第34話 新しい一歩を

 駅前の公園に設置された大きなモミの木に、あぁ、またこの季節が廻って来たんだと、胸がざわついた。


 心の中に蘇る彼の笑顔。


 ずっと胸の奥に押し込んでいたのに、一度姿を見せた思い出は留まることを知らず溢れ出した。


『お前は痩せていたって、太っていたって、すげーいい女だ。だから自信持て』


 2年前あの公園で彼は私に、新しい一歩を踏み出す力をくれた。

 ポンポンと優しく私の頭に置いた大きな手から、沢山の勇気をもらった。


「一条……さん」


 しばらく声にすることが無かった、その名前が口から零れ落ちる。

 苦しくて胸が張り裂けそうになった。

 あぁ、何度季節が廻ろうと、きっと私が、彼のことを忘れることなんてできないのだろう。


 あの日、突然、行き場を無くした私の恋は、宙ぶらりんになったままだ。

 ねぇ、一条さん。

 あなたがいなければ、誰がこの恋を終わらせてくれるの。


◇◆◇


 2年前――


「ごめん、花。やっぱり俺はナナのそばにいてあげようと思う」


 突然言われた台詞。

 言葉にならなかった。

 だって、私のために全てを犠牲にすると言ってくれたのに。


「どう、して……?」

「ごめん……」


 理由も言わず、ただうつむいて彼は謝った。


「それって、いつまで? いつまで私は待てばいいの?」

「あいつが……」


 何かを言いかけた彼は、前髪をクシャックシャッとかき回して、深いため息をついた。


「待たなくて……いい……」

「何、それ……」

「俺には、お前を待たせる資格なんてないから」


 彼は何かを諦めたような表情をして、そうつぶやいた。

 傷つき疲れ切った様子の彼は、あまりに儚くて……。私はそれ以上、何も言うことができなかった。


 それから数日後、ナナちゃんが芸能界を引退するというニュースが報道された。表向きは体調不良による静養という事務所からの説明に、グループ内の虐めが原因だとか、海外の資産家との結婚が秒読みだとか、いろいろな憶測が飛び交っていたけれど、その中に見つけた自殺未遂という言葉で察しがついた。


 きっと彼は、つらい過去から逃れることができなかったんだ。

 だから、私ではなく、ナナちゃんを守ることを選んだ。


 私が泣いて喚いて、嫌だと言ったら、もしかしたら彼は戻って来てくれたかもしれない。

 だけど、私が彼のそばにいれば、またナナちゃんは同じことを繰り返すだろう。その度に、彼は妹さんのことを思い出し、傷を抉られ、苦しんで……。


 だから、私は何も言わず、彼の前から姿を消した。


 ジムを退会した数日後、頼んでもいないのに、口座に35万円が戻って来ていて、まるでこれまでの一条さんとのことが全てなかったことにされたかのようで、余計につらくなった。


「ずいぶんジムにはお世話になったので、私には受け取れません」


 私は亮ちゃんを通じて、返してもらおうとしたけれど、

「それは会社のお金じゃなくて、あいつが個人的にしたことだから。受け取ってあげて」

 そう彼にいさめられた。


 結局、目標を達成できないまま終わってしまった私のリベンジは、皮肉にも、その数週間後、呆気なく果たされることになる。一条さんのいない日々に、いつの間にか私の体重は減ってゆき、あっという間に目標体重となっていたのだ。私にはやけ食いに走る気力すら残っていなかった。


「花、ちゃんと食べている? 少し、痩せたんじゃない?」


 そんな私が自分を取り戻すことができたのは、亮ちゃんのお陰だ。

 どんどん痩せていく私を心配し、彼は毎日のように私の家に差し入れを持って顔を出してくれた。


「このまま、もっともっと痩せて、ナナちゃんくらいになったら、一条さん心配してくれるかな」


 ボソリとつぶやいた私に、亮ちゃんは滅多に見せない怒った顔をして私の両肩を掴んだ。


「……君は、そんなことできるような子じゃないだろ」

「だって、一条さんがっ!」


 言いかけた言葉を呑み込んで、私はうつむいた。


「いいよ、花。我慢せず、言いたいことを言えばいい」


 彼は優しく私のことを促すように言った。


「私のことが……」

「うん」

「私のことが、一番、大切だって。誰よりも何よりも大切だって言ったのに……」

「うん」

「全てを犠牲にしても、お前のことは失いたくないって、そう言っていたのに!」


 静かに私の話を聞いてくれる亮ちゃんの前で、私は泣きながら叫んだ。


「嘘つきっ! こんなに私を傷つけて、こんなに私を苦しめて、一条さんなんか、一条さんなんか大っ嫌い!!」


◇◆◇


 それから1年が過ぎた頃――


「花、スケートに行こう」


 毎週、恒例のように私を誘い出してくれた亮ちゃんが、その日、私を連れて行ってくれたのは、軽井沢の森の中にある天然のスケートリンクだった。


「スケートって言うから、近くのレジャー施設に行くのかと思った」

「母の実家がこの近くで、昔、よく来たんだ。周囲の雪景色もきれいだし、割といているから、穴場なんだよ」


 広大な森に囲まれたスケートリンクは時折、野鳥の鳴き声なんかも聞こえてきて、広がる青い空と大自然に包まれたロケーションは最高だ。


「実は、私、スケート初めてなんだよね」


 スケート靴に履き替えながら亮ちゃんに言うと、「大丈夫。僕が教えてあげる」と彼は笑ってスケートリンクに降り立った。


「ほら、おいで」


 差し出された手を取って、氷の上に足を踏み出したものの、私は立っているのもやっとで。

 亮ちゃんにしがみつきながら、へっぴり腰で、滑り出す。


「奥に行くと、時々、うさぎを見かけたりするよ」

「えー、行けるかなぁ」

「大丈夫。僕が連れて行ってあげる」


 そう言って、彼は私を支えながらスイスイと進んでいった。

 森の奥の方まで来ると、ほとんど人もいなくて、シンとした空気の中、自然の一部になったような気分だ。


「亮ちゃんは、スポーツ万能だね」


 途中途中転びそうになる私をリードして、体勢を崩しもせず進む彼に、癒しの王子は何をやらせても様になるな、なんて思ったり。


「僕の家はね、母親がすごく教育熱心な人で、冬はスケートだけじゃなくて、スキーもやらされたし、習い事もスイミングだけじゃなくて、ピアノに、習字に、剣道にって、毎日何かやらされていたよ」

「へぇ、教育ママだったんだ」

「僕は一人っ子だったし、彼女はそれが生きがいだったからね。苦労したよ」


 珍しく彼が苦い顔をして、つぶやいた。

 なんだか新鮮。亮ちゃんの素を見た気がする。

 思わず、じっと彼を見てしまったら、私の視線に気付いた亮ちゃんはパッと横を向いた。


「って、何話しているんだろ」


 いつも余裕のある癒しの王子の照れた顔。うわぁ、萌えるし。


「もっと聞きたい、亮ちゃんの子供時代の話」

「え……」


 彼は少し驚いて、気まずそうにしながら、しばらく迷っていたけれど、ワクワクしたまま話し出すのを待っている私に、ため息をついて口を開いた。


「君も知っての通り、僕はやんちゃだっただろ? そんな母親に反発して、サボったり、わざと悪い点とったり、その度に喧嘩になって。なんでこの人はこんなに僕に執着するんだろうって子供ながらに思っていた」

「今の亮ちゃんからじゃ、想像できないね」

「君のおかげだよ。僕はさ、君が転校した後、女性に優しくする決意をしたって言っただろ? だから、母に対しても優しくしようって思って、そしたら、なんとなく彼女の気持ちが分かったんだよね」


 彼は苦笑いして、昔を振り返るように遠くを見ながら再び口を開いた。


「寂しかったんだなって。うちは、父が仕事でしょっちゅう海外に行って、家を留守にしていたから、あぁ、母には僕しかいないんだって気付いた。それからは、彼女の期待に応えようと必死で頑張ったよ」


 そう言った後、彼はニコリと笑って、「おかげさまで、スケートもこのとおり」と私をエスコートしたまま、森の奥へと進んでいった。


「なるほど、それで癒しの王子が誕生したわけだね」

「なにそれ」

「亮ちゃんは、私の癒しの王子なの。亮ちゃんのおかげで、私はすごく助かっている」


 ずっと言いたいと思っていて言えていなかったことを、これを機会に口にした。


「この1年、ずっとそばにいてくれて、ありがとう。本当に感謝しているの」


 その言葉に、亮ちゃんが驚いた様子で急に振り返ったから、私はバランスを崩して彼に突進してしまった。私を支えようとした亮ちゃんが、氷の上に尻餅をついて、その上に倒れた私を彼が抱き留めてくれる。


「ごめん」


 亮ちゃんは謝った後、そのまま私をギュッと抱きしめて、「ごめん……」ともう一度つぶやいた。

 彼の温もりが伝わってきて、私は驚いて身を離そうとしたけれど、亮ちゃんはさらに力を入れて、私のことを胸の中に包み込んだ。


「怪我、していない?」

「う……ん」


 耳元で響く彼の声に心臓がドクドクと音を立てる。

 しばらくして彼は少しだけ身を離すと、私のことを至近距離から見つめた。


「亮……ちゃん……?」

「花が好きだ」


 彼は切なげにつぶやいて、そしてゆっくりと唇を近づけた。

 苦しいくらいに心臓が鳴り響いて……。

 だけど、彼と唇が重なる瞬間、本当になんでって自分でも思うけれど、一条さんの顔が思い浮かんで、私は思わず、うつむいてしまった。


 亮ちゃんの口から漏れた小さな吐息。


「まだ、あいつのことが忘れられない?」


 この一年、何も言わず、ただそばでずっと見守って来てくれた彼が、初めて私に問いかけた。


「もう一年も経つのに、花はいつまで僕を待たせる気?」

「亮ちゃん……」

「僕はもう、この手を離すつもりはないよ」


 真剣な瞳で私を見る彼に、私はなんて言葉を返せばいいのだろう。


「ねぇ、花。君はそろそろ新しい一歩を踏み出すべきだ」

「でも、私……」

「いいよ。君がまだあいつのことを忘れられていなくてもいい。だから、花、僕を受け入れてごらん」


 ニコリと優しく微笑んで、彼は私の頬を包み込んだ。


「大丈夫。僕がきっとあいつのことを忘れさせてみせるから」


 そして彼はそっと唇を重ねた。

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