二話 童貞だって緊急事態には

 華子は呆然と突っ立ったまま。落ちたスマホを拾おうともしない。

 俺は華子のスマホを拾うと耳に当てた。ゲンさんの声が聞こえてくる。


『ハナちゃん? ハナちゃん、聞こえてる?』

「ゲンさん、俺です。快人です」

『ああ、一緒にいたんだね、よかった。実加子さんが倒れちゃって病院にいるんだよ』

「えっ! だ、大丈夫なんですか?」

『今、検査中だよ。俺も病院にいるんだけど、ハナちゃんを連れてきてくれる? 城山病院』

「し、城山……病院ですね?」

『俺、正面入口で待ってるから。そこまでタクシーで来てくれるかな』

「は、はい……タクシーで……正面入口です、ね?」

『大丈夫? 快人君が頼りなんだからね?』

「だ、大丈夫です。……すぐ行きます。じゃあ」


 通話を終える。

 た、たたた大変なことになったぞ?

 ……あれ、華子?


「おい、華子? どこにいるの?」


 華子が自分の部屋から出てくる。

 本格的なサイクリングをする人がよく着ているジャージに着替えていた。そして自転車を抱えている。


「お、おい、どうするんだよ?」

「……病院よ。病院に決まってるでしょ? ここからなら自転車が一番早いの……」


 蒼白な顔で言った。ゆらゆらとよろめきながら玄関に向かう。

 いいのか、このまま行かせて? 俺は呑気な童貞なので非常時にうまく立ち回れない。

 いやいや、そんなことを言ってる場合では。

 俺はまごまごするのをやめ、後ろから華子の肩を引いた。


「ダメだって、華子。そんなにふらふらじゃ自転車は危ないよ。今日は雨だし」

「でも……急がないと。あのお母さんが倒れるなんて、よっぽどなのよ……」

「いいから、タクシーで行こうよ。今から呼ぶから」

「自転車の方が早いわ。この自転車はすごく速いの……」


 華子は俺の方へ顔を向けているが、視線が定まっていない。

 マズい。絶対にこのまま行かせちゃダメだ。


「華子、ダメだって。自転車は置いていこう」


 そうやって引き留めつつ、スマホでタクシー会社を調べていく。

 しかし華子は言うことを聞かない。自転車を担いだまま外へ出ようとする。


「華子!」


 俺は思わず怒鳴ってしまう。

 華子が肩をびくつかせて立ち止まった。

 俺は華子の自転車を掴む。


「自転車は置いていくんだ、華子!」


 華子がうなだれて力を抜いた。その隙に自転車を取り上げてキッチンに立てかける。

 タクシー会社に電話すると十分後に到着すると言われた。

 二人で玄関先の階段に腰かけてタクシーを待つ。

 うなだれていた華子がふいに顔を上げる。


「やっぱり自転車の方が早いわ」


 立ち上がりかけたのでその腕を掴む。


「やめろ、華子!」

「邪魔すんな、バカ!」


 華子が俺の手を振りほどく。怒りで血走った目で睨んできた。

 俺は目を逸らさない。この場は俺だけでも冷静でいないと。


「落ち着け、華子。今の華子じゃ絶対に事故る。俺もついていくし、タクシーで行くんだ」

「命令すんな! 童貞の分際で!」


 華子が力任せに平手打ちを繰り出してきた。

 それを俺はギリギリでかわす。

 そして静かに言って聞かせる。


「いいから、俺の言うことを聞け」


 華子は殺気の込められた視線で俺をにらみ続けた。

 そこへタクシーが来る。

 俺は立ち上がり、華子の腕を掴んで引く。華子は抵抗せずに付いてきた。




 病院の名前を言うと運転手さんはすぐに分かってくれた。

 俺の隣に座る華子が口を開く。


「手を離して。痛いわ」

「あ、ゴメン」


 ずっと掴んだままだった。慌てて離す。

 ……じわりと冷や汗が出てきた。

 俺、華子に怒鳴ったよな? さらに命令したよな?

 緊急事態だけど……それで許してくれる華子じゃない。

 ……どうしよう?


「あの……華子、ゴメンな?」

「……なにが?」


 低い声で返してくる。

 マズい、かなり怒ってるぞ。


「いや……怒鳴ったり、命令したり?」


 華子はなにも言わない。

 マズい、絶対にマズい……。

 と、俺の手の甲に華子が手を重ねてきた。


「え? 華子?」


 華子はあいかわらず口を開かない。

 ぎゅっと俺の手を握り続けた。




 そして病院にたどり着く。

 俺たちを待ってくれていたゲンさんとはすぐに落ち合えた。


「びっくりしたよ。俺の店から出ようとしたところでね」

「すみません、お手数をおかけして」


 華子が黙ったままなので代わりに謝る俺。

 タクシーを降りてからも華子はずっと俺の手を握っていた。

 柔らかくって温かくって……って、そんな場合じゃないよね。

 そして俺たちは病室のある棟に入っていった。

 ……あれ?

 なんか様子が?

 ここってあれだよね?

 実加子さんは個室にいた。

 ベッドの背を立てて座っている。

 俺たちを見るなり満開の笑顔で言った。


「いやー、妊娠しちゃった!」


 ええっ!




 俺は華子の手を引きながら、よろよろと実加子さんの側まで行く。

 ゲンさんがほっとした声で実加子さんに聞いた。


「異常はなかったんだ?」

「順調順調。六週目だってさ」


 妊娠。……妊娠?

 実加子さんて……口には決して出せないけど、ババァだよね?

 とはいえ俺は童貞なので、何才くらいまで妊娠できるものか知らない。


「快人君って、思ってることがすごい顔に出るよね」


 実加子さんが意地悪げな顔で言ってくる。

 ヤバい、心を読まれた?

 意味ないと思うけどすっとぼけよう。


「そ、そんなことないですよ?」

「そう? ババァのくせに子供なんて作んなよ、って顔に出てるけど?」

「いやいやいや! そこまで思ってませんから!」


 慌てて言う俺。

 この人の機嫌を損ねたらロクでもない目に遭うに決まっていた。


「四十過ぎてても自然妊娠はあることはあるんだよね。うまく行くとはあんまり思ってなかったけど」


 実加子さんはずっとにこにこしている。そんな妊婦さんにゲンさんが聞く。


「元々、作るつもりだったんだ?」

「まぁね。ユキはグダグダしてるけど、結婚するのはするし。だったら仕込むのは前倒しにしようよってね。なにしろババァですし」


 『ババァ』のところで俺を見るのはやめてください。


「ああ、そうやって浜口さんを追い込んでいくんだ?」

「いい踏ん切りができてあいつもホッとするはずだよ?」


 童貞にはよく分からないが、悪辣な駆け引きが行われた様子?

 ふいに、俺の手を握る華子の力が強くなった。

 ぼそりと暗い声でつぶやく。


「なにそれ……」


 それに対して実加子さんが明るく言う。


「あんた、お姉ちゃんになるかもだよ? うれしいでしょ?」

「あり得ない……妊娠なんて……あり得ないわよ……」


 華子の声はあいかわらず暗い。それどころか震えていた。


「いや、実際にお医者に調べてもらったし。順調だってさ、今のところ」

「でも……あんたババァじゃない……」

「まだまだ現役だ!」


 実加子さんの視線が厳しくなる。自分で言うのはいいけど、娘に言われるのは我慢ならないんだ?

 華子も睨み返すのかと思えば、その目には力が入っていなかった。


「……妊娠? ……結婚? そんなのあり得ないわ……」


 俺の手を引きながら後ろへ下がる。


「いや、華子。素直に喜べば?」


 俺が言うと頭を強く横に振った。身を翻して部屋を出ていこうとする。

 そこへ作業着姿の兄貴が飛び込んできた。


「実加子さん!」

「やったぜ、ユキ! 六週目!」


 実加子さんの声に兄貴がぱあっと笑顔になる。

 華子が俺から手を離す。


「バカッ!」


 思いきり兄貴に平手打ちをした。

 さらに殴りかかろうとする。


「や、やめろ、華子」


 兄貴と華子の間に入って華子をなだめる俺。

 華子は俺を手で押し退けようとしながら兄貴をきつくにらむ。


「避妊ぐらいちゃんとしろっ! 気まぐれで作られた子供の気持ち、考えろよっ!」


 兄貴が落ち着いた声で華子に語りかける。


「気まぐれなんかじゃない。実加子さんとはちゃんと結婚する。……ぐずぐずしてたけど、決心を固めた」


 そう言われても華子の視線は厳しいまま。


「ウソつけ! どうせ捨てるくせに! あんなババァ、すぐイヤになるに決まってる! お母さんと子供と、まとめて捨てるんだ! 私の時みたいにね!」

「そんなことにはならない」


 兄貴はあくまで誠実に語る。しかし華子には届かない。


「絶対ウソだ! 絶対に裏切る! 裏切るに決まってる! 私には分かるんだ!」

「華子!」


 後ろから実加子さんが怒鳴る。

 驚いた顔で振り返る華子。

 実加子さんがきっぱり言う。


「お前は黙ってろ」


 華子が身を強ばらせる。

 顔を見ると目に涙を浮かべていた。

 出口の方に向き直った華子が、俺を肩で押し退けて部屋の外へ飛び出す。


「おい待てよ、華子!」


 慌てて俺は後を追った。

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