捌の戦 ≪ 隷属する男 ㊦

 




■ 狂犬グループの下層構成員

  冨永とみなが 理人まさと ── 続ける





 顔面の焼けるような痛み、そして股間の煮えるような痛みに喘ぎ、長らく悪夢にうなされた後、ようやく冨永理人は目醒めた。


 射すわけでなく、漂っているという程度の白陽がやけにまぶしい。それもそのはず、彼の横たわるプリンセスシェーンベッドは窓辺に配置してある。彼自身が配置した。いくつかのパーツに分解し、担ぎ、落としそうになりながらも耐え、乳酸とともにこの別棟4階まで搬入した。


 隷属の大地に、今度は安らかな転た寝を決めこんでいる。



 ⇒ 同日 ── 11:XX

   東京都豊島区南池袋

   陽向ケ原高等学校の美術室にて



「醒めたか」


 かすれた大正琴が足もとから聞こえた。慌てて起きあがろうとするも、


「痛づ!」


 縛られたように起きあがれない。痛みに消耗している。


「寝ておれ。寝て、回復に専心せよ」


 首だけを起こして見ると、部屋の中央、テーブルに深く頬杖をつき、左手には煙草を携え、奥貫晶杯おくぬきあつきがぼうと窓の外を眺めていた。なにを考えているのかは相変わらず判然としないが、その横顔には、どことなし疲弊した女のシャドウがかかって見える。鞭を振るっている時の動的な妖艶さもさることながら、ああして草臥くたびれているように弛緩する姿にもまた、ぞくりとさせる色気がある。


「まったく。運ぶのが手間であったわ」


 風の噂では、父も母もない女であるのだそう。祖母もまた生まれる前になく、祖父だけが唯一の家族だが、セレブリティとして世界を股にかける快濶な男だそうで、つまり、誰の寵愛をも受けることなく今に至るのだという。


 可哀想な女なのかも知れない。そして、冨永の隷属心は、ゆえなる同情のトランスフォームした姿なのかも知れない。


 正体の見えない、謎の同情。


「また運ばせる気か?」


「いえ」


 女には向かないゴロワーズの紫煙を肺臓におさめる女である。もう少しだけ、彼女と、彼女ありきの自分を見定める必要がある。そんな気がする。


 先ほどとは打って変わった静寂。外から微かな蝉時雨の匂ってくる静寂であり、もっと微かな飛行機の音が震えている静寂である。


 無力をかせる煉獄の残暑ながらも、今日はやけに涼しい。いや、あるいは、先の戯れがあまりにも暑苦しく過ぎたばかりに、そう感じているのかも知れない。あるいは、腎虚じんきょのもたらした急速なる老いゆえにか。


 痛みを抱えつつも確かに安らぐ、この時。


 左頬を軽く撫でてみる。傷は絆創膏のようなもので応急的に接合され、その上をガーゼで保護してあるようだった。間違いなく奥貫の施した処置である。サディストならではのお手入れに過ぎないのかも知れないが、冨永にとってはかけがえのない優しさであると言えた。


 試しに、舌で患部に触れてみる。やはり、皮膚を上下に分かつ亀裂クラックが走っている。優れた応急処置の賜物か、止血効果は目を見張るものではあるが、じわりと鉄の味が染み出してくる。と同時に、その確認作業が、彼女のかけがえのない優しさを裏切る愚行に思え、とっさに舌を引っこめた。


 ふ。


 紫煙を吐く音が室内に漂う。


 こちこちこちこち──掛け時計の刻む音。


 しわしわしわしわ──微かな蝉時雨。


 飛行機は……もうどこかへ消えた。


 空気が、午睡のように気怠く滞っている。もしや、本当に時代の流れが止まり、冨永もまた部屋を埋めるシャビーな静寂のひとつへとメタモルフォーゼしてしまったのかも知れない。つがいのビスクドール、その片割れへと。


 今や、結合を望むばかりの一過性の欲情はナリを潜め、互いを意識しあうままに共存していたいと祈る熱情が全身を占めている。そうすることこそが、なににも勝るオルガスムであるかのように思えてならない。


 彼女の説いた「愛撫」とは、これか。


 わからず屋の奴隷に、彼女は、力尽くで恍惚の真理を教えたのかも知れない。


 ならば、


「晶杯様」


 彼女こそ、奉仕するに値する女である。


「私は晶杯様に」


 今こそ、忠誠を誓うに値する時である。


「永遠の……」


 永遠の忠誠を。


 その時だった。


 らんッ。


 勢いよく引き戸の開く音がした。静寂を斬るほどの轟音に聞こえ、冨永は、発作的に音のしたほうを振り向く。


 開いたのは部屋の後方の引き戸だった。完全に開け放たれ、ひなびた廊下があらわれている。


「失礼いたします」


 立っていたのは、巨大な女だった。背が高く、首、肩、腕、胸、腰、尻、脚──すべてが太く隆起している女である。水泳選手かアマレス選手をほうふつさせる締まった実戦体型の女であり、ブレザースカートを穿いていなければ性別さえも疑われるだろう女である。いや、穿いていても疑われるかも知れない、それほどに雄雄しい女である。


「奥貫先輩が当所におられると聞き、恐れながらもうかがいました。2年1組、名は百目鬼歌帆です」


 しかし、顔立ちはまさに女である。眉と目尻は勾配をあげて尖り、鼻は高くそびえ、口角は広く、犬歯が氷柱のようにさがっている。狼のような人相をしているが、そこはかとなく雅な雰囲気にも満ちている。一般論ながら、男ではこうはいかない。


「奥貫晶杯先輩はいらっしゃいますか?」


「さてな。どうじゃろ?」


 相変わらず窓の外へと視線を馳せたまま、紫煙を棚引かせながら奥貫が白を切る。


「して、奥貫センパイと会い、百目鬼とやらはなにをするつもりなのじゃ?」


 か細くも、確かな上から目線で質問。


 すると狼女、


「お尋ねしたいことがあるのです」


 腹式呼吸のまっとうされる、アルトサックスのような声を渡らせる。張力を感じさせる、逞しい声である。


「もしやご存知かと思い」


「はっきりと申せ。人探しじゃろう?」


「あなたが奥貫先輩で?」


寄居よりい某を蹂躙じゅうりんした真犯人じゃろう?」


 わずかに首を振り返らせ、ぎろ、切れ長の瞳を座らせて奥貫が睨んだ。


「大隣を当たり、鞍馬くらまを当たり、巣南すなみから鬼束おにつかへと当たってみたが不運にも出会えず、よってホウホウのテイで奥貫を当たってみたと、そういう経緯でよいかな?」


「ホウホウのテイとなるにはいまだ余力に満ちておりますが、おおむねそのような経緯と踏んでいただいて構いません」


 飄飄と宣う女に、奥貫はわずかに口角をたわめて「ふ」と笑った。


「正直者じゃな」


「仰有るとおり、先日の寄居氏襲撃事件の犯人を追っています。彼の上司格に当たる人物であるならば事件の始終を把握しているかと連想し、こうして──」


「犯人を追いつめてどうするのじゃ?」


「傷めます」


 即答に、再び鼻で笑う奥貫。


「行動がいちいち覿面てきめんじゃな」


 すると狼女、まるで論文でも読むかのように腹式を固める。


「人が人であるためのあらゆる権利を剥奪するところに我が殺法の核心が存在するためであります。このひとつに限り、己が人道を破棄し、鬼人と化して始末せんと望まれます。敵に忖度する姿勢は唾棄すべき不合理の愚挙であるとして」


「勝手なものじゃな。法律はどうなる?」


「我が殺法は治外法権の懐中です。むろん、我らの定める善の者と相対しては、法令恪守にて接することこそ無類の良しとされますが」


「悪人と判ずれば国の外にて葬る──か。傲岸不遜な価値観であるとは思わぬか?」


 もっともな意見に、しかし、狼女は一転、底意地の悪そうな微笑を浮かべ、


「殺法家に道徳モラルを説きますか?」


 ゆっくりと黒衣の女を挑発。


 対する彼女も慣れたもので、ぅはッ──いつもの笑声で語尾を遮る。


「大した開きなおりじゃな。イスラム原理主義の過激派よりも開きが広い」


「一部は私の生徒です」


「彼らは善であると?」


「日本人の信ずる善ではないでしょう。同時に、彼らの信ずる善ではあるでしょう。さて、いったいどのようにして決着をつけましょうか?」


 そこで、しばしの間があいた。


 蝉時雨が蘇る。


 痛みを伴う真空。


 から。ドクターチェアを引き、やおらに奥貫が立ちあがる。すでにフィルターだけとなっている煙草を灰皿に突き刺すと、低いトーンで呟いた。


「お主の祖父、百目鬼榮舟どうめきえいしゅうは、かつて極右の暗殺者ヒットマンとして時の内閣総理大臣を襲撃し、深手を負わせて逮捕、服役に至るも、有する古武術の潜在的な国家防衛技能を期待され、服役からわずか半年後、民間の預かり知らぬ暗暗裏に出所するという特赦を得ていたのだったかな。ふん。治外法権というのも、なるほど方便ではなさそうじゃ」


 それから完全に振り返り、


「多数決に乗じることが唯一の防衛手段である一般市民は口口に悪とわめいて炎上行為に励むじゃろうが、信をもってツイートせぬ秘めるが花の忍者にとって、それは痛くも痒くもないお話というわけか。どうして新鮮なエナジーに満ちておるわ」


 夜会巻きをつるりと撫で、両手をそっと丹田たんでんに組むと、


「そもそも、お主の定める悪人と相対しては鬼人と化す……だったか。積極的に鬼にならんとする者に向け、どれほど一般市民が悪と罵ろうが、むしろ誉め言葉となって鼓舞させるのみよのぅ」


 愉快そうに、高らかに許容した。


「入れ、百目鬼よ。わらわが奥貫晶杯じゃ」


 ほ──。


 言葉による応酬が凄惨な事件を召喚することはなく、むしろ呆気なく入室許可となった展開に、冨永は安堵のような吐息を漏らしていた。


 この百目鬼歌帆という女、思いがけずも弁の立つ人物である様子。しかも、人道を捨て、鬼になることもできると明言する女である。正義を振りかざし、正論を振りかざす者など足もとにも及ばない、論破の難しい厄介な相手である。ならば、奥貫がイニシアティブを握られる可能性も否めない。万が一であるとはいえ、劣勢に立たされる彼女など見たくもないのである。


 しかし、そこは百戦錬磨の奥貫だった。正義や正論で対応して聖戦ジハードの泥沼にハマることを避け、あえて退き、懐中ふところへと招き入れることで自分の優位的立場を守った。


「いくつか質問してもよいか?」


 再びドクターチェアに腰をおろし、長い脚を組み、右手の薬指でくいと眼鏡を押しあげてから彼女は問うた。対する百目鬼、敷居を跨いで入室し、次いで半身の姿勢となり、静かに戸を閉めてからこちらを向く。


「なんなりと」


 胸を張り、両腕をだらりとさげたまま、余裕綽綽に応える。


「お主、手入らずか?」


 ぎょッとするような質問にも、


「手入らずです」


 即答。


「そのわりには、背後から男の陰部を掌握し、はたまた男に下着姿を見せつけることには躊躇がないようじゃが、羞恥の感情は湧かぬのか?」


「急所を叩くことや武器使用を恥じては武道家の恥です」


「なるほど。教育の賜物か。喧嘩の際の言葉づかいに関しても同様のようじゃな。じゃが、いざ恋人と裸で向きあった時、その教育が興奮の枷とはなるまいか?」


「さて。恋人がいたことがありませんで予測の範疇は出ませんが、そこはやはり捉え方の問題ではないか……と」


「うまくいけばよいがのぅ」


「着床を体内に想起すれば、自ずと色づいてくれるものと期待します」


 そこで奥貫は「ふむ」と小鼻を鳴らして頷くと、グランドピアノを見て沈黙。


 相変わらずの姿勢で、百目鬼も黙する。


 ぴゅいぴゅいぴゅい──遠くでひよどり長閑のどかに鳴いている。


「今……」


 その、わずかな沈黙を破って奥貫、


「恋慕している者はおるのか?」


 右の小指で旋毛つむじを掻きながら尋ねる。いくつか質問をと口にしてみたはいいが、思いがけず質問事項が見つからなかった、そんな、取り繕ったかのような口振り。


 すると百目鬼、せっかくの質問に対し、


「おりません」


 やはり即答。已むなく、


「おらぬ理由はなんじゃ?」


 奥貫が質問を絞り出すも、


「出会っていないだけです」


 間髪を入れずに答えた。


「着床──と先に言ったが、お主は異性愛者じゃな?」


「そのように自覚しています」


「理想の男性像はあるのか?」


「具体事例を録ったことはありませんが、惹かれる理由を統計的に敷いてみれば、あるいは理想と呼べる条件が抽出されるかも知れません」


 ややこしい説明をする女である。


「ふむ。つまり理想とする男の条件まで考えてみた試しはないわけじゃな?」


「そのように記憶しています」


「お主は、どのような男に惹かれる?」


「これまでの経験上から推察される統計的見地でしょうか?」


「むろんじゃ」


 すると百目鬼、ようやく即答を中断し、白よりも割合の少ない黒目を右上にあげて考えた。オセロで言えば負けが込んでいる状態だが、途方もない切り札を隠していそうな、余力のありそうな長考である。


 おえぇい!──対面の本館から太い男の歓声が聞こえてきた。おおかた、バカ野郎どものタイマン騒ぎが始まったのだろう。正午を目前に控え、ヒナ高にもようやくいつもの日常が訪れているらしい。


「強く……」


 バカ学校の日常にはさしたる関心もない様子の百目鬼、


「強くあろうと努力する男性でしょうか」


 一転、なんとも抽象的な返答。


「それは、喧嘩の強さか?」


「いえ。精神論のほうで構いません」


「強さとはなんじゃ?」


「その人の思う強さであるのならば特にプロポーションは問いません」


「ならば喧嘩の強さでもよいのじゃな?」


 ところが、百目鬼は即答しなかった。黒目を右上にすると再びの長考。そして慎重に言葉を選んだ。


「喧嘩でも構いませんが、もしも物理的闘争であるのならば、願わくば、私の腑に落ちる参考基準であってほしいものです」


「というと?」


「なにぶん、私は古武道一門の生まれでありまして。例えば、しばしばヒナ高で垣間見られるような、いわゆる喧嘩という分野に強さを見出だそうとするぐらいであれば、いっそのこと五輪レベルの闘争のほうに見出だしていただきたく思います」


「武道家であるがゆえに、いわゆる喧嘩ごときに専心されても応援の甲斐がないと?」


「ゴトキとは申しませんが、浪漫の問題とでも言いましょうか、スケールが大きいに越したことはありません」


「喧嘩のイチバンでは物足りないと?」


 いつの間にか攻守交替していた対話に、結局は──と言ってから少し言い淀むも、払拭するようにして百目鬼は継いだ。


「結局は心意気の話ですので、まぁ、喧嘩でも構いません。ただ、この場合……」


「手放しのモチベーションとはならぬというわけか?」


「なんらかの技術指導の介入は覚悟していただく必要があるやも知れません」


「いずれにせよ、応援や協力はさせていただく──というわけじゃな?」


「もちろんです」


 精神論は手放しで応援するが、技術論は黙っていられない。それこそ、トップを決めるための決定的条件に乏しい喧嘩の世界であるのならばなおさらのこと──というわけか。


 おえぇい!──なるほど、ヒナ高の頂点に立ったところで世界の覇者になったわけではない。どうせ志すのならばもっと上を見てほしいと考える気持ちは、まぁ、わからないわけではない。


 やはり正直者じゃな──と笑みを浮かべ、奥貫は鼻を掻いた。


「外見は問わなさそうじゃ」


「外見ですか?」


「お主の恋慕を誘う外見的特徴の統計よ」


「怠けた体型は気に入りませんが」


「強さへの飽くなき努力に値するのならば、肥えていてもよいと?」


「力士が好例です」


「なるほどのぅ。それ以外の一般的美醜についてはまったく興味がなさそうじゃ」


 愉快そうに言い、振り返って奥貫、久し振りに冨永を見た。


「百目鬼よ。この男を知っておるか?」


 眼鏡の奥、肝の座る瞳には、なにやら、優しくも易しくはない輝きが宿っている。


「同学年じゃろ?」


「お顔は存じておりますが、失礼ながら、お名前までは」


「トミナガマサトという。よい男じゃ」


 うっとりと、思いがけず誉められ、彼はにわかにきあがった。


 はぁ、よい男ですか──と、言葉に窮したように百目鬼は言う。


「なぜ全裸なのかはわかりませんが、この、冨永さんの様子が奥貫先輩の思想に寄り添うものであるのならば、あるいは、よい男なのかも知れませんね。ただ……」


「ただ?」


 奥貫でなく、冨永のほうが問うていた。


 はだけた毛布からこぼれる肢体を隠しもせず、逆に身を乗り出して襲いかからんとするような彼を凝視して、女は続ける。


「よいはよいでも、奥貫先輩にとって都合のよい男に見えなくもありません」


「ぅッひゃはは!」


 即座に哄笑したのは奥貫である。


「なるほど。都合か。しかし、それはお互い様なのじゃよ。お主には計り知れぬ世界じゃろうがな、持ちつ持たれつの末にあるのがこの喪服と全裸の関係なのじゃ。SMはもはやただのアングラカルチャーではない、れっきとしたコミュニケーション。鞭や手錠がモバイルフォンと同水準の日常的ツールであるのならば、全裸もまた日常的作法のうちに数えられようぞ」


 そして立ちあがり、つかつかとこちらに歩を進めると、無造作に毛布を捲った。


 7分まで隆起した局部が露に。


「コレもまた日常的作法」


 しかし冨永は隠さない。奥貫により、百目鬼に披露するよう暗に促されていると知っているからである。あるいは、そのように教育されているからである。


「ちなみに、彼は先ほど13回も種を放出した。内の12回はそこ、妾の掌によって噴いたのじゃ」


 自慢気にのたまうと、奥貫は、百目鬼のすぐ目前の床を顎で示した。視線を落とせば、一部がわずかにテカっている。


「このコミュニケーション、しかし特段に目を見張ることでもなく、地上の日常に存在する確かなことじゃ。決して儀式なぞではないと知るがよい」


 すると、百目鬼は冨永の陰部と放出現場とを黒目で往復し、やはり市販の鞭が存在したのですね──意味のわからないことをぽつりと漏らすと、


「ええ。確かに、SMは、私の聞き及ぶ性文化であります」


 明らかに狼狽しながら続けた。


「崇高なものであると、耳にしたことも」


 とはいえ、それは冨永の局部に対しての狼狽ではなく、SMという計り知れない分野を見せつけられたことに対する狼狽のようである。


「持ちつ持たれつ──解釈もできます」


 事実、恥じることなく百目鬼は、冨永の隆起する局部を凝視している。武道教育の賜物なのか、どうやら見慣れてはいるらしい。


「否定する権利など、私には……」


「例えば」


 そんな彼女を凝視したまま語尾を遮り、不意に奥貫は、ますます硬くなりゆく冨永をキツく掌握。


 彼は動じなかった。むしろ見せつけてやりたい衝動にすでに駆られていた。


「仮に、お主の愛する男がSMの分野に強さを見出だし、そのための試練として、お主にマゾヒスティックな精神を持ってほしいとオーダーしたとして──」


 その衝動を受信したのか、奥貫は、さも頼もしそうに掌握を上下し始める。


「百目鬼よ、お主、応援できるか?」


 上下されるごとに、しくしくと、待針で刺されたような痛みが下腹部を襲う。特に「会陰えいん」と呼ばれるツボが絶叫。


「特別な儀式でなく、持ちつ持たれつの社会性が必要とされる普遍のコミュニケーションなるぞ? お主、手放しで応援し、果ては協力することができるのじゃな?」


 もう、1滴も出ない。


「その人の思う強さであるのならばプロポーションは問わぬのじゃったかな? 否定する権利はないとも明言したぞ?」


 出ないのに、鬱血している。


「この男のように、愛する相手に生殖器を捧げる所存なのじゃな? 13回もの絶頂で応じ、大地に液を滴らせるも覚悟の上なのじゃな?」


 奥貫が質し終えるや否や、


「あぁぅおぁ!」


 ぴ──透明な水滴が1粒、突端から噴き出た。


 激痛が襲う。裂傷の痛みである。


 それでもなお冨永は、衝動と、暗なる言いつけに従い、充血する瞳を敵に向けていた。


 怯えた顔が、そこにはあった。


 まっ赤になった突端と純白のマットにくすむ1点──怖気づいた視線を交互に往復させている。彼女の半生を築きあげたパラダイムの海に、彼女自身が溺れているのがわかる。


「斯様に、生殖にくみする運動とは、仮に戯れであったとしても必ずや痛みを伴うもの」


 大正琴は謡い、そして、ちぅ──突端を唇で塞ぐと、噴出しきれなかった残りの液体をすべて口内へと啜りあげた。


 舌で丹念に味わい、こくりと飲みこむ。


「快楽なぞ一過性のシグナルよ。死に近い痛みをなくして次世代への継承は叶わぬ。それが証拠に、自然界を見渡せば、すべての生物は生殖活動を終えて間もなくに生の役目を終えるものじゃ」


 冨永はまだ、百目鬼をめている。


「さしものお主であっても、もしや想像を絶する熾烈の痛みに襲われるやも知れぬ」


 生物の王者のひとつと数えられる狼の顔をした女は、今、奥歯を噛み締めて狼狽に耐えている。


「いや、一過性のシグナルのほうとて、お主の世界観を崩壊させるほど気持ちのよいカタルシスやも知れぬ。確か、お主、手入らずだそうじゃな?」


 立てられる弁が見当たらない様子。


「いまだ出会っておらぬだけで、出会えば惹かれるのやも知れぬしなぁ。惹かれ、性行為の虜囚となるのやも知れぬしなぁ。我慢できぬ肉体となるのやも知れぬしなぁ。さてはて、冷静に応援し、協力することができるかのぅ」


 わずかに黒目が泳ぐ。


「うまくいけばよいがのぅ」


 そう、あの百目鬼歌帆とて、奥貫の──ご主人様の敵ではないのである。


 ざまぁみろと思うのである。


 ちょっと喧嘩が強いというだけで得意になりやがって、なにも知らない無知の輩が都合のよい男だなどと簡単そうにレビューしやがって──冨永の衝動、その源泉はまさに無知への憤怒に他ならない。


 無知とは、初めの悪である。


 悪は、赦すまじ。


『互いの意識があらば、これこそが真の愛撫』


 一対はすでに百目鬼を意識し、百目鬼もまた、ようやく一対を意識している。


 それが証拠に、しわしわしわしわ──まるで永劫のように快い静寂である。


「……なるほど」


 静寂に敗れたのは、やはり百目鬼のほう。


「応援や協力はするのかとの問いに、私はと答えたのでしたね。恋慕する者が自らの嗜癖の追究を望み、そのための試練を私に希求したのであれば、応じなくては愚かな矛盾となりますか」


 仁王立ちの拳を固く握り、噛み締めた。


 相手の嗜癖が犯罪行為だったとしても、己の言動を矛盾させないためならば目も瞑る──冨永の耳にはそんなふうに聞こえた。裏を返せば、それほどの、理性的思考に及ばないほどの狼狽ぶりであるとわかった。


「私は……赤児です」


 ぼそりと呟くと、不意に百目鬼は、逃げるように背中を向けた。


「勉強になりました」


 広い背中が、小さく見える。


「失礼、いたします」


 途中、肩で呼吸をして挨拶を告げると、把手に中指をかけた。


 本来の目的を見失っている。


 狼狽している。


 落胆している。


 絶望している。


 と、引き戸を開けた刹那、しこんッ──百目鬼の左上、サッシに、閃光のように突き刺さるものがあった。銀色の棒状をしており、左右の端は鋭く尖り、中央には指輪を模したようなリングが溶接されてある。


 暗器あんき峨嵋刺がびし


「百目鬼よ。当初の目的がまだ達成されておらぬようじゃが?」


 リングを軸にして、くるくると棒が回転するカラクリを持つ暗器である。握って刺すもよし、放つもよしで、多岐に渡るアイディアが試される。


「寄居某を蹂躙した犯人の件じゃ」


 黒衣の女の、得意な暗器。


 見れば、奥貫は、右手で冨永の陰部を包みつつ、左手を正面に向けて放っていた。


「正直、誰が犯人かは妾も知らぬ。なにせ奔放さが売りの狂犬グループじゃからな。誰がなにを閃くかなぞ、とても知れたものではない」


 多くの男性の理想を束ねているかのように、白く透きとおり、節もなく滑らかな指先。


「ただ、グループはグループじゃ」


 冨永だけの美しい指先。


「妾であり、冨永じゃ」


 やおら、その指先が扇となり、反転し、甲で口もとを隠した。


「して、お主、まだ赤児だそうじゃな?」


 愉快そうである。


「よちよち歩きの赤んぼが、とうてい計り知れぬ未知なる大地を遊山しようとはなぁ」


 痛快そうである。


「ふ。ふ。ふ。うまくいけばよいがのぅ」


 冨永もまた愉快である。痛快である。


「ぅはッ。ぅひひゃははははは!」


 扇で口もとを隠したまま、隠しきれない哄笑を爆発させる黒衣の女。対して、峨嵋刺にはぴくりとも動かず、わずかに顎を振り向かせていた狼女は、大正琴の呵呵大笑が響く中、静かに敷居を跨ぐと、肩を落としたまま無言で退室、ついには消え去った。


 これが、奥貫晶杯という女である。


 無敗の百目鬼を呆気なく打ち負かした絶対の主人を誇らしく思うと同時、冨永は、この誇りが、ころりとした快楽へと変態するのを見逃さなかった。





   【 了 】




 

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