君に伝えたいこと

 お父さんがいなくなった後、あたしと日高くんはどちらからともなく近づいていって、自然とお互い正面から対面する形になった。けれどさっき喧嘩別れするように飛び出していった手前、日高くんとなんと言葉を交わせばいいのかわからない。沈黙していると、不意に日高くんが「俺もお参りさせてもらってもいいか」と聞いてくる。あたしが頷くと、日高くんはうちのお墓の前で手を合わせて、それから水子地蔵の前まで歩いて行った。見れば蛍火が日高くんを先導するように飛んでいた。そこでも手を合わせ終えると、日高くんはあたしに向き直って言った。


「ののかともう一度ちゃんと話がしたい」


 日高くんの声は固く、その表情も強張っていた。あたしも覚悟を決めて頷くと、日高くんはわずかに表情を緩めて「ありがとう」と言う。


「日差しが強いから、貝楼閣へ戻ろう。……それでもいいか?」


 あたしがもう一度頷くと、日高くんはあたしを気遣いながらも歩き出す。


「歩くペース、早くないか?」

「………大丈夫だよ」


 あたしが答えたところで、あたしの首裏から隠れていた左狐がするりと出てきた。


『若』


 左狐はあたしの肩から飛び降りると、ちいさな狐の姿のまま日高くんに頭を下げた。


『若がののか様と一緒にいらっしゃるのでしたら、私なんぞの警護は不要でしょう。先に行って露払いでもしておきましょうか』

「わかった。じゃあ先に貝楼閣に戻っていてくれ」

『承知いたしました。それと僭越ながら一言だけ。……話し合うべきことはいろいろとありましょうが、本題の前に、まずは若がののか様にいちばんお伝えせねばならんと思うことをお話されたらどうでしょう』

「………そんなことはわかってる。いいから行くんだ」


 左狐は薄く笑いを含んだ声で『御意』と答えると、すぐに駆けていってその姿はすぐに旺盛に茂っている草花に隠れてしまった。それから無言で歩き続けていると、沈黙が煮詰まりすぎて息苦しくなった。墓地から視界の開ける野原に出たところで、すこし前を歩いている日高くんの背中をちらりと伺う。今着ている着物は汚れもなくまっさらだけど、どうしてもその背中を見ているうちに昨晩そこから止めようもなく神力が流れ出ていた姿を思い出してしまう。


「もう、痛くない?」

「え?」

「昨日の背中の傷。………痛かったでしょ、もう本当に大丈夫なの?」


 あたしがそう言った途端、日高くんが立ち止まった。振り返ってきたその顔は、痛みを感じているときのように歪んでいた。


「日高くん?どうしたの、大丈夫?」

「………こういうとき、非難されるよりやさしくされるほうがよっぽど堪えるんだな。………ののか、自分がしんどいときまで人にやさしくしようとしなくていい」


 その顔を見れば、あたしのところへ来る間、ずっと日高くんが後悔の念に苛まれていたことがわかる。あたしが日高くんのしたことに傷ついたように、日高くんもそんなあたしを見て同じくらい苦しい思いをしていたんだろう。


(あたしと日高くん、どこかで釦を掛け違えてしまっただけなのかな……)


 日高くんは悪い人なんかじゃない。こんなさびしそうな目をして、こんな辛そうな顔をしたこの人が、他人に冷たく振る舞えるはずがない。何の考えもなしにあたしにひどいことをするわけがない。そう思ったら、さっきまでお腹の底で燃え上がっていた怒りや悲しみや戸惑いが静かに静かに納まっていく。


「………日高くん。さっき、よく話も聞かないで引っ叩いてごめんね。あたし、カッとなりやすいから」


 途端に日高くんは首を振る。


「ののかが俺に謝らなくちゃいけないことなんて何もないだろ」

「でも言葉で話し合うより先に、手を出すのはいけないことだよ」

「だとしても、ののかにそんなことをさせた俺が悪いんだ。ののかは絶対、少しも悪くない」

「でも、」

「悪くないんだ。………さっき蛍火が教えてくれた。ののかの家には水子がいるんだろう?それなのに安易に『流す』なんて言って、ののかがあんなに怒るのも当然だ。俺は二重にののかを傷つけた」

「でもそれは、あたしも日高くんに話していなかったことだし。………あたしも、ちょっと感情的になりすぎた」

「十六歳の子がいきなり『懐胎している』って言われたんだ。冷静でいられなくなって当然だよ………」


 日高くんはあたしを庇うように言った後、いくらか緊張したように言葉を飲み込む。それから何かを決心したのか、顔を跳ね上げた。


「自分勝手なのは承知している。でも謝るよりも弁解するよりも先に、ののかに言っておきたいことがあるんだ」


 いつになく真剣なその眼差しに、あたしは余計な言葉を差し挟むことが出来なかった。そんなあたしに、日高くんはただまっすぐにその言葉を向けてきた。


「俺はののかが好きだ」


 その一瞬、草花が風に吹かれて擦れ合う音が知覚から遠のいた。確かにはっきり聞こえたはずなのに、あたしは日高くんの言った言葉の意味をちゃんと理解できず、ただ日高くんの前髪が初夏の風に煽られるのを、半分現実ではないような気分で眺めていた。


「ののかが見返り目的どころか本当は懐胎というお役目を一切知らないまま花嫁御寮になることを引き受けてしまったんじゃないかって、俺は前から薄々思っていた。響から事前に『和合の儀』の意味をちゃんと説明されていたのか、一度ののかに確かめなきゃいけないってずっと思っていた。だけどどうしてもそれが出来なかった」


 なんで?と目で問うと、日高くんは自嘲するように苦笑した。


「……ののかと一緒に暮らすのが楽しかったんだ」


 日高くんは幸福と苦さをない交ぜにしたような、切なげな目をして続ける。


「好きな相手が当たり前に家にいて、いつも一生懸命飯を作ってくれて。……おまけに嫌な顔しないで幕末志士だとか戦国武将だとか、俺の趣味に走りすぎた話を聞いてくれて、逆に俺にいろんなことを話してもくれて。ののかはいつも笑ったり怒ったり表情がくるくる変わって、他愛のないことを喋っているだけでも楽しかったんだ」


 そう言いながら、日高くんは指先で着物の袖口から覗いていた自分の腕をさする。そこには蒼い鱗がびっしりと生えていて、今日も目にもうつくしい淡い輝きを放っていた。


「………それにののかは俺のこの体のことも気味悪がらないでいてくれた。そんなののかと一緒にいるのが心地よかった。ののかが来てから、本当に毎日が楽しかったんだ。おやすみを言って離れるのが名残り惜しくて、また一緒にいられる朝が来るのが待ち遠しくて。……そんな日常がもしかしたら壊れてしまうかもしれないと思ったら聞けなかった。

 ののかのためを思うなら、ちゃんと確かめないといけないことだとわかっていたのに、あともう一日だけ、もう一日だけってずるずる先延ばしにしてしまった。もしののかが何も知らないまま懐胎していたのだとしたら、ののかは俺を恨むだろうし二度と傍にいられなくなるってわかっていたから、目先の幸福を手放したくなくてずっと聞けなかった。………卑怯なことをして、すまなかった」


 そういって日高くんは深く頭を下げてくる。それはあたしに許しを乞うための謝罪だけではなく、自分の行いを深く悔やんでいるひとのそれだった。


「好きだって理由ごときでののかにしたことを許してもらえるとは思っていない。でもこれだけは知っていてほしかった。俺は決して誰でもいいだなんていい加減な気持ちでののかを花嫁御寮に選んだわけじゃない。ののかのことが好きで、どうしてもののかがよかった。その気持ちだけでののかを選んだ。道具みたいに利用してやろうなんて思ったことは一度もない」

「…………嘘だよ、そんなの」


 あたしの呟きに、日高くんは困った顔になる。


「言葉を尽くしたつもりだったけれど、俺の言葉なんかじゃ伝わらないか。だったら信じて貰えるまで言うよ。本当に俺はののかのことが、」

「やめて。………だってあたしはただの『役』なんでしょ」

「違う。だから役なんて関係ない。俺は好きでもない相手に好きだなんて言わないし、キスがしたいとも言わない」


 真顔で言われた途端、昨日の夜にぎゅっと抱き締められながらそう言われたことを思い出して、心臓が乱暴に蹴り上げられたようにおおきく弾んだ。


「俺は本当にののかのことが好きなんだ」


 真剣な顔をして言う日高くんの目には、一片の曇りもない。こんなまっすぐな目をして言う日高くんの言葉が、嘘であるわけがなかった。あたしの胸は、苦しいくらいに熱く高鳴る。今、まだ十六歳の高校生でしかないあたしが妊娠しているという重い現実には、好きだとかなんだとかいう気持ちだけでは解決出来ない問題がたくさんある。

 でも。日高くんの『好き』の一言で、これ以上ないくらいの底辺に沈んでいた自分の気持ちがあっさり上昇していってしまう。そんな単純な自分が恥ずかしい。


「俺のことを許せなくても最低の下種だと思ってもいい。だから好きだということだけは信じてほしい」

「………じゃ、じゃあ………日高くん、もしお腹の子のことがなかったら、昨日、あのとき、キスしてた………?」


 強張っていた日高くんの顔は、みるみる赤く染まっていく。でもたぶんあたしも今も同じ色だ。なんてことを聞くんだとツッコミを入れている自分と、でも日高くんの本心を聞きたがっている自分とが、心の中でせめぎ合っていた。


「それは………無理やりするのは趣味じゃないし、ののかの嫌がることはしないつもりだから、またああいう場面になったら神力を使ってでも自分の煩悩封じ込んで我慢するけれど…………でも目の前に好きな相手がいれば、したいと思うのが普通だろう」


 もうこれ以上は熱くならないと思っていたのに、またお腹の奥から頭のてっぺんめがけてかあっと強烈な熱波が駆け上がってくる。


「で、でもっ………日高くんは、その、響ちゃんのことが好きなんじゃないの………?」

「響?」


 その名前が出てくる理由が少しも理解できないとばかりに、日高くんは顔を顰める。


「なんで響のことが出てくるんだ?」

「だ、だって、」

「なんでそんなこと考えるのかよくわからないけど、俺が好きなのはののかだよ。今も昔も会ったときからずっと惹かれてた。俺はののか以外の女子に心が動かされたことなんて一度たりともない。…………ののか?どうしたんだ?」


 度重なる慣れない甘い言葉にクラクラしてしまって、気付けばあたしはその場にぺたんと座り込んでいた。


「気分が悪いのか?それともまたお腹が痛むのか?」

「………そうじゃないよ。昨日の夜からなんかいろいろありすぎて………」


 頭がふわふわしてる。容量の少ないあたしの頭では、うまく処理しきれないのだ。感情も、現状認識も。でも日高くんは、確かにあたしのこと「好きだ」って言ってくれた。その事実だけが、宝物のように自分の胸のいちばん深い場所に大事にしまわれていく。


「大丈夫か?……すまない。ただでさえ懐胎してたことを知らされたばかりで余裕ないときに、余計なことばかり言って」


 あたしはその言葉に首を振る。日高くんの真剣な気持ちは十分すぎるくらい伝わった。そのおかげで、あたしは『日高くんの赤ちゃんを妊娠している』という事実をきちんと受けとめる心構えのようなものが腹に据わった。けど代わりに大きな疑問がふくれあがていく。


「でもなんで?……オトナになってからじゃダメだったの?」

「え?」


 疑問符を浮かべた日高くんに、あたしは自然と自分のお腹を撫でながら聞いていた。


「どうしていきなり赤ちゃんだったの?……普通はいつかオトナになってちゃんと結婚してから欲しいと思うものでしょ?日高くんだってまだ高校生なのに、なんで子作りしようなんて思ったの?」


 あたしの言葉に日高くんは両手で顔を覆って身悶える。


「どうしたの日高くん?」

「…………………………『子作り』って単語………ののかの口から聞かされると………強烈と言うか……耳に毒というか……」


 日高くんは聞き取れないくらい不明瞭な声でなにかボソボソ呟いた後、気を取り直するようにしゃんと背筋を伸ばして、座り込んだままのあたしに手を差し出してきた。


「そのあたりのこともこれからちゃんと説明する。だから帰ろう」






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