第5話時ちゃんと運命の一日――前半戦――3

時ちゃんと運命の一日――前半戦――3


 ――それが夢になることも知っていた。

「おはよー! こーちゃんー! 今そっちに行くからねー! だから早く起きてねー!」

 窓を開ける音とその高い声は同時に響いた。

 驚きはしない。でも時ちゃんの声がまた聞けてテンションが下がる。でも今は行動しなきゃ――

「はやくノートに書かなきゃ……」

 バッと起き上がると、机の引き出しを開けて奥に隠されたノートを広げる。やっぱり最初の夢も、今さっき見た夢のことも書かれてなかったけど、まだちゃんと覚えてるから記憶を頼りに書き写す。長い文章になるけれど省略はしてはいけない。

 それからタンスを開けると、

「倉莉ー! 時子ちゃんが遊びに来てるわよー!」

 お母さんの声が響く。それが私を急かすけど確か私が寝てると、勘違いするから来ないはず。まだ時間はある。

 だから落ち着いて音を立てないようにタンスを開けて洋服を選ぶ。パジャマから洋服に着替えるんだ。まだアイロンがけをしてない洋服を取り出す。

「倉莉ー? あら、あの子まだ寝てるみたい」

 そうだよ。私今服選んでるの。邪魔しないでね。

「うーんそうですか。仕方ないですよね、お休みの日なのにお邪魔しちゃって」

「そんなことないわよ。だって時子ちゃんは遊ぶ約束したのよね?」

「はいっ! 明日は二人っきりって指きりしたんですっ」

 それは時ちゃんの妄想だよ。二人っきりとか指切りとかノートには書いて無かったもの。

 結局、洋服はあの夢で着ていた服を選んだ。それが一番かわいいからね。アイロンをかけてなくてもあんまり気にしない。ありがとうお父さん、私にとっても似合う服を選んで買ってくれて。鏡に映る自分を見るといつも親に感謝してるんだ。本当にありがとね。

「あの、お母さまに差し支えがなければこーちゃんにサプライズでお邪魔しててもいいですか?」

「ええいいわよ。さ、あがってって。倉莉も時ちゃんがいたらびっくりするだろうから」

と、お母さんと時ちゃんの会話を一通り聞いた私は、

「ばいばい時ちゃん」

 そう呟いて、髪をブラッシングする。それからお部屋を出て、足音を立てないようにのそーと階段を下る。今日はお外に出ることにした。街に行って遊びにでも行こう。そうすれば、時ちゃんが我が家にいる意味もなくなる。

 玄関口に誰もいないことを確認して一階に降り、居間の様子を覗く。

 たしか我が家にお邪魔した時ちゃんは五分と経たないうちにソファで横になるんだ。そして熟睡してしまうはず……

 なのだが、

「……起きてるの?」

 居間からこっそり覗いて見えた時ちゃんは、

「えへへ、やーちゃんまだかな? はやく起きてこないかな? うぇへへー」

 ソファに座ってお行儀よく朝のニュースを見ていた。

 早く来すぎたのかな? その後何分か様子を見たけど、やっぱり寝る感じではない。夢と違う時ちゃんがそこにいた。

 仕方ない。計画変更。今玄関から出て行ったらドアを開ける音で、時ちゃんが気づいたら終わりだ。

 降りた階段から玄関口までの道のりに居間の入口があり、居間の入口からは玄関口が丸見えだ。幸い、時ちゃんはニュースに夢中だしこっちを見ていない。

 今がチャンス……! のそのそーと慎重にかつ素早く玄関にたどり着き、自分の靴を回収。その後も油断せずに階段まで歩く。

「……やった……!」

 時ちゃんは気づいてないみたい。そのまま靴を抱えたまま階段を上る。帰るまでが修学旅行と校長先生が言っていた。私も自分のお部屋に戻るまで油断はできないんだ。自分のお部屋の引き戸に手を掛ける。

「こーちゃん!」

 ビクッ! 時ちゃんの声!

 だけど自然と強張った体を振り返った先、階段の先には時ちゃんはいなかった。

「早く起きてねー!」

 声が遠い。たぶん居間から顔を出して大声を出してるんだ。びっくりさせないでほしい。それにそんなこと大声で言っても私は寝続けるんだからね。

 こうして、無事お部屋に着いた私は靴をベットの下にでも隠す。これで時ちゃんもお母さんも私が外出したと思うだろう。後はそれに気づいた時ちゃんがお外に出ていくまで待つだけ。

 これで本当にばいばいだね時ちゃん。それまでどこかに隠れてなきゃいけない。お外はダメだ。

「……お父さんのお部屋で遊んでようかな」

 ちょっとお腹が減ってるけど、朝ご飯を抜くくらい我慢できる。時ちゃんが帰るまでの辛抱だ。

 机の引き出しの奥に隠した秘密の鍵を手に取る。

 私が十歳になった日のお誕生日プレゼントがこれ、お父さんの秘密の鍵だった。それを使って二階の廊下の突き当りにあるお部屋に入れるんだ。

 時ちゃんの耳に入らないように引き戸を開けて、のそのそーと忍び足で移動する。

 そこがお父さんのお部屋。中に入ると真っ暗で、照明のスイッチを点けると、天井からぶら下がった裸電球が一つだけ黄色く薄暗く光る。さらに青白い光を放つモニターが六つくらい並んでて、そこら辺を照らしいる。カーテンと窓は開けちゃダメと言われてるので開けない。ここはお母さんが入ってこれない場所だから、掃除が行き届いて無くて少し埃っぽく換気もできない。だけど秘密基地みたいでロマンに溢れている。

 六つのうち五つのモニターには防犯カメラの映像が映っていて、お外の様子が映し出されている。私はキーボードのボタンをひとつずつのそのそと、慎重に押していくと映像が我が家の中の様子に切り替わる。この操作はお父さんから教えてもらったんだけど、これ以外の操作はパソコンが壊れちゃうからいじらないように言われてるんだ。

 今、防犯カメラの映像は居間と台所、玄関口に階段、二階廊下が映し出されている。

 そこには時ちゃんが映っていてソファの上で後ろを見たり前を見たりでそわそわしていた。私を待ち焦がれているようだった。

「はやく帰ってくれないかな」

 お父さんのお部屋にはテレビはないけどゲームはある。音は、大きなヘッドフォンを耳にすっぽりと着けなきゃ聞こえないけど、けっして不便ではない。ゲーム機の電源ボタンを押すと、六つ目のモニターがゲームの映像を映し出した。

今日はどんな冒険をしようかな。お父さんのセーブデータとは違う私のデータをロードするとゲームが始まった。たくさんのモンスターを倒して道を進んでいく。イベントはボタン一つで進んで、かわいい女の子のもえっとした声が耳に届く。お母さんの読み上げる絵本も好きだけど、ゲームのお話も好き。時々、えっちなお話になるけど現実のお話じゃないから全然気持ち悪くなんてないんだ。


 そうして時間も食欲も忘れるほど没頭していた時、

「こーちゃーん! お家の中にいるのー!? こーちゃーん!」

 大きなヘッドフォン越しでも聞こえる、時ちゃんの大声に私は冷や汗混じりに監視カメラを見やる。

 時ちゃんは二階廊下にいて、床をじっと見つめている。

 玄関口にはお母さんがいて、靴箱を開けて私の靴を探してるようだった。手に握ったコントローラーと耳に装着したヘッドフォンを外してそこら辺に置き、耳を澄ますと二人の会話が聞こえてくる。

「やっぱりどこか出かけたのね」

「でもさっきは靴ありましたよね?」

「時子ちゃんがいるのに朝食も取らないで出かけるなんて珍しいけど……」

 お母さんも私のことを探してるみたいだ。心配させてるみたいでなんだか胸が痛くなった、早く出ていっておはようと言って朝ご飯を食べたい。

「……あの、ちょっとお伺いしたいことがあるんですけど……」

「あら、どうしたの?」

 監視カメラの映像で時ちゃんが二階廊下の先を指さす。

「二階の突き当りのお部屋ってなんですか?」

 その問いに、胸がざわつく。額に脂汗が滲んで拭う。

「あのお部屋はうちのお父さんの書斎よ、普段は鍵がかかっていて入れないのよ」

「じゃあお母さまでもあそこには入れないんですか?」

「うーんそうね……私も鍵はもらってないし入らないようにお願いされてるのよね……あの人もなんだかんだでプライバシーを覗かれたくない人だから、きっと見られたくないものがあるのよ、きっと」

 お母さんが入ってこられない理由が初めて分かった。でもここにはそんなやましいものはないと思うけど。例えばえっちな本とかDVDとかは何もない。ただかわいい小さな女の子が描かれた本とかゲームだけだ。

「おそらくですけど……こーちゃんはそこにいます」

 えっ!?

 時ちゃんは私のお部屋の前に膝をついて、指で床をなぞっていく。

「見てください、これはこーちゃんの足跡と思われる跡です」

 そんな跡が!?

 そう言われて目を凝らすけれど、この監視カメラの映像では時ちゃんのなぞる足跡は残念ながら見えない。

「そしてこの足跡はのそーと、のそーと歩いていって……」

 そんなことまでわかるの!?

 高い声音になって、「きゃは☆ 今日は大好きなパパのお部屋でおねんねしよーっと、呟きながらですね……」

 は? 今の私の物まね?

 いままでの私の行動を監視してたかのように、時ちゃんは推理をする。

「ここで途絶えています」お父さんのお部屋の前で止まり、「だからこーちゃんはここに入っていったことは確かなんです」自信満々な顔でそう答えた。

「そうなのかしら……でもあの子がここの鍵を持ってるなんて聞いたことがないけど……」

 もしかしたら時ちゃんはバカなんじゃなくて、それをわざと装う悪魔のような恐ろしい子なのかもしれない。

 どんどんっとお部屋の扉が叩かれた。

「こーちゃんそこにいるの? こーちゃん?」

 うそでしょ? ここがばれるなんて……。でも私がここにいて出ていかなければそれは正解ではなくなる。私は籠城の策をとった。口に手を当てる。

「これこーちゃんの靴だよね? どうしてベットの下に隠してたの? 答えてよこーちゃん」

 監視カメラの映像には私の靴を掲げる時ちゃんが騒いでいる。

 なんで見つけられるの? じゃあ私がゲームに夢中になってる間に、勝手に私のお部屋の中に入ったんだ。勝手に乙女のベットの下を覗いたんだ。

 それでも反応なしのお部屋の前で、さらに時ちゃんは上着を腹からめくり、そこに隠してあったノートを掲げた。そのノートの表紙には大きく『時ちゃん観察日記』と書かれている。

「これこーちゃんの秘密のノートだよね? まだ中身は読んでないけど読みあげるよ? きっとえっちなこといっぱい書いてるんでしょっ?」

 えっ、そんなこと書いてないけどそれは困るっ。本当に勘弁してっ。

 見つからないように机の引き出しの奥に隠していた日記帳まで掲げられて、つい体が慌てて手をバタバタと振ってしまった。そこら辺に置いたコントローラーやヘッドフォンを床に落としてしまい、

 ゴトゴトッ……

 と物音を出してしまったのだ。それを聞いた時ちゃんとお母さんは、顔を見合わせて頷いている。

「やっぱりいるんだよね? そこでなにか変なことでもしてるの?」

「倉莉? いるなら隠れてないで出てきなさい、お母さん本当に心配だわ」ついにはお母さんの声がして私は観念した。

 ごめんねお父さん、私がこのお部屋に出入りできることがお母さんにばれちゃった。

 でもね、これ以上お母さんを心配させるのは嫌なんだ。

 もしも、お母さんがこのお部屋に入ることがあれば、壁に差さってあるコンセントを一つ残らず抜くように言われているのだ。

 それは私の失敗を意味することで、お父さんは深く失望するだろう。私はもう二度とこのお部屋に入れないことをなんとなく悟っていた。

 だから言われた通りたくさんのコンセントを抜くと、パソコンやらモニターやらが一気に電源を落としていってギュウウン……と機械の動く音が静かに鳴り止んでいった。

 最後にそこら辺に秘密の鍵を置いていくと、薄暗いお部屋に別れを告げてドアを開けた。

「こーちゃん……よかった……」

 こっそり顔を覗かせると、時ちゃんが涙を零して、安心したかのように顔をへらっとして私のあだ名を呼んでいた。どうやら心から心配していたみたい。

 まるで雨上がりの夜空みたいに綺麗で、最初の夢も同じ顔を見た気がする。綺麗だけど、今の私にはとても腹立たしい顔だった。

「なに……?」

「よかった生きててっ……! ほんとに……!」

 ドアからちょっと出ていた私の頭を引っ張り出すように時ちゃんの腕が絡みつく。この抱かれ方は息苦しくて暑い。プロレスの必殺技みたいだ。

「どうして倉莉がお父さんのお部屋にいるの?」

 お母さんが真剣な顔を近づけて聞いてくる。お母さんにはどう答えればいいの……

「お母さま、そんなことどうだっていいんですよ、今はこーちゃんがここにいることが何よりです」

 私とお母さんの間に時ちゃんが割って入る。私を庇ってくれているみたいだった。さっきはあんなに追い詰めてきたくせに……

「じゃあこれだけは正直に言って、お父さんは倉莉に変なこと、してないわよね?」

 変なこと……それってどんなことだろ? お部屋をコーディネートしてくれたこと? お洋服を選んでくれたこと? 秘密の鍵をくれたこと? 変なことなんて身に覚えがなかった。

「してるわけないでしょ、なんなの?」

 この時、自分の口から出た不機嫌な言葉が私自身とても驚いた。どうやら私は感情を抑えられずに、逆ギレしているみたいだ。

 でもその理由は、口にはできないけど頭の中では理解できていた。この時、お母さんはお父さんを疑っていたんだ。家族の一員として。

「……そう」

「…………」

 息が詰まるような沈黙が続いた後、それを破るように時ちゃんが私の手を引いて走りだし、私をお母さんから遠ざけてくれる。

 今はそれがありがたく感じた。

 向かった先は当然私のお部屋、それでも私はお母さんの方を最後まで睨んでいた。だけどお母さんは私から目を外して、じっとお父さんのお部屋の方を向いた。

 その顔に歪んだ笑みが浮かんだのは気のせいで、私がどうかしてるんだと思う。


 私のお部屋に帰ってくると、時ちゃんは手に持っていた私の靴をベットの下に戻して(戻さないでほしかった)ベットに寝転がり日記帳を開いて――

「読まないでよっ!」

 ばっと開かれた日記帳を取り上げる。ついヒステリックな声を上げていた。時ちゃんは、えぇーと口を尖らせて残念そうな顔でこちらを見上げてくる。

 本当にこのバカはどうしてここにいるんだろう。時ちゃんがいるから私はどんどん不幸になっていく実感が湧いてくる。

 とりあえず私は日記帳を隠すように抱いたまま、荒れている心を落ち着かせようと時ちゃんの横に倒れこんだ。このままだと時ちゃんを殴ってしまいそうだった。

 ガシャンッ! どこかで何かが、大きな物音をたてて割れたり床に落ちる音が聞こえた。

 それを聞くと、急にうるんだ瞼を強く閉じて目頭を左腕で覆って視界を完全に暗くする。もうなにも見たくなかったし考えたくなかった。

 バリィン! でも音は聞こえてしまう、それを塞ぐにはどうすればいいの? 目を塞ぐ左腕とノートを隠す右腕では物理的に手が足りないんだ。頭を左に向けることで片方の耳は塞げたけど片方はまだ聞こえるんだ。それが塞げないうちは、音が響いて気になって仕方なくなってしまう。

 今、お母さんはお父さんのお部屋で何をしてるんだろう? きっとお父さんのえっちな本やDVDを探すのに手を焼いているんだ。そんなのどこにもないのに。

 その時、無意識に澄ませてしまう耳に温かい吐息がかかった。まるで耳の中に湯気が籠っているかのような高い湿気が心地よく感じる。

「そのノートに書かれてる時ちゃんって私のことだよね? 観察……してるの? 私のこと……?」

 耳元で時ちゃんが恥ずかし気を混じらせた声色で聞いてくる。どうしてだろうか、その声の感情には嬉しさも混じっている気がした。

 どう答えようか。こんな質問をするからには時ちゃんは本当に中身を見ていないのだろう。もし見られていたら、とっくに引いて近づきもしないだろう。

「ただの日記だよ、このタイトルは物心つかなったちっちゃい私がつけたの……」

「そ、そっかぁ、えへへじゃあちっちゃい頃のこーちゃんは私ゾッコンラブだったんだねぇ~えへへ」

 機嫌がいい、高い声で時ちゃんは嬉しがっている。そんな時もあったかもしれないね、信じられないけど。

「あの頃のこーちゃんはかわいかったよね、いっつも私の髪を褒めてくれて、ブラシ掛けたりいろんな髪型を作って遊んでたよね?」

 そうだね。私は時ちゃんの長い髪を真似したいとお母さんに言ったら、次の日に時ちゃんが髪を触らせてくれたんだ。そのせいで私は今も、時ちゃんの天使の輪が現れる綺麗な髪が羨ましくて妬ましい。特にうなじ、首元と後ろ髪の境がきっぱりしてて見た目も美しくて触り心地もすべすべで最高なんだ。

「あとはお互いの似顔絵描いてて、こーちゃんが描く絵の私にはいつも赤があったよね、覚えてる?」

 覚えてる。時ちゃんは誰よりも騒いでて目立つから赤い帽子とか靴とかがきっと似合うだろうなぁと思って、時ちゃんにはいつも赤いクレヨンで彩ってあげていた。特に似合いそうなのは赤いマフラーとか赤い手袋、いつかプレゼントしてあげようと頑張ってた時もあったっけ?

「あとあと嫌いな食べ物を交換し合ったりしたよね、こーちゃんは臭いのと酸っぱいのが嫌いなんだよね」

「……それは助かってる」

「え?」

 まるで驚いたような時ちゃんの声。

 そんなに驚かなくたっていいのに。私の嫌いなものを時ちゃんは嫌な顔せず好きなものと交換してくれるのは本当に感謝してるんだ。

「こーちゃん……もしかして、デレてるの?」

 デレてる……? たしかツンと一緒に使う言葉だった気がする。でもどんな意味だっけ、雰囲気みたいな感じだったと思うけど……

 難しい言葉の意味を考えていると、体に何かが擦り寄ってくる感触がする。見えなくても分かる、ひまわりみたいな、心が落ち着くような香りで時ちゃんが私の隣に横になっていることが分かる。

 それは寂しいご主人に寄り添うような犬のようで嫌な気持ちはしない。時ちゃんは私をなだめるように背中をさすってくれて、寒くならないように足を絡めて太ももをこすってくれて、寂しさを埋めるように頭と頭をくっつけて半分こにしてくれる。

 空いた片方の耳には、もう時ちゃんの音しか聞こえない。


「こーちゃん、キスしたいから顔見せて」


 ぐりぐりと頭を突っ込ませて腕で塞がれた目をはがしに来てる。なんてえっちなお願いだ。でもなんだか、私もしたくなってくる。

 あれは夢だから、これは初めてのキスなのに。

「……嫌だよ、ぐちゃぐちゃだから見せたくない」こんなの本音みたいな建前に聞こえてしまう。

「それでもいいよ、こーちゃんはどんな顔しててもかわいいもん」

 そう言われて、かわいいって言われて、私の腕の力は弱くなってしまったんだ。時ちゃんのひまわりのような匂いが強くなる。

 そうなったら湯船に栓をして水を止めるみたいに、時ちゃんの頭が私の腕をかいくぐって唇をくっつけて栓をしてくる。絡んでいた足は立ち上がろうとしても動かない、時ちゃんが上に乗ってるから、重くて起き上がれないんだ。

「ぷはっちょっと、やめてよっ」

 だから口で注意するけど、それに反抗するように頬には時ちゃんの舌が這う感触。

「チューしたくないの? 私とすればきっと気持ちいいよ? んっ……」

 時ちゃんの舌は、私のがっちり閉じる口元をべろべろに濡らす。

 今の時ちゃんはすごい興奮してて危険すぎる。

 ダメだよこんなこと……おかしいよ。口を開いてそう言いたい。

「そういう赤い顔のこうちゃんもかわいいよ、はやくディープしよ」

 恥ずかしいから言いたくないけど、キスは普通好きな人とするものだ。

 だから、私は、

「時ちゃんとそういうことしたくないよ……!」

 涙がまた溢れてきた。なんでか分からないけど、きっと私は時ちゃんを怖いと感じてるんだよね。

「でもしたいんでしょ? いっつも私と一緒にいるし、私でえっちな妄想してるノートが証拠だもん」

「してない……!」こんなの建前みたいな本音に聞こえてしまう。

 やばい、いつまでもこうしてるとこっちが不利だ。なぜなら時ちゃんが上で私が下だからだ。持久戦になったらいつか力尽きるのは私の方で、そうなったら私は時ちゃんに唇どころか大事な――


 どんどんっ!


 扉を叩く音がした。その音は力強く、乱暴で恐怖を感じるリズムだった。

 私も時ちゃんもびっくりして動きを止めた。お母さんの声が聞こえる。

「二人ともいるわよね?」

「はーい」時ちゃんが平静を装って返した。それはとても素晴らしい演技でさっきまでのえっちな行動が嘘みたいだ。

 私はというと今は声を出したくなくて、静かに黙っていた。

「お母さんちょっとお父さんの職場に行ってくるわね、お昼ご飯と晩ご飯の分のお金置いていくから出前でもとってお留守番してなさい」

「はーい」時ちゃんが私の声と似せて返した。それはとても私みたいで自分が二人になった気がした。

 早口で言うとお母さんは急いでるのか階段を駆け下りて行った。私はその隙を突いて、時ちゃんを振りほどき密着した体を離して距離をとった。お外からエンジンの音が鳴って私たちを置いていったんだ。時ちゃんはこちらを見て、やっと状況を把握したのか驚く顔をする。

 立ちつくす私は、目頭からまだまだあふれ出す涙を抑えるのに必死だった。溢れてくる理由が分からないうちは、ずっと止められない気がする。

 それから、泣きじゃくる私の前で、時ちゃんが何度も謝り頭を下げる。

「ごめんこーちゃん、わたしなんか変だったよね……謝るから、なんでもするから……嫌いにならないで……」

「……時ちゃんのばか」

 その直後に、ぐぅ~と腹の虫が鳴きだした。それは私のお腹から鳴った。

 そういえば朝ごはんも食べてない。時計を見るともう午後になりそうだった。

 お風呂にでも入ろうと思ったけど、時ちゃんが一緒に入ってきそうだから、仕方なく水で濡らしたタオルで体を拭いた。

 その間に、時ちゃんが出前のチラシをどこからかかき集めて、いっぱい持ってきた。

「こーちゃんは何食べたい?」

「……何って、時ちゃんがごちそうしてくれるの?」そんな償いで許されると思ってるのだろうか。

「違うよ。お母さまが諭吉さんを置いていったからこれでいっぱい食べるんだ」

 そういえばそんなことを言ってた気がする。時ちゃんがぴらぴらと一万円札を風に泳がして遊んでいる。

 ていうか、それ私のお金だよね。そのお札を奪って、私の長いお財布にしまい込む。時ちゃんが持ってると無くしそうで怖い。

「いいよ、いますぐなんか食べるから」

 冷蔵庫にあるサラダとか漬物を取り出して、とりあえず食べる。ものすごくお腹が空いてたんだ、出前も待ってられないってくらい。

「えーとね、じゃあお寿司頼もうよ、その諭吉さんがあればなにを頼んでもお釣りがくるんだよ」

 たしかにこれならごちそう以上の特上のごちそうを頼むことだってできるだろう。一万円札を置いていったお母さんもなかなかの太っ腹だ。

「それじゃあ街にいこうかな」

「街に? なんで?」

「ひさしぶりに街に遊びに行くって言ってるの」今日はそういう考えだったんだ。

「え……まって、えと、それって私も一緒についていっていいんだよね?」

「……ついてきたいなら来ればいいじゃない」

 ついてこないでって言っても時ちゃんはついてくるんでしょ?

 私の提案を聞いた時ちゃんは、えへへーと嬉しそうに騒ぎ出して、あれこれなにするか予想してたけどそれを実現する予定は私にはこれっぽちもない。

「それじゃあ、いこっ! あ、まってっトイレにっお花摘んでくるねっだいかもっ!」

 時ちゃんが慌ててだだだっとトイレに駆け込む。トイレにお花摘むの? 変なの。

 時ちゃんを待ってる間に、階段を上ってお父さんのお部屋の引き戸を開こうとする、開かない。

「鍵かかってる……」

 お部屋の中が気になったけど、入れなかった。お父さんとお母さんの寝室はどうなってるんだろ。そこも鍵がかかっていた。

 お腹をさすると、そこにはまだ日記帳があって、また隠しても時ちゃんが見つけそうだから私が管理することに決めた。

 お花を摘み終わった時ちゃんが私の名前を呼んでいる。もう行かなくちゃ。

 時ちゃんは私の気も知らないで街の方へ向かうんだ。その笑顔に一点の曇りはなく、純粋に私と遊びたいだけなんだ。


 時刻は一時を回ろうとしていて陽が高く、短い影法師が濃く表れる。今日の気温は寒い気はしなくて過ごしやすい。残暑っていうのかな、それとも温暖化?

 我が家にきちんと鍵を掛けてお外へと出る。

 本当は、お母さんにお留守番を頼まれたからそれを守らなくちゃいけないけど、このままお母さんとお父さんの仲が私の知らないところで悪くなっていくのは嫌。

 これから私が向かう場所は街。それは時ちゃんに嘘は言ってない。お父さんの職場は街にあるんだから。

「えへへーこーちゃんとデートデート♪ デトデトのデートだよぉ!」

 同じく、お外に出た時ちゃんはいつも通り変な歌を口ずさんでて、うるさいし恥ずかしいし近所迷惑だ。ていうかデトデトってなに?

「時ちゃん、デートってなに?」

「好きな人とイチャイチャしながら遊ぶこと? あ、最後はキスしてお持ち帰りなんだよ」

 うーん、その解答は変かな? 私だったら好きな人と一緒にいられたら、それだけでデートだと思う。特別なんだと感じる。

 お父さんとお母さんが我が家にいて他愛ないお話をして、そこに私がいたらもっと幸せなデートだと思うの。

「私はね、幸せでいられる時間のことだと思う」

「私もそういう感じ! こーちゃんと私でいっぱい思い出つくろうね!」

 素敵なデトデトデートにしよ! と時ちゃんは頭を揺らして口ずさみながら、先を歩いていてしまう。その道は通学路。

 このまま、時ちゃんが勘違いして勝手にどこかに行くのであればそれで構わないけど、私はその揺れる背中に声をかける。

「時ちゃん、そっちは学校、駅はこっちだよ」

「…………」なぜか、時ちゃんが立ち止まってしまう。

「時ちゃん?」

「……あの人は……」

 さらに声をかけると、時ちゃんは通学路の道の先を見つめながら小さく呟いた。聞こえてないのかな。

 戻ってきて、何も言わずに私の体に抱きついてくる。どうせ寒いから私をホッカイロ代わりにしようと思ってるはずだけど、その動作が突然すぎて強引だ。

 さらに、私の体を押して我が家の門前へと押し返してくる。

「なに?」

「お外は危ないよ、お家に戻ろ、お願い、聞いて」

 お家に戻ろうって言ってきた。早口でそう言うと、今度は私のポケットをまさぐって鍵を奪いだした。その手つきは慣れたもので、泥棒みたいだ。

「ちょっと返してよ、時ちゃん聞いてる? 急にどうしたの?」

 聞く耳を持ってないのか、我が家の鍵を開けて私を無理やり中に帰す。

 我が家に入っても時ちゃんは慌ただしく、私を座らせて靴を脱がせにくる。

「な、やめてよ時ちゃん、街にいきたくないの?」

 そう言って、やっと時ちゃんは動きを止めた。顔の距離を近づけて口を高速で動かす。

「お願い、聞いて、今日はお家で遊ぼ? こーちゃんのしたいことしてあげるから、なんならえっちなことでもなんでもいいんだよ?」

 えっちなことはもうしたくないよ。そんなことより、時ちゃんの様子が変だ。顔にはいつもみたいな能天気で明るい感じがなくなっていて、目には生気がない。出た言葉は命令みたいで、それを聞き入れてくれないと怖い目にあいそうで怖い。

 私は時ちゃんのお願いをやっと頭の中で理解して、どう答えるか考える。

「……お家で遊ぶのはもう飽きたの、だから街に遊びにいくんだよ?」

「それだけ?」

 そう聞かれたら嘘になる。ホントは、本当の目的地はお父さんの職場だ。そこでお母さんとお父さんに会いに行くんだ。別に時ちゃんがいたって構わない。むしろ、時ちゃんがいてくれたらお父さんが注意してくれる気がするんだ。そのはずなんだ。

「そ、それだけだよ」それを実現したくて、嘘をついた。

 それを聞いた時ちゃんは私の肩を掴んで、腰に乗って、

「……こーちゃんは、どうしても、どうしても街に行きたいの? どうしても? ……どうしても? どうしてもなの?」

 どうしてもどうしても? と何度も壊れたように聞き返してくる。そのたびに体が揺れる。

 時ちゃんは何がしたいの? 私のことを好きだというのならこんなことなんでするの? そんなに私をお家に閉じこめておきたいの?

「ど、どうしてもだよ」私がそう言うと時ちゃんは口を止めた。「それに時ちゃんだって私と街を歩きたいんでしょ? もう我慢できなくて仕方ないんでしょ? さっきだってあんなにはしゃいじゃってさ……!」

 ベットの上で私とキスをした時ちゃん。デトデト口ずさんでた時ちゃん。どの時ちゃんもバカみたいだった。私は震えながらもそれをきちんと口にだした。

「……いいよ、じゃ、いこ、私も、こーちゃんとデートしたいし……」

 そうして私を我が家に閉じ込めるのは諦めたのか、時ちゃんが私の脇に手を入れて抱き起こして立たせる。

「でもお外を出たら精一杯走ってね、じゃないとね……」

「……え?」時ちゃんが小さく耳元で呟いてくる。


「……殺されちゃうから」


「殺される? って……?」

 私の質問に対し、時ちゃんは何も言わずに息を吐き出して気持ちを落ち着かせているようだった。聞き間違えたのかもしれない、また勝手に私の知らないゲームのお話をしているのかもしれない。

 我が家の玄関からちょこっと顔を出す時ちゃん。誰かを探しているようで、誰もいないことを確認すると、手と手を強く繋いだ私を引っ張りだすようにお外へ出た。門前を過ぎ、道へ出ると電柱からぬっと急に知らない人が出てきた。うまく隠れてたみたいで全然分からなかった。

「お嬢ちゃん、そんなに慌てて走ったら危ないよ」

 その知らない人は角刈りをしてるから男の人みたいで、真っ黒な皮のジャンバーなんかを着ているから不良のような恰好をしている。陽気な声で親しげに話しかけながらも、こちらを通せんぼするように眼前に立ち塞がる。

「このお家の子供かな? ちょっと聞きたいことがあるんだけど――」

 時ちゃんは知らない男の人のお話を無視して逆の道、通学路へと方向転換する。だけど、その道の先にも知らない人がいた。でも、その人は知らない人だけど知っている人だ。正しくは、昨日時ちゃんがぶつかった女の人。やっぱり立ちふさがるようにこちらを通せんぼする様子。

「つっこむよ、こーちゃん! しっかりついてきてよねっ」

 私が無理という返事をする暇もなく、時ちゃんが足の回転を上げる。掴まれた私の手、さらには体全体が前のめりになって、急な速度で前進する。時ちゃんが引っ張るから私もついていくしかない。

 女の人は猛突進する時ちゃんに怖気ついてしまったのか腰を引いて後ずさる。その隙を時ちゃんは見逃さず、女の人にわざとぶつかる。ぶつかるとはいっても全身全霊を籠めた前のめりのタックルじゃなくて、横を駆け抜ける際にぶつけるラリアットみたいに速度を殺さず押し倒した。

 今度は女の人だけ倒れて、時ちゃんはそのまま通り抜けていく。私の手を引いて通学路の先を走っていく。

「最悪っ! 早く捕まえてっ!」

 女の人がヒステリックな高い声を上げた。それを遂行するように、今度は知らない男の人が容赦ない大人の走りで、私と時ちゃんの距離を縮めにくる。このままだと、追いつかれてしまうのは明白だった。

「時ちゃん! 早く! 早くしてよ!」

 怖い怖い怖い! 

 後ろを見ながら走っていた私だけど、時ちゃんは一心不乱に前を見て走っていた。たぶん、私もそうすればよかったんだ。でも目なんか離せないよ。知らない男の人の顔が鬼みたいに恐ろしい顔つきで、まるでドクターエリリィの絵本に出てきた旅の男のようだった。

 知らない男の人の大きな手が触れそうな距離になった時、その動きがピタリと止まった。同時に、時ちゃんの走る速度も落ちていることに気づく。

「それ以上近づいたら撃ちます、手を挙げて大人しくしてください」

 走る速度は遅くなっていってやがて立ち止り、私は膝に手を置いて、必死に息を整えながら状況を確認する。薄くしか開かない視界には知らない男の人がいて、時ちゃんに何度も目を配る。

「おいおい、本物か?」

 知らない男の人はだいぶビビった様子で時ちゃんを見つめている。正確にはその手にもっている黒光りする無機質な機械。

「じゅ……じゅう……!? でもそれっ……て」

 その機械は時ちゃんがゲームで使っていたゲームのコントローラー、本物の銃じゃなくてエアガンみたいなおもちゃだ。

 知らない男の人が首を傾げながらも、口を笑わせながらゆっくり近づいてくる。やっぱり偽物だってわかってるんだ。本物の銃なんかがあるわけない。少なくとも私は手にしたことも見たこともないし、所持すること自体この国では法律違反で――

 バンッ――――――――!

 突然大きな音が鳴った。それがどこから鳴ったのかも定かではない。私の耳が壊れたように何も聞こえなくなる。目もくらくらして気を失いそうだった。

 だけどかろうじて分かるのは、時ちゃんが倒れる私の肩を持って支えてくれていること。それと、赤色がいっぱいのなにか……よく見えなくてわかんない。

「撃つってちゃんと言いましたよね……ごめんなさい……」

 時ちゃんが謝るなんて珍しい。

 その言葉を聞いて、私は気を失ってしまった。


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