第12話

 壁に細い亀裂が入っていて、人一人がやっと通れるほどの道になっていた。追いかけてきた異形は床に這いつくばって亀裂の中に腕を突っ込んできたが、二人はその腕より先に亀裂を抜け外へ出る事ができた。


「無事だね」


 しゃがれた声を追ってそちらを見ると、白髪を長く地に垂らした老婆が二人をじっと見ていた。日本語をしゃべる人間だった。けれどその目には何の感情も浮かんではいない。依子はいけすの中で飢えている魚を連想した。


「誰?」


 雷三の問いに老婆は答えず、剥き出しの灰色の地面にぺたりと座りこんだ。嫌な臭いのする場所だった。じめじめと湿った石の壁、地面にはあちらこちらに水たまりができている。上を見上げると天井には穴があき、表通りの明かりが漏れ入ってきていた。


「何日食べてない?」


 老婆の問いに依子も雷三も驚き、とっさに答えが口から出なかった。


「飢えてないならやらないよ」


 そう言うと老婆は疲れ果てたという風情で床に寝そべった。老婆は薄い布一枚羽織っているだけで防寒用の布は無い。依子は黒い布を外してみた。なぜかここは寒くなかった。雷三は老婆に近づくとその髪を引っ張った。老婆はうるさそうに雷三の手を払った。


「これ、本物の髪の毛?」


 老婆は雷三を無視すると寝返りを打ち寝息をたてはじめた。依子と雷三は困った顔を見合わせたが、今夜は老婆のそばに居させてもらうことにした。


 突然明るくなるのはここでも同じだった。ただ、上空を覆う天井が光を遮り、夕暮れ時の用な薄暗さだった。二人が目を覚ました時には老婆はすでに起き上がっていて、何やら茶色い細長いものをバリバリと音をたてて食べていた。


「おはようございます」


 依子の挨拶に返事はない。


「昨日はありがとう」


 雷三の礼にも返事はない。老婆は二人の上に視線を置いてはいるが、二人を見ているのかどうかはわからなかった。もしかしたらただぼんやりと昔のことを思い出していたのかもしれない。

 老婆は食べ終わると指を舐めて立ち上がり、壁をペロペロと舐めだした。


「あの……、何をしているの?」


 依子の問いにも返事はない。雷三が老婆の真似をして壁を舐めた。


「依子、これ水だ。飲めるよ」


 依子は壁を撫で、指を口に入れてみた。言われたとおり、それは飲み慣れた水だった。二、三度指を舐めただけで依子の渇きは治まった。老婆は壁を舐めるのをやめると、昨夜と同じ場所に無造作に寝転んだ。


「ねえ、ねえって。起きてよ。教えてよ」


 老婆は半身を起こすと、雷三の方に向き直った。


「あなたの名前は? ここはどこ? さっき何を食べてたの? 俺たち家に帰りたいんだ、あなたは……」


 老婆は雷三に手を振って見せ黙らせた。


「……喋るのは何十年かぶりなんだ。つかれるよ」


 そう言うと老婆は自分の顎をさすった。


「ここは飯屋の裏。かまどの熱で暖かいし水もある。エサもたまには手に入る」


 そう言うと大きなため息をつく。


「食べていたのは虫。飯屋のやつが捕まえたのを捨てにくる」


 虫を食べていたと聞いた依子が身震いした。


「家になんか帰れない。あぶなくて外へも行けない」


 だるそうにそれだけを話してしまうと老婆はまた横になった。


「……私は依子、この子は雷三です。あの、……あなたの名前は?」


 老婆は寝そべったまま答えた。


「わすれたよ」


 何十年もここにいて、だれからも名前を呼ばれずに寝ているだけの毎日を送ってきたらしい老婆。二人は顔を見合わせたが老婆にかける言葉を見つけられなかった。その日一日、二人は老婆のそばに座り続けたが、老婆はピクリとも体を動かさなかった。

 暗くなり、依子と雷三は入ってきた壁の亀裂に向かって歩き出した。


「おばあさん、俺たち行くけど……」


 老婆はむくりと起き上がると雷三をにらんだ。


「だれがおばあさんだ。あたしは……」


 強く言葉を発した老婆だったが、自分の顔にかかる白髪をそっと握ると黙りこんだ。


「おばあさん?」


「あたしは……、いつの間にこんなに年をとって……」


 老婆は自分の髪を握りしめる。


「お前たちが……」


 顔を上げ依子と雷三をにらみ付ける。


「お前たちが来なければ……、あたしは……年寄りだなんて知らずに……」


 依子は口を開こうとした。けれどやはり老婆にかけるべき言葉は思い浮かばない。


「でていけ」


 低く呪うように老婆がつぶやき、依子と雷三はそっと亀裂の中へ消えていった。

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