第30話 私には勿体ないくらいの人だ
「侑は、外せない用があって今日は来られないらしいから、代わりに僕が見るね」
翌日、ジムを訪れた私を、亮ちゃんが優しい笑顔で出迎えた。
聞かずとも、その外せない用というのはナナちゃんのことだと察した。
彼女を心配する一条さんの気持ちは分かるから仕方ない。だけど、そこにはきっと、梨香子さんもいるのだろうということが、私を不安にさせた。
思わずため息が漏れてしまって、
「僕じゃ、役者不足かな?」
と苦笑いを浮かべた亮ちゃんに、慌てて首を振る。
「全然! すごく嬉しい。ありがとう。だけど、亮ちゃんも、スイミングのクラス持っているでしょう? だから、私一人で平気だよ!」
そう言ったら、彼は何だか、私の顔を見たまま静かに微笑んだ。
「一人で平気じゃないだろ? もう少し、我儘言ってもいいんじゃないかな。君は侑の彼女なんだから……」
「亮ちゃん……」
「こんな顔させて……侑は一番大事なものが何か、分かっていないのかな」
ポンポンと頭を優しく撫でられて、久々のイケメンによる頭ポンに涙が出そうになるじゃないか。
「仕方ないです。一条さん、ああ見えて、優しいから。ナナちゃんのこと、放っておけないんですよ。ほら、妹さんのこともあるし」
「昔から、君は本心を隠すから……心配だ」
亮ちゃんは真面目な顔で私のことを見つめた。
「やだなぁ。なんだか、亮ちゃんは私のことなんでも分かっているみたい」
「そうだよ。僕は君のことが手に取るように分かる。だから、僕の前では、隠さず本当のことを言って。ちゃんと受け止めるから」
「亮ちゃん……」
今、それ以上何かを言ったら、涙が出そうだったから私は黙り込んだ。
「侑がフラフラしているなら、僕が花をさらってしまおうかな。今ならお菓子があれば、ついてきそうだ」
ニコッと微笑んだ亮ちゃんに、自然と笑顔がつられた。
「うん。多分、甘い匂いにつられてついて行っちゃうと思う」
「じゃぁ、たくさん、甘いものを用意しておかなくちゃね」
優しく包み込んでくれる彼の温かい笑顔。
その微笑みに、どれだけ癒されたか。
自分が思う以上に、昨日の出来事は私の心に影を落としていたらしい。彼の優しさに、強張った心がほどけていくのを感じる。
亮ちゃんは私以上に私のことを理解してくれている。
「亮ちゃんがいてくれてよかった」
そうつぶやいたら、彼は驚いたように私を見て、それから優しく瞳を細めた。
「君が必要ならいつでもそばにいるよ」
あぁ、さすが癒しの王子。癒しオーラが半端ない。
拝みたいくらいだ。
私はそんなことを思いながら、彼に「ありがとう」と心から礼を言った。
◇◆◇
トレーニングを終えて、ジムを後にしようとしたら、私服に着替えた亮ちゃんが「送ってく」と後から追いかけて来た。
「亮ちゃん、私、本当に大丈夫だよ」
そう言うと、彼は、「少し、話しをしたいんだ」と改まった口調で言った。
「話って?」
「うん、車の中でする」
何だか、彼の表情に緊張の色が見られて、私にもその緊張が伝わって来た。
「どうしたの?」
運転する彼の隣で、いつもの柔らかな笑顔を湛えていないその横顔に、耐え切れず切り出したら、
「こんなときに、余計に君を混乱させるかもしれないけど……。もう、黙って見ていられないから」
と彼は前置きした。
「花、僕は……」
続きを言いかけた時、その言葉を遮るように、私のスマホが鳴り出した。
「もしかして、君と二人きりでいること、侑に勘付かれたかな」
なんて苦笑いを浮かべる彼に、「一条さんじゃなくて、弟からみたいです。出ていいですか?」と私も苦笑い。
電話は一番上の弟からで、出た瞬間、「何かあったの? 姉ちゃん」と言われた。
「なにかって、何が?」
唐突になんだろうと答えた私に、小さなため息が聞こえてきて、
「やっぱり、忘れてるんだ?」
と、さも困ったような声で言われた。
「え?」
「今日、
彼の言葉にハッと息を呑む。
嘘。すっかり忘れていた……。
今まで、こんなこと絶対なかったのに。
「いつも、昼過ぎにはプレゼントが届くのに、何も届かないから、あいつら『週末だから、もしかしたら、直接現れて驚かせる気なんじゃないか』って楽しみにしていたんだぜ。なのに、いつまで経っても連絡すら来ないから……」
時計を見ればすでに、21時近くになっている。
「ご、ごめん。最近、いろいろゴタゴタしていて」
「姉ちゃんらしくないな」
「うん。ごめん……。あの、空と海は? 代わってもらってもいい?」
「空はいるけど、海はふて寝しちゃってる」
ため息交じりの声に、私はあぁと頭を抱えた。
とりあえず、空に代わってもらったけど、
「いいよ。花ちゃん、忙しいんでしょ。気にしないでね。海はふてくされているけど、花ちゃんは具合悪くて寝込んでいたんだって、言っておくから」
と物わかりのいい優しい末っ子に、罪悪感で胸が痛む。
「ごめんね、空。今更なんだけど、お誕生日おめでとう。あの、誕生日プレゼントは、後で送るから」
「いいよ、花ちゃん。プレゼントなんかいらないから、たまにはこっちに顔を出して。みんな花ちゃんがこっちに来るのを楽しみに待っているんだよ」
チクチクと胸が痛んだのは、今日のことだけじゃない。
大家族の温かい家庭の中で、一人だけ、その輪に溶け込めず、いつでも居心地の悪さを感じていた私は、大学進学を理由に地元を離れ、それ以来、あまり実家には寄り付かなくなった。
もしかしたら、弟たちはそれに気付いているのかもしれない。
「ごめんね。今度の連休には帰るから……じゃぁ、海にもよろしくね」
いたたまれなくなって、小さな声で謝って、そのまま電話を切った。
「実家、静岡だったよね? 清水って言っていたっけ?」
電話を切った途端、亮ちゃんがつぶやいた。
「え、あ、はい」
「高速飛ばせば、12時前には着けるかもしれない」
そう言って、彼は、帰り道とは違う方向へ車を走らせた。
「え、で、でも、亮ちゃん」
「大体、事情は分かったから。直接、会って、おめでとうって言ってあげな」
ニコッと微笑んだ彼に、私は動揺して首を振った。
「そんな、こんな時間に、送ってもらうのなんて申し訳ないです。あの、プレゼントを後で送ればきっと機嫌も直してくれると思うし、大丈夫ですよ」
「そうじゃないだろ。彼らが待っていたのはプレゼントじゃなくて、君のことなんじゃないの?」
核心を突かれて、ぐっと言葉を呑み込む。
「そう……なんですけど。あぁ、じゃぁ、駅に送ってください。今からなら、まだ深夜バスも出ているし」
「それじゃぁ、誕生日に間に合わないだろ。いいよ、君と二人きりのドライブができるなら、僕も嬉しいから」
亮ちゃんは、優しい。とても……。
「ありがとう、亮ちゃん。私……亮ちゃんみたいな幼馴染がいて、本当によかった」
彼への感謝と、本当に彼が傍にいてくれて助かっているということを伝えたかったのだけど、亮ちゃんは一瞬驚いたように私の顔を見た後、硬い表情でしばらく黙り込んだ。
「って、亮ちゃんにとっては迷惑だよね。こんなに、世話の焼ける幼馴染がいちゃ」
「違う……そうじゃなくて……」
彼は唇を噛んでから、
「優しい幼馴染を演じるのは今日限りにしたいんだ」
とつぶやいた。
「え?」
「さっきしようと思っていた話の続きするね」
唐突にそう言った彼は、少しだけ緊張した顔で、私のことをチラッと見た。
「え……あ、うん」
「花は僕にとって、初恋の人だし、特別だから、すごく大切な幼馴染だと思っている。だけど、僕は今の関係を終わりにしたいんだ。花に、ただの幼馴染なんかじゃなくて、一人の男として僕を見てほしいから」
「亮ちゃん?」
「僕は花のことが好きだ」
ドクンと心臓が音を立てて、血液が逆流したように体が熱くなった。
「でも、私……」
「君が、侑を好きなことは分かっている。だけど、きっと僕は侑より君を幸せにできるって思うから、あいつから君を奪うことに決めた。侑にもそのことは話すつもりだ」
きっぱりと言い切った亮ちゃんに、私は言葉を無くして呆然と彼を見つめた。
「ごめん、急にこんなこと言って。焦るつもりはないけど、僕がそう思っているってことだけは、知っておいてほしかったから」
「だけど、私は亮ちゃんのこと……そんな風に……」
「あぁ、今はまだ答えを出さないで。振られることは分かっているから。だけど、君が振り向いてくれるまで、ずっと待つつもりだから」
「亮ちゃん……」
「僕は執念深いから、覚悟してね」
冗談っぽく言ってニコッと笑った彼に、私は何て答えたらいいのか分からない。
亮ちゃんに、好きだと言われた……。
それは、私が彼にいだく好きとは意味が異なる。
その後、彼は告白してきたことなどなかったかのように、普通に私に接した。
スイミングスクールで働いた数々の悪事とか、小学校の頃の先生の小ネタとか、昔話に花を咲かせて、楽しいドライブを送ってくれた。
私には勿体ないくらいの人だ……。
優しく、全てを包んでくれる包容力。
彼と付き合った人は、きっと誰よりも幸せにしてもらえるに違いない。
そんなことを思って、チクリと胸が痛くなった。
何、考えているんだろう。私には一条さんがいるのに。
あぁ、そうだ。急に実家に帰ることになって、一条さんに何も伝えていなかった。そう思って、チラッとスマホを見たけれど、彼から何も連絡が入ってこないその画面に内心ため息が漏れた。
今日は一度も連絡が来ていない。
何しているの、一条さん。私をほったらかして、どこにいるの。
電池……切れそうだな。
それがまるで彼と私のつながりを表しているようで、ひどく切なくなった。
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