第29話 その人は突然現れそして私を不安の渦に巻き込んだ
「今週末、ジムの休みとったんだ。何かしたいことある? お前の行きたいところに連れて行ってやる」
彼の部屋でテレビを見ていた時、突然、そう聞かれた。
これは、デートのお誘いというやつでしょうか。
一気に嬉しくなって、尻尾を振る子犬のように笑顔になってしまう。
「あのっ。私、ランドに行きたいです!」
だけど、答えた瞬間、一条さんは眉をひそめた。
「却下」
「えー! 行きましょうよ」
「無理」
「どうしてですか。お前の行きたいところに連れて行ってやるって言ったばかりじゃないですか!」
「俺はネズミが嫌いだ」
へ?
私の前で苦々しい顔をして腕を組むイケメンを、私は呆気にとられて見つめる。
「ネズミ?」
「そうだよ。子供の頃、友達からもらったハムスターを親に内緒で物置で飼っていたんだ。だけど、いつの間にか、ゲージからはみ出るほど数が増えていって、恐くなって、物置に放置したことがある。その後、どうなったか聞きたい?」
「い、いえ、聞きたくないです。でも、あのキャラクターとネズミを一緒にしなくても」
苦笑いする私に、彼は大きく首を振った。
「ネズミを連想させるものは全部嫌なんだよ」
「ネズミなんていないですよ、あそこには! だって、夢の国ですもん!」
「無理。鳥肌が立つ」
一条さんは、絶対に嫌だと言わんばかりに横を向いた。
あぁ、行きたかったのにぃ!
「じゃぁ、今回は諦めます。でも、来年のクリスマスは一緒に行ってくれませんか?」
「なんか寒気がしてきた」
「年に1回くらいいいじゃないですか! クリスマスに恋人とランドでデートするっていうのが、昔からの夢だったんですよぉぉ」
そう言って食い下がると、一条さんは、苦み潰した顔で私をチラッと見た後、目を逸らした。
「分かった。考えておく」
うわ。絶対行く気なしだ、これ。
「もう、約束ですからね! 絶対ですよ!」
「うるせーな。そんなに、夢の国に行きたいなら、俺が今ここで連れて行ってやるよ」
そう言って、彼は私を抱き寄せ唇を重ねた。
もう……。
文句を言おうにも、一瞬にして、彼の甘く蕩けるキスに取り込まれた私は、すでに頭の中がエレクトリカルパレードだ。
一条さんのことが好き過ぎて、細胞の一つ一つまで彼のことを求めて止まない。
もう、彼がいない世界なんて考えられなかった。
◇◆◇
「久しぶりに会えたのに、プライベートレッスン受けていないってどういうこと?」
翌日、会社帰りにジムに行くと、受付でナナちゃんと一条さんが揉めていた。
「悪い。俺、今、全ての予約を断っているんだ。一人専属持っているから」
彼の言葉に驚いたのはナナちゃんだけじゃない。
私も、初めて知るその事実に驚いた。
それって、私だけってこと……?
だとしたら、すごく嬉しい。
「誰その専属って。こないだの花子って人?」
「あぁ……」
「なんでその子だけ、専属なのよ!」
「……あいつは、特別だから……」
「なに、それ……」
泣きそうな顔をしたナナちゃんに、一条さんは視線を落とす。
「ごめん、ナナ」
「なんで、謝るのよ! 私は特別じゃないの?!」
「お前のことは妹みたいに大切だ。だけど、それ以上の特別な感情は……持っていない」
一条さんは真っ直ぐに彼女を見つめつぶやいた。
「そんなの……許さないっ。侑のことは放さないからっ! 絶対に!」
ナナちゃんは、大きな瞳いっぱいに涙をためて、一条さんを睨み付けると、そのまま踵を返して走り出した。出口に立っていた私に気が付き、表情を険しくした彼女の瞳には憎しみさえ籠っている。
「あなたに侑は渡さない!」
呻くような声をあげて、私の頬を引っぱたき、彼女はそのまま外へと走り去ってしまった。
「大丈夫か?」
すぐに、一条さんが私に駆け寄り、顔を覗き込んだ。
「悪いな、巻き込んで……」
「あ。ううん、平気です」
正直、殴られた痛みより、私だけを特別だと言ってくれた彼に嬉しさを隠せない。
だけど、ナナちゃんの気持ちも、彼女を傷つけてしまった一条さんの気持ちもよく分かったから、その感情は心の中に押し込んだ。
その後、ナナちゃんをジムで見かけることはなく、人気アイドルとして忙しくしていた彼女は、もともとたまにしか姿を現さなかったので、私はその日の出来事などすっかり忘れていた。
そんなある日のこと――
「一条君、いるかしら?」
ジムに一人の女性が現れた。
艶やかな黒髪を耳にかけるその姿はしっとりと美しく、ちょうど受付で話をしていた小泉さんも私もボーッとその女性に見とれてしまった。
「あの、一条君……ここのオーナーだって伺っているのだけど?」
もう一度その女性が聞いたので、小泉さんがハッとした様子で、「少々お待ちください」と慌てて電話を手に取った。
一条君って呼んだ。見たところ彼より年上のように見えるけれど、どういうお知り合いだろう。っていうか、一条さんの周りって、なんでこんなにきれいな人が多いんだろう。
そんな中、小泉さんに呼ばれて受付に現れた一条さんは、彼女の姿を見た途端、驚いたように目を見開いて立ち止った。
「久しぶり、一条君」
微笑んだその女性に彼は、「梨香子、さん……」と動揺した様子でつぶやいた。その声が微かに震えていて、私の心に言い知れぬ不安を巻き起こす。
「ごめんね、急に会いに来たりして」
そう言いながら、左手で髪をかき上げた梨香子さん。つられるように、その仕草を見つめた一条さんの視線が、彼女の指先で止まった。一瞬、彼の瞳が揺らいだのを、私は見てしまった。
あぁ、指輪、確認したんだ。
それは確信だった。どうして、こういうことを私は目ざとく気付いてしまうのだろう。
彼女の左手の薬指に指輪はない。
その事実を、彼はどんな感情でとらえたのか。喜んだの? それとも、こんなに美しい人が、まだ結婚指輪をしていないことに、ただ驚いただけ?
それは分からない。だけど、彼が衝撃を受けたのだけは確かだった。
きっと二人の過去には何かがあったはず……。
胸の中に広がった不安は消えることもなく、私の心を覆い尽くし、その重さにもう押しつぶされそうだ。
そんな私の前で、引き寄せられるように見つめ合っていた二人は、しばらくしてどちらともなく視線を外した。
「失礼かなって思ったんだけど……急を要したから」
「何か、あったの?」
彼女を気遣う様子で確認する一条さん。
私には時々しか見せない優しい素顔。
「ナナちゃんが、昨夜、うちに運ばれて来たのよ」
「ナナが? あいつまた……」
顔を強張らせた一条さんに、梨香子さんは困った顔でうなずく。
「ここ数週間食べていなかったみたいで……。食事はもちろんのこと、点滴も受け付けてくれないの。あなたが来るまで誰も部屋に入れないって、閉じこもってしまって……」
「あのバカ……」
一条さんは大きなため息をついた。
「分かった。今から病院に行く」
「ごめんね。迷惑かけて」
「いいよ。あなたのせいじゃないから、少し待ってて」
そう言って振り返った一条さんは、私がいることに今気付いたように驚いた顔をして、
「あぁ、ごめん。花、今日のトレーニングは他のトレーナー付けるから」
と言った。
「うん。大丈夫。大体、事情は分かったし……」
やだな……なんだか、涙が出そう。
「あとで連絡するから」
そう言って、スタッフルームに入った一条さんは、すぐに私服に着替えて戻って来た。梨香子さんを促すようにして出口に向かった二人の後姿に、胸が苦しくなる。
「ま、待って。私も行く!」
思わず出た言葉。驚いた顔をして、一条さんが振り返った。
「花……」
それから、彼は困ったように眉を寄せて、私を見つめた。
「お前が行くと、多分、ナナが不安定になるから。悪い……」
そう、だよね。そんなこと分かっている。でも、嫌なの。あなたと梨香子さんを二人きりにしたくないの。
行かないで……。
喉まで出かかった言葉を、私は呑み込んで笑顔を作った。
「そうだね。ごめん、気が回らなくて。じゃぁ、私はトレーニングに行くね」
それだけ言って、私は慌ててロッカールームに駆け込んだ。
もう涙を堪え切れなかったから。
なんでこんなにも不安になるのだろう。
もしかしたら、私の勘違いかもしれないのに……。
だけど、彼の視線に、その仕草一つ一つに、梨香子さんを特別な人だと思わせる何かを感じる。
心に広がった不安に押し潰され、溢れ出した涙がポトリと床に零れ落ちた。
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