第25話 それはもう、極上に甘く、天に昇るほど幸せで①

『いいよ。俺のことしか考えられないようになったらいい』


 それって、どういうこと……?

 一条さんが放った言葉を頭の中で繰り返す。

 だけど、クチュリと舌を絡めとられて、なんだかもう脳が蕩けてしまって、正常な判断ができない。


「ん……はぁ……」


 唇が離れた時にはフワフワした気持ちで、私は切ない吐息をついていた。


「このままずっと、恋人でいよう」


 耳元で甘く囁やいた一条さんは、呆然としている私に再び唇を重ねた。

 数えきれないほどの女性を骨抜きにしてきたのであろう、そのテクニックはあまりに巧みで、私の体は当たり前のように熱くなっていった。

 だけど、彼のキスはあまりに素敵すぎて、私の胸はチクチクと微かな痛みを訴え始めた。

 分かっている。やっぱり、これだけカッコいいと、こうして何人もの女の人を口説き落としてきたんだろう。

 その中の一人になってしまうことが、すごく切なくて……。


「もう……充分です……。ありがとうございました」


 私は彼から身を離し、うつむいた。


「花?」

「これ以上は私には無理です」


 少し驚いた顔をして私を見た一条さん。


「なに、急に」

「あの、恋人ごっこ……すごく、楽しかったです。でも、これ以上したら、ごっこじゃなくなっちゃうから」


 そう言ったら、彼は少し黙って、それから唇を噛んだ。


「一条、さん?」

「ったく……」


 不機嫌な顔をして視線を外した彼に、私は動揺した。

 あぁ、エッチしたかったのに、拒んだから機嫌を損ねた、とか?


「ごめん、なさい……」

「別に……」


 言いかけた言葉を呑んで、小さくため息をついてから、彼は、

「お前、立花のことが好きなの?」

 と突然そんなことを聞いた。


「な、何言っているんですか、急に」

「だって、いつの間にか名前で呼び合っているし。あいつの前だと、お前いつも楽しそうだし」


 ふてくされた顔でブツブツとつぶやく。

 あれ……。何この展開。

 これじゃ、まるで一条さんが……。


「妬いているように見えるんですけど……」


 そう言ったら、彼は驚いたように私を見て、それから眉をしかめて横を向いた。


「そりゃ妬くだろ、目の前でイチャつかれたら。悪いかよっ」

「ええっ!? なっなにそれ!? わわわ悪いですよ! そんなこと言うのずるい! 彼女がいるくせに!!」

「はぁっ?!」

「知っているんですよ! 私、机の上に飾られていたプリクラ見ちゃったから……。それなのに、思わせぶりな態度ばかりして……私のこと弄んで……」


 ジワリと涙が出てきて、私はうつむいた。


「何……言ってんだよ……バカだな」

「どうせ、バカですよ。勝手に盛り上がって、勝手に勘違いして……」

「お前、あのプリクラ見てショック受けていたの?」


 わざわざ、そんな確認までしてきて、私は頭に来て彼を睨みつけた。


「仕方ないでしょ! だって一条さんが」

「すげぇ、嬉しい」


 その言葉を遮って、一条さんは突然私を抱きしめた。

 息も吸えないくらいきつく抱きしめられ、私は驚きに言葉を失う。


「あのプリクラは、妹だよ」


 くっと堪えるようにして笑った一条さんは、少しだけ身を離して私を見つめた。


「え……? だって、名前が違う……妹さんはあやちゃんだって」

「あぁ、あいつ、家族以外の前ではあやこって名乗っていたから」

「え?」

「文章の文に子どもって書いて、ふみこって名前だったのに、自分の名前を嫌って、あやこで通していたんだよ。知ってる? 戸籍上ふりがなの登録はないから、結構通るんだぜ」


 嘘……。


「ったく、これだけ、俺はお前のことを好きだって前面に出してんのに、なんで気付かない」

「え?!」


 思いもよらない言葉に私は絶句した。


「ホント鈍いな、お前」

「す、好きだなんて、一度も言われていませんけど??」

「はぁ? 全身でアプローチしていただろうが?」

「分かりづらっ!」


 思わず、突っ込んでしまいましたよ。

 だって……。 


「どこをどうとったら、そうなるんですか。そんなものちゃんと言葉で伝えてくれなきゃ分からないですよ!」

「うるせぇなっ! 俺は、会った瞬間から、お前のことが好きだよっ!」


 ビックリして固まった私に、一条さんがハッとした顔で目を逸らす。見る見るうちに耳まで真っ赤になって行くのを、私は呆然と見つめた。


「まじ、むかつく。なんなんだよ、お前」


 一条さんは苦々しい顔をして、大きくため息をついた。


「言わなきゃ分かんないわけ?」

「はい。全然……分かりません」

「あぁ、もう面倒くせぇなぁっ! 好きな女じゃなきゃ、手なんて出さねーよ。今まで、俺をなんだと思っていたわけ?」

「えっと……退屈しのぎのオモチャにされているのかなって」

「はぁっ?!」


 一条さんは最強に恐い顔をして、私を睨み付けた。


「だ、だって……付き合ってもないのに、手を出されたし。脱げとかすぐ言うし……変なお仕置きとかばっかり」


 私の言い分に、彼は気まずそうな顔をする。


「まぁ……その辺は俺にも非があるとは思うけど」

「いや、そこは全面的に一条さんの非じゃないですか?」

「仕方ないだろ! お前の反応がいちいち可愛いから、我慢できなかったんだよっ」


 怒鳴った後に、再びしまったという顔をした一条さんは、「何言ってんだ俺は」と、目を覆うようにして、うつむいた。

 いちいち可愛いって言われた……。

 驚き立ち尽くす私の前で、彼はクシャクシャと髪をかき回すと、半ば投げやりな雰囲気で、私のことを見た。


「一目惚れだよ。泣きそうな顔してジムに駆け込んできただろ、お前。すぐに痩せさせてくれって必死な顔で言うから、大丈夫なのかよって、心配になって……」


 ふてくされた顔で、彼は続ける。


「そのくせ厳しめのイケメンでとか、勘違いも甚だしいこと言いやがって、自分で気付いて真っ赤になっているし。可愛いなこいつって思ったら、普段は単発の予約しか受けなかった俺が、気付けばお前の専属になっていた」


 嘘……。

 一目惚れだって。こんな私に……?


 多分、私はゆでだこのようになっているだろう。

 カァっと熱くなった頬に、恥ずかしくてうつむいた。


「ほら、その顔。お前の反応はいちいち俺の壺にハマるんだよ。まぁ、それに対する愛情表現が歪んでいたことは認めるけど」

「ゆ、歪み過ぎです……」

「でも、お前だって、嫌がっていなかっただろ」


 うっ。否めない……。


「で? お前、俺の事好きなの?」


 突然、ストレートに聞いた彼は、真剣な顔で私を見つめた。


「そ、そんな、改まって……」


 動揺する私を、逃がさないと言わんばかりの瞳で捕える。


「俺もクソ恥ずかしいこと正直に言ったんだ。お前も、ちゃんと答えろよ」

「あの……」

「俺のことが好きなの?」

「……はい。好きです」


 言った途端、ふっと一条さんは微笑んだ。


「俺もお前が好きだ。どうしようもないほどに」


 はぁうっ。本日二度目の心臓発作!

 それだけで、私はどこか別の世界に飛んでいきそうだったのに、彼は頬に手を触れて、ゆっくりとその整った顔を近づけて来た。


 あぁ、もう、無理。キュン死にする。

 彼の熱い視線に耐え切れず固く目を閉じると、しばらくして、そっと口付けをされた。

 ただ優しく触れただけなのに、体中に電気が走る。


 一条さんが好き……。


 それは私の胸の中にしっかりと刻まれて、もう決して消すことなどできないものとなった。


 彼の唇が離れてゆき、「花……」と甘い声で名前を呼ばれて……。

 ドクドクする鼓動を感じながら、ゆっくり目を開くと、切なげに私を見下ろす彼の瞳とぶつかった。そのまま、何も言わず私を見つめてくるから、私は彼の美しい瞳に捕えられたまま、瞬きをすることさえできない。


 永遠かと思われるくらい長い沈黙の後、私たちは互いにゆっくりと顔を近づけて、再び唇を重ねた。


「今日、お前を抱いてもいいか?」


 先ほどとは打って変わった情熱的な口付けで私の体を熱くたきつけた彼は、少しだけ掠れた声でそう囁いた。

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