「ユーフォーしよ? ユーフォー知ってる?」

「宇宙人の乗ってるお舟のこと?」

 私がそう言うと、クスクスと笑われてユーフォーというゲーム機の前に連れていかれる。それは四角いガラス張りのゲーム機で、ガラスの向こうに見えるアームっていう万力が、下に海のように広がっている商品を掴んで、取り出し口の穴に入れる内容のゲーム。見たことや聞いたことはあるけど実際やったことはない。こんな細いアームで商品を掴めるのか不安しかないが、勝手にコインを入れられて、急かされるようにボタンを押すよう指示される。適当に押したらアームが動いてゲームが始まった。一体何が起きているか全然分からない私は的外れのところにアームを降ろして失敗した。その後も、時ちゃんがそこそこここここどこどこ、とはしゃぐから商品がちっとも取れない。次は集中して時ちゃんの声を無視して操作するけどだめ、やっぱり掴むことすらできない。

「こんなの無理だよ……詐欺じゃないの?」

「じゃあ私やる! いい? こういうのは掴むのではなく触るのだよ、ドントフィンクフィール」

 私がげんなり呟くと、最後の一回は時ちゃんが操作して、なんと商品のぬいぐるみを二個も掴んで、ううん引っかけて取り出し口の穴に落とした。本当に取れるか分からなかったのか、時ちゃんはすごい騒ぎながら、取り出し口から商品を引き出す。膨らんだお顔と小さなヒレがかわいいフグ、お鼻長くて牙がかっこいいサメの二つ。鞄とかにアクセサリーとして掛けられる小さなぬいぐるみだ。でも、最初から時ちゃんが操作してたらいっぱいとれたよね。

 そうして取ったフグのぬいぐるみを勝手に、私のお財布に掛けると上機嫌に鼻歌を歌う。後で捨ててやる、時ちゃんにプレゼントされた物なんて呪われる気がするもん。

 次はこれーと、また変わったユーフォーを指さす。商品は箱に収められたかわいい女の子で豪華だけどアームが変わった形をしていて難しそう、というかこれ無理だよ。金額も高いし……

「時ちゃんだけですれば」私じゃ失敗するだけだよ。

「そんなこと言わないで今日はこーちゃんもしてみようよ、こーちゃんが失敗しても次は成功するように頑張ればいんだよっ」

 そう言い返ってきたのがなんだかおかしくて、「私が失敗してもだって? やっぱり私を助ける気なんて全然ないんじゃないの? 私が今日死んでも本当に教えてくれるの?」

 ついカッとなって口に出してしまっていた。

 それを聞いた時ちゃんは、無言でお金を入れると操作し始める。商品にアームを上手くひっかけてから喋りだす。

「……私はね、いくらくーちゃんがいっぱい痛い目にあおうとも全然つらくないんだよ、むしろそんなことはどうでもよくて、この時間がずっと続いてずうっとくーちゃんと遊べたら、誰にも邪魔されなかったらね……それだけで幸せなんだよ、デトデトなんだよ」

 いつのまにかまた無表情で無機質な口調になってて、

「だからさ、どうにかするのってこーちゃんのお仕事で、今はそのヒントを私から教えてもらうお仕事の、その途中、なんじゃないの?」

 一発で豪華な商品を取った時ちゃんはそう言い残して、その商品の箱を取らずにどこかに行ってしまう。商品を忘れているのかと思ったけど、それを指摘するのに躊躇う。結局、時ちゃんを見失うのが怖くて、その後を追った。

 ふらふらと歩く時ちゃんが座ったゲーム機は、大きな画面とレバー、色とりどりのボタンが付いた筐体。格闘ゲームというものみたい。お父さんが何本か持ってるけど、操作が難しくてあんまり好きじゃない。時ちゃんもあんまりやらないって言うから、私と時ちゃんで対戦してみると、がちゃがちゃと音を立てて引き分けくらいで勝負が決する。よく分かんないけどなんだかそれが楽しくて、ゲームの中のキャラクターも渋くてかっこいいおじさんばっかりで面白かった。ゲームの中で時ちゃんに勝つのが嬉しかった、時ちゃんを倒すのが楽しかった。負けるとその二倍悔しくなって、何度でも挑戦した。いつの間にか、時ちゃんと私の周りには見物人(ギャラリー)が増えていて、怖くなってきたので時ちゃんの服の裾を引っ張ると、それを察してくれたのかゲームセンターを出てくれた。

「ゲーム楽しかったね。こーちゃんはあーゆーのが好きなの? なんか好戦的ー」

 顔を上げて時ちゃんの顔を見ると、やっぱりいつもと変わらない底抜けの明るい笑顔でいた。さっきはなんだか怒ってたみたいだけど、今はご機嫌みたい。

 ゲームをしたらお腹が減ったみたいで、近くのファミレスに入ると、大きく宣伝しているカレーフェアに時ちゃんが釘付けになる。私はなんでもよかったけど、時ちゃんはカレーにするって言う。カロリーは少ない方がいいし、私はパスタにしようかな。メニューが決まると、時ちゃんが呼び鈴を押して店員を呼ぶ。

「えーと、超スパイシーカレーとマーボーカレーと厳選キノコカレーとブラックカレーと素敵で華麗なステーキカレー、それに……」

「ちょっと待って、時ちゃんはそれ全部食べるの? お店のカレー全部言ってない?」

「そうだよ? 今日はこのお店のカレーを制覇するんだっ!」

 そんな無茶な……でも時ちゃんなら何とかしそうだ。でも食べきれないとお店に迷惑だから、一つずつ食べてから頼むことにした。時ちゃんはモチベーションが下がるとか言ってたけど、食べ始めて三皿くらいで音を上げる。ここで私にバトンタッチ。時ちゃんが全種類食べるって言うから付き合ってるけど、カレーは辛くてあんまり好きじゃない。それでも、食べ始めると食欲が湧いてくる。だけどそれも三皿目で限界な気がしてくる。時ちゃんもここでリタイアした。味見はしたいのか、時ちゃんが私のカレーを一口分さらって口に入れるとうぇへへーと赤い舌を出してにやけている。こんなバカに負けたくない。そんな気持ちになると、お腹がいっぱいで舌と唇がひりひりと痛くなっても最後の四皿目を完食した。時ちゃんに勝ったんだ、やったぁぁぁぁぁあ。

「なんか涼しいとこ行きたいねーこーちゃん汗かきすぎー」

 カレーのせいでいっぱい汗を掻いて体が熱い。ぱたぱたと胸元を仰いで新鮮な空気を求めていると、時ちゃんがそこに顔を近づけてくる。もしかして下着を見ようとしているのかも。近づく頭を手で押し返すと、鼻息を荒くしていた。もしかして私汗くさい?

 だから涼しさを求めてやってきたのは近くの水族館。私に行きたい? って聞いてくるけど勝手にすればいい。私に拒否権はないんでしょ?

「お魚魚魚魚ー♪ お魚魚魚魚ーを煮だすとー♪ お魚魚魚魚ー♪ お魚ーのにつぅーけぇー♪」

 また自己アレンジした変な歌を口ずさんでる。もしかしたら、カレーじゃなくてお魚のカレイが食べたかったのかもしれない。

 水族館だから中は涼しいと思ってたけど、そんなことはない。普通に温かくて水の光る青い色が壁に反射してとっても綺麗。大きな水槽の中を泳ぐお魚さんたちも、かわいいものばかりでずっと見ていても飽きない。

「このお魚さんこーちゃんに似てない?」指さすのはフグだった。「膨れた顔がやさぐれててこーちゃんっぽーい、くすくす」

「じゃあこっちは時ちゃん似だね」

 私が背伸びをして水槽の遠く遠くを泳いでいる大きなお魚さんを指さす。ハンマーシャークヘッドっていう強そうなやつ。頭がハンマーみたいだけど、その両端に目がついてるものだから私にはデメキンに見えた。

「きっと強いから私のことを守ってくれるし、目もでかいから私が迷子になっても絶対見つけてくれる」

 今からそうして。時ちゃんが私を守って。助けてって伝えたかった。

「うんっ、私みたいでかっこいいよね、私サメって好き、歯がいっぱいで大好き!」

 どうやらお気に召したみたい。そういえば、全くの偶然かもしれないけどユーフォーで時ちゃんの取ったぬいぐるみはフグとサメだった。もしかして、狙って取ったの? でもたった一回で何種類もあるぬいぐるみから、フグとサメを取るなんてそれこそ無理だよね。フグが取れたから私をフグに似てるって言ってるんだよね? サメは偶然で。

 水族館の終わりは貝とか化石とかのコーナーで、泳いでるお魚さんはいなかった。でも、この骨になっているお魚さんも昔はちゃんと泳いでたんだよね? 私たちも最後は骨になっていくのかな? そういうことを感じさせる場所だった。

 お外に出る頃には体の熱さは嘘みたいに冷えていて、外の風が一段と肌寒くなっていた。自然と体が震えるから時ちゃんに身を寄せると、そのまま最寄りの服屋さんに入っていった。

 そこは服屋さんなんだけど眼鏡とか帽子なども豊富で、時ちゃんはいろいろ物色する。なかでもサングラスが気に入ったのか、それを鼻にかけてくる。目線から完全に外れてるから意味ないよねと笑いあった。帽子も時ちゃんに似合いそうなのを選んであげる。時ちゃんは髪が綺麗に切りそろってるから、きっとニット帽が似合う。着てみたらやっぱり素敵で、色は灰色を選んでカートに入れた。

「これおっきくてかわいいよね?」

「うん、時ちゃんが言うならきっと素敵だけど、それ大人用じゃない?」

 私が着るにはぶかぶかで大きな服。真っ白くて生地が厚く中は羽毛が生えている、見るからにお高く見えるコートという上着を、ハンガーから外してばさばさ広げる。

「二人で着ればちょうどいいよ、ほら袖通してみて」

 言われて左腕にコートの裾を通す。時ちゃんが右腕に袖を通して、二人で一緒に着ると二人羽織みたい。余った右腕は時ちゃんの余った左腕と繋がれた。これで会計にすると、財布を取り出すのは私で、小銭を出すのは時ちゃんの役になる。お店の人も笑いながら許してくれて、さらには写真を撮ってくれた。ツイートするんだって。おかげでお値段もおまけしてくれて、なんだか私たち人気者みたい。

 お買い上げした白のコートのおかげでお外はもう寒くなかった。陽は落ちて気温は下がってるけど、着ている白のコートの中は羽毛のおかげかすごく暖くて居心地がいい、ずっとこうしていたいとさえ思ってしまう。

「えへへ、こーちゃん……やん、くすぐったいよ……くすくす」

 私は時ちゃんより身長が小さいから、頭を沈めれば時ちゃんの脇の下に頭を入れることができるんだ。こうすると、お日様の香りがたくさんしていい気分になる。時ちゃんは灰色のニット帽をかぶっているから、私は時ちゃんをかぶるの。時ちゃんが変に笑うから私はそれをもっと聞きたくて、左腕で時ちゃんを抱いて捕まえる。時ちゃんも負けずに右腕で私のお腹をくすぐるんだ。そこは日記帳が盾になってるから効きませーん。

 だけど、コートを買った代償は高い。

「もうお金なくなっちゃたね……」

 さっきお財布からお金を取り出した時に数えたら、もう五百円もないことに気づいた。白いコートを買うには一万円以上出さなくちゃいけなくて、私の少ないお小遣いからも出すしかなかったんだ。

 それで楽しめるものといえば駄菓子屋でお菓子を買うくらいだ。

「そっか残念。もっとこーちゃんといちゃいちゃしたかったなぁ」

「うん、こんなに楽しいんだったらお小遣い全部もってくるんだった」

「お小遣い? いくらぐらいあるの?」

「えーとね……確か二十万くらいあるよ」

「えぇー!? こーちゃんお金持ちだったの? だったらそれ全部使えばよかったね……」

 時ちゃんは驚いてうな垂れる。浮き沈みが激しいのが時ちゃんのかわいいところだ。

 お父さんがお年玉とかお小遣いは全部貯めて、将来のために使いなさいと言うからそうしてるんだ。それに、欲しいものがあってもお父さんが買ってくれるし、お金って必要なのかな? ってずっと不思議だった。

 でも今の私は、

「全部使うのはどうかと思うけど、他に映画館とか遊園地とかいっぱい行けたよね、あと……」笑みを含めて、「動物園とかもいいよね?」

「えー動物園は嫌。私最初に行きたくないって言ったよねー?」

 お金があればいろんな場所に行けることを知ってしまった。

「うん、覚えてるよ。でも時ちゃんの嫌な顔も見てみたいなぁ……」

 辺りはすっかり暗くなってしまって、そろそろ帰らないと親が心配してしまう時間帯だ。どこからか鐘の音が鳴る音がする。

「じゃあ後は帰って寝るだけだね」

 そして私は殺されるんだね。今夜十二時、熟睡した瞬間を狙われて誘拐されるんだよね? 本当にそうなるか分からないけど。

「……一緒に?」

 時ちゃんがそう聞いてくる。それがなんだかとても嬉しくて、いつもだったら鬱陶しいと感じるけど、今は頼もしく聞こえるから逆に聞き返す。

「一緒に寝てくれるの?」

「うん、お風呂も一緒に入ろうよ、頭も洗いっこしよ?」

「ありがと……ありがと時ちゃん……うっ……うぅ……」

 守ってくれるんだ。時ちゃんが私と今夜一緒に寝てくれて、私を守ってくれるんだ。

「……どういたしましてだよ」

 情けなく泣いてしまう私を、時ちゃんが包み込むように抱いてくれて、頭もなでてくれる。

「これ、かわいい……ありがと……明日もこれつけて学校行けたらいいな……」

お財布に掛けられたフグのぬいぐるみを私は愛おしく胸に抱いた。

「こーちゃん、デートの終わりにすること、覚えてる?」

「……うん、するよ、私ね時ちゃんとならしてもいいから、してあげる」

 時ちゃんが突き出して待ってる唇に、私はそっと優しく口を重ねた。

 今はまだお子様キスだけどね。


 すっかり暗くなった夜道を警戒しながら我が家に戻ると、周りにたくさんのパトカーとおまわりさんがいた。地面にはブルーシートが張ってあって、なにか事件でもあったのだろうか?

 おまわりさん、というよりスーツ姿なので刑事さんという方が正しいのかもしれない。その刑事さんが私と時ちゃんが歩いていることに気づくと近づいてきて、じろじろ見てくる。私は怖くて白のコートの奥に潜って隠れていた。

「君、子供? でも子供がどうしてそんなものを……」

「ごっこ遊びです、それより何かあったんですか?」

「……いやね、ここで銃声音がしたと通報があって来てみたら、なんだか血があるし、これはどうも事件が起きてるみたいでね、ほらそこのお家」我が家を指さした。「なんか娘さんがいないなって大変なんだよお嬢さんもなにか知ってるなら……」

「時ちゃんっ! はやく行こう!」

 コートから頭を出して時ちゃんの手を引っ張る。お父さんとお母さんが帰ってきてる。留守番をしてなくちゃいけない私がいないから心配してるんだ。

 時ちゃんも走り出すと速度はグンと上がり、刑事さんの振りかざす手を躱して我が家に向かう。入ったら玄関には黒い靴だけがたくさんあって、中にもおまわりさんが来ているみたい。

「ただいま! お父さん、お母さん! ただいま!」

 大声で呼びかけると、すぐに顔を出したのはお父さんだった。こちらを見て安心した顔をする。私はすぐさまお父さんに抱きつきたい気持ちだったけど、時ちゃんが白いコートを脱いでくれないのでもどかしく手間取る。そうしてるうちに、おまわりさんたちがやれやれといった感じで我が家から出ていった。

 お父さんは時ちゃんに目を配ると、初めて会ったような挨拶をする。

「こんばんわ、どこの子かな?」

「時巻時子と申します、お隣に住んでいる者です」

「これはご丁寧に、私も簡略ですまないが名刺でも渡しておこう」

 たぶん、時ちゃんも初めて会うのだろう。お父さんは礼儀正しく自己紹介する時ちゃんに感心して、長いお髭をさする。お父さんのお髭は帰ってくる時にだけ剃っているのか、今はずいぶんと長くなっていた。これではまだ汚くて抱きつけない。

「遅かったから心配したんだぞ、今日はどこ行ってたんだ?」

「時ちゃんと街で遊んでたの……それと時ちゃんは今日うちに泊まるから」

 そういえば、友達を泊まらせるなんて勝手に決めてしまった。お父さんにそんな許可なんて取ったことないから、許してくれる不安になる。

「それはいいが」いいみたい、やったー。「ご飯はどうする? 時ちゃんの分も出前を頼むぞ」

 居間に移動すると、テーブルに散らかったチラシを拾って、出前を取ろうとする。お昼を過ぎた後に、カレーをたくさん食べたので、今はあんまりお腹には入らないだろう。

 私は先に時ちゃんと一緒にお風呂に入りたい気分だった。

「出前はサラダならなんでもいいよ、少なめでお願い」と言う。時ちゃんもなんでもいいみたい。遠慮してるのかな。

 時ちゃんは携帯電話を手に取るとどこかに電話を掛ける。相手はお家にいるおじさんみたい。

「いいな電話、私もほしい」

「そうだな、お仕事が落ち着いたら倉莉にも買ってあげよう」

「小学生が持つのは法律違反じゃないの?」

「緩和されたんだよ」そうなんだ、知らなかった。

 お風呂へ急ぐと、時ちゃんが肩に手を乗せて待ったをかける。

「こーちゃん、下着とパジャマ、それにタオル忘れてない?」

 その時の私はすっぽんぽんになって浴室のドアに手をかけていた。

「大丈夫だよ、うちではお母さんが用意してくれるから」

 お母さんのお仕事は家事なんだ。我が家で私の帰りを待ったり、洗濯と掃除をしたり、ご飯の支度をしたりする。だから、私がお風呂にはいったら上がるまでにタオルもパジャマも準備してくれる。

「お母さまはどこにいるの?」

 時ちゃんに言われて気づく。そういえば、我が家に入ってお母さんの姿を見てない。てっきりキッチンにいると思ったけど明かりはついてなかったし、声も聞こえないし、そういえば靴もなかったような……

「おかあーさん! おかあーさんいるの!? ねーおかーあーさん」

 廊下に出てお母さんの名前を叫ぶ。返事してよ、お母さん? いるんでしょ?

 だけど返事はなくて代わりにお父さんが居間から顔をだした。

「きゃっ」

 それに驚いてしゃがみこんでしまった。今の私はすっぽんぽんだから、男の人に見られるのはとても恥ずかしい。お父さんもすぐに顔を引っ込めて声を出す。

「す、すまん。あー倉莉? お母さんはな……」なんだかその先は言いにくそうで、「お母さんは、実家に帰るって言ってたよ……すぐ帰ってくるともな」

 だからそれまでお利口さんでいような。そう言ってお父さんの言葉は終わった。

「お母さんいないんだ。パジャマとか用意しなくちゃ……」

 そうして、めんどくさいけどもう一回服を着て、時ちゃんと一緒にタオルとかパジャマを探す、でもこんなに荒らされてたっけ?

 階段下にあるタンスの中がぐちゃぐちゃだ。ここは普段、お母さんしか開けないから、最初からこうなのかはわからないけど、目的の物は用意できた。

 そうしてやっとお風呂に入れるんだと服を脱ぐ。でもそこでもまた問題が起きたんだ。

「ごめん、お風呂湧いてない……」

「じゃあ沸かそうよ、ここをぴぴっとすればすぐなんでしょ?」

 そうなのかな? これもお母さんがいじってたし……お父さんに聞くしかないよね。

 結局、お風呂は出前の晩ご飯の後に入ることになって、お母さんの存在がすごく大切に思えた。脱いだ後の洋服の後始末も、洗濯の支度も、明日の朝ご飯だって、私にできるか分からない。そんな話題が晩ご飯中に中心になった。

「時ちゃん、これ食べて」

「いいよぉ。じゃあ私はこれあげるー」

 私と時ちゃんでぶつぶつ交換をする。お父さんが頼んだ出前は、ピザのサイドメニューにつくサラダセットとチキンセットで、その中には私の嫌いな黄色や赤のパプリカとミニトマトがあったんだ。それを時ちゃんにあげて、私は唐揚げをゲットした。いえーい。

「なぁ時子ちゃん」

「なんですか?」お父さんに名前を呼ばれると、顎を引いて背筋を立てる時ちゃん。

「思い出したんだが……時子ちゃんはお兄さんと二人で暮らしてるんだそうだな?」

 お兄さん? 時ちゃんにお兄ちゃんなんていたっけ? 私がよく分からないという顔をするから時ちゃんが説明してくれる。

「私の父の弟にあたる者です。父とは十歳くらい年が離れていますから、私からしてみてもちょうど十歳離れていますので、お家の中では兄のような存在なんです。でも親族の呼び名的には叔父なのでおじさまと呼んでおります」

「そんなの気にしないでお兄ちゃんって呼べばいいのに」

 時ちゃんはめんどくさいことを気にする性格なのか、それともお兄ちゃんなんて呼び方は嫌なのか。あえて老けた感じに思えるおじさまという呼び方を選んでいるみたい。

「それで、時子ちゃんは家事はどうしてるんだ? まさか叔父が一人でやってくれているのか?」

 お父さんがお話を戻して、家事のことを聞く。ここら辺で私は察しがついた。

「いえ、私が一人で全部を任されています。なに分古いお家なので、掃除を怠るとすぐにカビが生えてくるんです。それに、おじさまもお仕事がお忙しいお方なので家事全般は私がすることに自然と収まったのです」

 そう答えられると、お父さんはさらに感心しているのかお腹の毛をさする。お腹の毛は濃いジャングルになってて、剃って綺麗にするのはもう諦めているらしい。そういうことを昔に言っていた。

「そうか、時子ちゃんは偉いんだなぁ……」頭を下げて手を合わせ、「これは断ってもいいお願いなんだが、時間があればでいいからうちの家事を手伝ってくれないか? 家内が帰ってくるまででいいんだ。もちろんその叔父にも断りを入れて、心づけも多少は出す」

「そんな……いいんですか? そのお話、ありがたくお受けさせてもらいます」

 お父さんが頭を下げるなんて見たことない。それに時ちゃんも同調するように頭を下げてるし、ていうか心づけってなんだっけ?

 目の前で何が起きたかはよく分からないが、とにかく時ちゃんはうちの家事を任されることになりそうだ。時ちゃんが家事をしているところなんて想像がつかないけど、きっと大変なことになるから、私が見張ってなくちゃいけなくなりそうだ。

 晩ご飯が終わるとお風呂も沸いている。今度こそ、と時ちゃんを連れて三度目のすっぽんぽんになって、一緒に入浴タイムと洒落込んだ。でもいつもだったらバスロマンを沈ませてるんだけど、それが見つからないので普通に無色な効能なしのお風呂になった。

「いいお湯ですね、とても身に染み入ります」

「時ちゃん、今は敬語しなくていいんだよ?」

 そこでやっと本能を取り戻したのか、「こーちゃんの出汁がよーく利いてるねぇ」ごくごくという音を出しながら湯船に顔を沈めた。

 よかった、いつもの時ちゃんだ。こんなお湯でも満足してくれるみたいで安心した。

「時ちゃんは時々、人が変わったみたいに声も仕草も変わるよね」

 例えばさっき。私のお母さんとお父さんの前では固い敬語で喋る。あとは真面目な時。顔も口調も無表情、無機質になって怖いことをぶつぶつ言うんだ。

「えー? 私そんなに変わってるかな? そりゃお父さまとかお母さまとお話しするのは緊張するけどさ」

 でも、私が好きな時ちゃんはいま目の前にいるおバカな時ちゃんだ。かわいげがあって面倒見があるんだ。だから私は時ちゃんの頭を洗いながら、決心した。シャワーで髪についた泡を流してあげる。

「時ちゃんなら、うちの家族になってもいいかも」

「えー? なんか言ってるー?」

「時ちゃんなら! 私の妹にしていいかも!」

「えー? 私、お姉ちゃんになるの? うぇへへへー」

 もうどっちでもいいよ。最後にもう一回お風呂に入って、時ちゃんと百を数える。どっちが先に言えるか勝負なんだ。早口は負けない自信があってやっぱり私が勝てた。時ちゃんは数字、というか日本語全般に舌が回らないみたい。こういうのはいっぱい空気を吸って吐き出すように数えるんだよ。

 先にお風呂から上がると、時ちゃんは数字を数えるのを止めて、私のお腹を指さす。

「なんだかこーちゃんの体がフグみたいでおもろー」

 そう言われて見ると、今日は食べすぎたのか風船みたいにお腹が膨れている。それを笑われたから、次にお風呂に一緒に入る機会があれば復讐してやろうと思う。

 時ちゃんのパジャマは私が貸したシャツと着ていた赤いスカートだけ。寒そうだけど、いつもそれなんだって。

 居間に戻るとお父さんが誰かと電話をしていた。お母さんかな。女の人の声が聞こえるからそう思ったけど違うみたい。お母さんはもっと優しい声をしてるんだ。電話の向こうから微かに聞こえてくる声は怒気が混ざっているのか音量も大きい。お父さんが私の顔を見ると、何かに気づいたようにガチンと受話器を叩くように鳴らして切った。

「……誰からなの?」

「お仕事の電話だよ……もう寝なさい、明日は学校なんだろ?」

「うん……おやすみなさい」

 時ちゃんも続くように頭を下げて、私の後を追うように階段を上った。お部屋に入ると後はもう寝るだけだ。瞼は重く、あくびが出てくる。

 ふと、お部屋が寒くて窓が開いていることに気づく。誰かが開けて閉めなかったみたい。もしかしたら、お父さんが私を探して開けたのかも。不用心だよね。

「あ!」時ちゃんがいきなり声をあげる。「宿題やってないよどうしよ!」

「明日の朝にやれば? 私のを見て答え写せばいいよ」

「それはダメだよ……それじゃこーちゃんの花丸はもらえないもん」

 花丸? あーそういえば花丸を書いてあげた時があったっけ? 確かその時のことを日記帳に書いた気がするけど……あれ?

「日記帳どこにやったっけ?」

「お風呂場じゃない?」

 何回もすっぽんぽんになったからそこかもしれない。時ちゃんがそう指摘するけど、なんか今日は取りに行くのがめんどくさくなる。

 なんで日記帳なんて書いてたんだろ? それも時ちゃんのことばっかりをねちねちと。そんなめんどくさいことよくやってたな私。

 だからやめた。もう書くこともないだろう。

「花丸なんていくらで書いてあげるよ、時ちゃんが頑張ればだけど」

 例えば、宿題を終わらせた時、テストで高得点を取った時とか。

「今はすぐ寝て、明日は学校に行きたい……そこで時ちゃんのしたいことしよ」

 確か体育館とかグラウンドで遊びたいんだっけ? それとも保健室かな? なにするか分かんないけどきっと楽しいことなんだろうな。今日のデートみたいに。

「私のしたいことしていいの? えっちなことでも?」

「そういうのは二人きりの時にしようね、学校は勉強するところ」

「うんっ二人きりの時にするね」

「枕、ないけどいいよね?」お母さんがいないからどこにあるか分からないんだ。

「いいよ、こーちゃんを枕にするから」

 なにそれ、と笑う私が先にベットに潜ると、時ちゃんもすぐさま潜って布団の中でもぞもぞする。私のお腹をめくったりしてるみたい。夜の時ちゃんはちょっとえっちだった。それこそ、今日のお昼にしたキスよりすごいことをしてたみたいで、私はすごく気持ちよくて、それが終わると薄い眠りが続いて余韻に浸っていた。


パリーン!


 大きな音。ガラスが割れたみたい。頭の中ではそれを確認しないといけないのは分かってるんだけど、瞼がくっついたように開かなくて、体を起こすまでずいぶんと時間がかかった。

 口に何かが張りついた。それは粘着質に優れているのか口を動かしても剥がれる感じがなく、遮音性に優れているのか私の高い悲鳴が周りに響かない。ぼやける目には知らない男の人が何人か映った。全身黒づくめで、髪も体も特徴を見せない男たち。

 その知らない男の人たちは暴れる私の両手両足を迅速に抑えると担ぎだす。

 その内の一人が呟く「こっちはどうする?」

「寝ているなら寝かせおけ」

 時ちゃん? 時ちゃん!? 時ちゃん! 時ちゃーーーーん!?

 私は必死に動かせる目をぐるぐる回して、知らない男の人たちの顔を見て、それから時ちゃんの穏やかな寝顔に目線を合わせる。その名前を叫ぶ。だけど言葉は声にならなくて伝わってくれない。こんなに叫んでるのに時ちゃんはちっとも起きようとしてくれない。

「いやたしか、クライアントの命令じゃあ……」写真を見つめ、「この子はここで殺すよう言われてたな」

 知らない男の人たちは仲間の一人に時ちゃんを任せたのか、私を担いでベランダに出ようとする。ぐっすりと熟睡している時ちゃんはよだれを垂らして、それに気づこうともしない。

「すぅすぅ」

 時ちゃん? 嘘でしょ? 寝てるの? 起きてよ? このままだと私……

「すまんな、これも俺たちが生きるためなんだ……」

 それから、知らない男の人たちは割れた窓から飛び降りると塀へ着地し、私をボールみたいにポンポン投げて塀と屋根に隠れながらこそこそと音を立てないように移動する。

 どこかへ運ばれている間、私は涙を浮かべながら時ちゃんの言葉を思い出していた。

 ――どうにかするのはこーちゃんのお仕事なんだよ。

 時ちゃんは助けてくれる気なんて最初からなかったんだ。ただ私と一緒にいたいから寝てたんだ。ひどい、ひどいよ。

 やがて、たどり着いた場所は空き地だった。そこに待機させていたでっかい車の後ろに私を乱暴に乗せる。手も足もガムテープでぐるぐる巻きにされているのか、私は身じろぎ一つできやしなかった。

「すみませんね。これも私たちのお仕事でして、たぶん殺されるなんてことはありませんから安心してください」

 それがせめてもの優しさのつもりなのか、頭を二回撫でるように叩いてくる。そんなんで安心なんかできるかぁ! 車はどこかへ移動すると立ち止まって、さらにもう一人乗せたみたいで、車内に女の声がささやかれる。車はまた走り出した。

 蛍光色の明かりが点いて、目の前に現れたのは髪の長い女の人だった。その顔には見覚えがある、時ちゃんとぶつかったり、私を捕まえろと叫んでた人だ。女の人は帽子もサングラスも外していて、やせた顔を近づけて私をじろじろ睨んでいた。

「あんた、クライチさんにあんまり似てないね、お母さん似だったりするのかしら」

 クライチ、それはお父さんの名前だ。女の人はどこかに電話を掛け始める。それでも目線は私をじっと見て、口元には笑みが広がっている。電話がつながるとその口はさらに大きく歪んだ。

「クライチさん? 今お宅の子を預かっているんですよ、ええ、返してほしいのならメモの通りにして指定の場所まで一人で来てくださいね。待ってますよ」

 それだけ言うと女の人は電話を切って、いきなり私の顎を鷲づかみしてくる。指が歯の間に食い込むほど力を入れながら、口元に張られたガムテープをはがしてくれる。

「クライチさんがあんたのためにお金を用意してくれるってさ」

「助けてっ! 誰か助けてよっ!」

「ははっ! 助けを呼んでも無駄、この車の中は外からは絶対見えないし音も漏れない。あんたが叫べば叫ぶほどクライチさんは悲しむだろうね」

「嫌だよっ! 死にたくないっ! どうしてこんなひどいこと……うぅうぅ……」

「私だってこんなひどいことしたくないよ、でもさ、クライチさんが私をいじめるから仕方ないでしょ、こうでもしなきゃクライチさんは泣いてくれないだろうし……それに」

 そこで私は気づいた。ジーという音、ラジカセみたいな機械でテープが回ってる。ここで発せられる会話は録音されてるんだ。どうやら女の人は私の泣きわめく様を見て楽しみたいみたい。

「私のお仕事を奪った罰なんだ、人ひとり分の幸せを壊しておいて……そのくせに自分だけは結婚してるからって、家族のためだって、だから私は外される? そんなのおかしいよね? あんたもそう思うだろ? 人は平等でなくちゃいけない。何年働いてるからとか人より仕事してるからとかで、優劣つけられるなんておかしい世の中じゃないか。私たちって幸せに生きるために働いてるんだよ? 変だよねぇ?」

 口を大きく歪ませて、化粧をしてるのにとっても怖い顔を近づけてくる。

「そんなの……知るか……でも、こんなことしたら二度と幸せなんかなれるわけない」

 大人のお話なんて、子供の私にわかるわけない。それに、お父さんがこの女の人にひどいことしたみたいだけど、それに私を巻きこませるなんてとんだ迷惑だ。言いたいことがあるならお父さんに言えばいい。

 女の人は酒を水分補給みたいに飲んでから言う。「……そうだよ、でも幸せってなんなのかって考えたらさ、クライチさんの場合は友達とか家族とか好きな人といる瞬間なんじゃないかって思えてさ、私はといえば別に結婚とかしたくもないし人とも顔を合わせたくない、一人でひっそり何事もなく生きていく瞬間が幸せなんだって思えてきてさ、でもそれもクライチさんのせいで仕事がなくなって将来が真っ暗、一人で生活することも困難になってきてもう嫌なのよ……生きることってこんなに難しかった? もう生活に必要なお金だってあんまりないし、だったらいっそクライチさんの幸せを壊した方がいいって……そう思うだろ? 機会は今だけなんだからさ」

 全然理解できない。十一年くらいしか生きてない私にはお父さんのお仕事も、この女の人のお仕事のこともこれっぽっちも分からないんだから、理解できるわけないんだ。でもそれは違うと思う。

「私のお父さんがなにしたっていうの……そんなに、壊したいって言うほど憎まれることしたの……?」

 そんなことをお父さんがするわけない。でも、もししてるなら、私の幸せの場所もそれを犠牲にして存在してる場所だとしたら、私は何も知らないけど、この女の人に迷惑をかけて生きているの?

「……あんた、本当にあのクライチさんの娘かい?」私のまっすぐな目を見て首をかしげる。「とことん似てないから別の子だったりするんじゃないのか、っははは」

 それから女の人は子供には難しいお仕事のお話をした。とても長いお話だったけど、私は寒くなる車内の中でひたすらに耳だけを澄ましていたんだ。

 お父さんは会社の制作(クリエイティブ)部門の部長をやってるみたいで、その指示は実質社長よりすごい影響力をもっているという。会社の企画もお父さんのチーム次第で納期が決まったり内容が決まる。それに合わせて間に合わせるようにみんなは頑張る、たとえ間に合わなくても残業すれば絶対間に合うからと努力する。それが得意な人だから毎日会社に籠って寝泊りしてるみたい。でも、それに付き合わされる女の人は早くお家に帰りたいし、どんなに頑張っても変わらないお給金に不満で、それが迷惑だっていうことをお父さんにぶつけたんだ。それが社長の耳にも届いて、女の人はさらに簡単な仕事をさせられることになって、残業はなくなったけどさらにお給金が減って住んでたお家の家賃が安定して払えなくなったんだって。だから、お仕事を戻してくださいってお願いしたら、それは無理だって言われたんだ。その席はもう埋まっていて、女の人は会社に必要とされてないって周りから言われて、業績が落ちたんだって。そこからはもう聞くに堪えなかった。

「こうして、せめてものの退職金を受け取った私は会社を後にして、半年経ったんだ」

「……変なお話、作り話みたい……」

 よくドラマとかニュースでやってるよね。これってリストラとか不景気のお話でしょ。

 女の人はたばこをふかしながら言う。「たぶんさ……私がバカだっただけなんだよ、計画性がない奴だって彼氏にも言われた。でもさ未来のことなんて誰にも分かんないじゃんね。いつケガして立てなくなるか……死ぬかわからないんだからさ。こんな長話なんか話す予定じゃなかったのに……くそ」

 女の人は悪態をついてカセットを引き抜くと、ガシャンと床にぶつけて踏んづけて壊した。つまらないものを録音してしまったと言う。

 そこでお話は終わり、車が止まった。

「よかったね、大好きなお父さんが来てくれて、あんた愛されてるよ、周りにはだーれもいなし。馬鹿正直に一人で来たんだね」

 そう言って、女の人はお腹のポケットに手を入れると、そこからギラリと蛍光色の明かりに照らされた銀色の刃物を取り出す。それを突き付けてくる。

 なにしてるの? それを何に使うの? やめて、こっちに向けないでよ……

「金を確認したら教えな」

 運転席の男がわかったと言う。私を殺そうとしている。ここでしんじゃうんだ。

 私は再びガムテープを口に張られて、よく分からない薬品を鼻に近づけされる。それを吸い込むのはまずいと分かっているから、息を止めるけど長く持ちそうにない。しかも息を止めても薬品の匂いが鼻をつんと刺してくる。

「金を確認、これで依頼達成だな、分け前は八二だぞ――」運転席の男が焦る。「なんだ? おい、どうしたんだ? そこに誰かいるのか?」

「ち、あのガキだと!? あいつ始末できなかったのか!?」

 微かに銃声音が聞こえる。でもそれは車からではないから、きっとお外なんだ。

 真っ暗なお外でなにがあったのか私は予想がつかない。それにもう息が続かないんだ。

 私は霞む視界とひどいめまいと共に、死んだ空気を吐き出して新鮮な空気を求めて鼻をひきつかせた。とてもつんと鼻にきてくさい、喉がかゆくなり痛いけど、それしか吸い込めないなら仕方ない。

 でも嫌だなぁ。今日はとてもいい日だったのに。時ちゃんといっぱい遊べて、私、楽しかったのに……

 走馬灯のように思い返す最後に、フグのぬいぐるみが頭に浮かんで目頭がすごく熱くなった。

 そのうちその感覚もなくなって、真っ黒い闇と深い眠りに沈んで、ちくっと胸が痛んだ。


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