ホタルをみた日


 お父さんが言うには、当時あたしはこんな風に言っていたらしい。




 お母さんはわがまますぎるよ。いちばんうまれてきたいと思っていたのはちっちゃんなんだよ。いっしょうけんめい生まれてこようとしてがんばってたんだから、ちっちゃんのことほめてあげよう。一度もお母さんからほめてもらえないままお別れするなんてかなしすぎるよ。

 それにお母さんがそんなに泣いてばかりじゃ、ちっちゃんは自分のことをお母さんをかなしませる悪い子なんだって思っちゃうかもしれないじゃんっ。だからもう泣いたりしないで。ちっちゃんのためにも元気なお母さんになってよ。今もきっとどこかであたしたちのこと、ちっちゃん見ているよ?


 ……ねえちっちゃん、もういいんだよ。また今度この世界に生まれておいで。


 べつにウチじゃなくてもいいんだよ。よそのお家にうまれたっていいから。だからちっちゃん、こっちの世界においで。この世界はすてきだよ。ちっちゃんがしあわせにうまれてくれるなら、どこの家のだれになったって、おねえちゃんはうれしいから。だから早くまたうまれておいで。そしたらあたしといっしょにあそぼうね。


 ………でもね、ちっちゃん。


 どうしてもどーしてもウチの子になりたいんなら、そのときはおねえちゃんが大人になったら、ちっちゃんのママになってあげる。お母さんの代わりに、あたしがうんであげるから。だから今は、ちゃんと天国へいって、またうまれてくる順番をちゃんとまってってね。





「ののかのその言葉で母さんは目が覚めたんだって。自分はただ悲しむだけで、ほんとうにちっちゃんのことを考えてあげられてなかったって。自分がはずかしくなったって言ってたよ」


 お父さんの話を聞いているうちに、だんだんとその当時んことを思い出していく。


「父さんもな、まさかまだ十歳のののかがそんなことを考えていたなんて知りもしなかった。まだまだ面倒をみてやらなきゃいけないちいさな子だと思っていたわが子の言葉に、そのとき父さんも母さんも救われたんだ。

 ……うちの子として生まれてくることは出来なかったけれど、ちっちゃんはどこか別の家で生まれて、今はもう幸せに暮らしていて、もしかしたらいつかはどこかで会えることもあるんじゃないか、二度と会えなくなったわけじゃないんじゃないかって父さんも母さんも思えるようになったんだ。それは全部、ののかのお陰だよ」


 あたしはお父さんの話を聞きながら無意識に自分のお腹に触れていた。まるでお腹越しにちいさなその体を撫でるように触れていた自分の指先に気付く。ちっちゃんという大事な家族が突然いなくなってしまったあの日。あたしは何も出来なかった。お母さんが救急車で運ばれていったときも入院した時も、あたしはどうすることも出来なかった。ちっちゃんの命を守ってあげたくても、あたしに出来ることはただ無事を祈ることくらいだった。それがとても歯がゆく悲しかった。


(でもこのお腹の子は、あたしが守ってあげることが出来るんだ………)


 たぶんちっちゃんがそうであったように、この子はこの世界に生まれてきたいって願いながら、今もあたしのお腹の中で精一杯成長しているんだろう。きっと両手を伸ばして、ママに抱き締めてもらえる日を夢見ているんだろう。そんなことを思ったら、急にじわじわと熱い感情が込み上げてきた。


 まだ子供のくせに子供を授かってしまった自分が、これからどうなってしまうのか、これからどうしたいのかもわからないままだ。だけどお腹にいる子をちっちゃんと同じめになんて遭わせたくない。先のことなんてまだ何もわからないけど、今はただこの子のことを見守ってあげたい。そう強く思う。でも妊娠という未知の出来事に、恐れや不安も同じくらい大きく心の中でふくらんでいく。


(もしもほんとうにあたしがこの子を生むのだとしたら………きっと何も知らないお父さんとお母さんを悲しませることになるよね……?突然知らないうちに結婚もしてない娘がママになっていたなんて、受け入れられることじゃないよね……)


「………ねえ、お父さん」

「ん?」

「もしも。もしもね、…………お父さんが絶対に許せないようなこと、あたしがしちゃったらどうする?」


 聞いてどうするんだ、と心の中では自分で自分にツッコミを入れていた。こんな曖昧にしか聞けないのなら聞く意味なんてないのに、それでも今のあたしはお父さんに聞かずにはいられなかった。


「絶対に許せないことって、ののかは何か若気の至りで悪いことでもしてみたくなったのか?」


 お父さんは面白がるような顔をして聞いてくる。


「ううん、そういうわけじゃないんだけど…………なんていうか……………ダメだ、うまく言えないや」

「そうだなぁ。今までののかは問題らしい問題を起こしたことがないからな。ハメを外してみたくなったのなら、母さんは怒るかもしれないけど、父さんは多少のことには目をつぶっててやりたいとは思うよ。……ただピアスを開けてみたくなったのなら、せめて高校を卒業してからにしてほしいかな」


 やっぱり若い女の子が自分で自分の体に傷を付けるってことに抵抗があるんだよなぁとぼやくお父さんを見て、あたしは苦笑してしまう。あたしがしそうな悪いことなんて、その程度のことしかお父さんは思い付かないらしい。


「けどこんなことを聞くなんてののからしくない。どうかしたのか?」

「…………ううん。ごめん、意味わからないよね。今の忘れて、お父さん」


 あたしはそうやって話しを打ち切ろうとしたけれど、お父さんは急にあたしの顔を見つめてきた。


「うちのののかに限ってそんな悪いことはしないって、父さん勝手に思い込んでるからな。だからののかが悪いことをしでかしたとしても、たぶん本当にののかがやったとはなかなか信じてやれないだろうな。……父親っていうのは、可愛い娘に対してはどうしても盲目になる部分がある生き物だからね」


 わが子にそんなことを言うのはさすがに照れがあるのか、お父さんはちょっとボソボソと話す。でもその不器用な喋り方から、あたしを信頼してくれているんだということが伝わってくる。


(なんかお父さんのこういうところ、日高くんとちょっと似てるな………)


 そんなことを思った途端、心臓のあたりがきゅっと痛んだ。


「ののか?どうした、どこか痛いのか?」

「ううん、平気。………なんでもないよ」

「本当に?ののかはときどき全然大丈夫じゃなくても『大丈夫だ』って言うからな。本当は何か困っていることでもあるんじゃないのか」

「……………そ、そんなことないよっ!」


 お父さんに不安を見透かされた気がしてドキりとした。


「ほんとに何でもないってばっ。もう、お父さんってば相変わらず心配性だなぁ」


 妊娠していることを隠しているやましさのせいで、否定する言葉が不自然なくらい強くなっていた。お父さんはそんなあたしをじっと見つめて、幼い子供にそうするように急にぽんと頭をやさしくたたいてきた。


「ののか。わが子っていうのはいいものだな」

「え?」


 突然の話題に面食らっていると、お父さんはあたしに聞かせるでもなく訥々と語りだす。


「………本当をいうとね、ののかが生まれてきたときは皺くちゃで顔が真っ赤で、赤ん坊なんて何が可愛いんだって不思議でしょうがなかった。でも一緒に暮らして成長を見守るうちに、ののかが生まれてきてくれて、うちの子になってくれてほんとうにほんとうによかった、子供というのはこんなにも愛おしいものなんだと気付かされたよ」

「………お父さん?」


 気のせいなのかお父さんの声がすこし震えて聞こえた。だから思わず見上げると、お父さんはやさしく笑い返してくれる。


「でも最近はね、どんなに可愛くても可愛くても、ひたすら可愛くても。………子供っていうのはいつかは親から離れていく存在なんだっていうことに気付いたよ。

 一生変わらず永遠に傍にいてやれることが出来ないからこそ、親はわが子が今までと違う場所に歩き出そうとしたとき、どんなに離れ難くともその子のためにそっと手を離してやらなきゃいけないんだろう。………親になった瞬間から、そんな使命を父さんも背負っていたんだろうね」


 お父さんはそう言いながら、あたしの頭に置いていた手をそっと下して、遠くに視線を向ける。


「ほら。ののかに迎えが来たみたいだよ」


 その言葉に促されてあたしもお父さんが見ている方向に視線を向ける。あたしたちがいる場所から離れた墓地の入り口のあたりに、人が立っているのが目に入った。遠くに佇んでいるのは和装姿のひと。


「……………え…っ…………日高くん……」


 日高くんはあたしたちと視線が合うと、こちらに向けて深々と頭を下げてきた。するとあたしの隣に並んでいたお父さんも、普段は猫背気味の背筋をすっと伸ばして、深く返礼をする。

 まるであたしとお父さんの家族の時間を邪魔するつもりはないとでも言うように、日高くんはその場に直立している。こちらに歩み寄ってこようとはしない。お父さんはしばらくの間、そんな日高くんをじっと見つめていた。その横顔は緊張しているときのように強張っていた。


「さて。………それじゃ父さんは帰るな」

「え、行っちゃうの?」

「偶然こうやって一緒に墓参りすることが出来てよかった。父さん一人で来るよりじいちゃんたちもちっちゃんも喜ぶだろうからね」


 お父さんはそういうと、水桶を持ってゆるやかな勾配を下っていってしまう。


「待ってお父さんっ」


 置いていかれたちいさな子供のように思わず後を追い掛けて呼び止めると、振り返ったお父さんはすこし困ったように眉根を下げた。


「ののかは今はまだ神事のお役目中だろう?帰るのはこっちじゃないはずだ」

「そうだけど………でも……でもっ」


 お父さんの傍にいると、何事もなかったような顔をしてこのままお父さんと一緒に家に帰ってしまいたくなる。お父さんはまるであたしのそんな甘えを悟ったかのように、今いちばんあたしが心揺れることを言ってきた。


「それとも、もう父さんと一緒に帰るか?もしののかが帰りたいというのなら、神事を途中で放り出すことになろうと、誰になんと言われようとかまわない。もう豊海で暮らせなくなったとしても、父さんはののかを家に連れて帰る」


 お父さんはあたしじゃなくて、遠くにいる日高くんをじっと見つめたまま宣言するように言った。


(どうしてだろ………お父さん、あたしたちの事情なんて何も知らないはずなのに……まるで何もかも知ってるみたいな言い方……)


 お父さんは何があろうとあたしの味方だとでも言うように、あたしの肩にぎゅっと手を乗せてくる。そんなお父さんの態度に、あたしはむしろ日高くんときちんと話さなきゃいけないという思いが高まっていく。


(たとえ妊娠のことでどれだけお父さんたちを驚かせて悲しませることになったとしても、ちゃんと日高くんと話し合って、自分がどうしたいのか、どうするのかきちんと決めて、きちんとお父さんたちに報告しよう。……あたしのこと信頼して味方でいてくれるお父さんに、いい加減な態度なんて取りたくない)


「お父さん」

「ん?」

「あたし、帰るね」


 そう言った途端、お父さんの肩が驚いたようにぴくりと跳ねた。


「帰るって、」

「うん。ちゃんとお役目まっとうしてくるから。……だからそれまで、あたしが帰ってくるのを待っててね」


 お父さんは「なんだ。帰るって、向こうにか」と言って明らかに落胆したような顔をしたけれど、それを無理やり隠すように笑うと、あたしの背中をそっと押してきた。


「じゃあいっておいで。ののかが自分でそうと決めたのならね。………でもいつでも帰ってきていいんだよ」

「やだな、お父さん。そんなの当たり前でしょっ。お父さんとお母さんがいる場所があたしの家なんだから」


 笑って言うあたしにお父さんは何も答えず、ただ目を細めた。その表情が一瞬だけさびしげに見えたけれど、お父さんは日高くんのいる方へとあたしの背中をそっと押す。


「…………ののかが他所の男のところに駆け寄る姿なんて見たくないから、父さんはもう行くな」


 半分冗談みたいに笑いながら言うと、お父さんは言葉通り一度も振り返らずにすぐに大股で歩き出して、あっというまにその姿は見えなくなった。






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