第3話 子供達を責めないで

「ふはぁああ、ぁあ」


 公園の片隅にある、木陰に置かれた金属製のベンチに浅く腰掛けた俺は、背凭せもたれに体重を預けながら溜息を吐いた。

 外回りの営業は只でさえ精神的にキツいのに、夏場は肉体的なキツさが大きく上乗せされるんで、ウンザリさせられることこの上ない。

 風はまるでなく、ほこりっぽさと青臭さが混ざった熱い空気がよどんでいる。


「……うるせぇな」


 何で平日の昼過ぎだってのに小学生が――と疑問に思ったが、そういえばもう夏休みに入っている頃合だ。

 サッカーの真似事でもやっているのか、テンション高い声とボールの行き来する音が間断かんだんなく聞こえてきて、俺のストレス漬けの神経にトゲを刺してくる。

 公園の入り口で買ったペットボトル入りの緑茶が、妙に味が濃くて清涼感ゼロなのもイラ立ちに拍車をかけていた。


「そろそろ仕事に戻る、か」


 言いながら軽く伸びをすると、胃が刺激されたのか茶の苦味と昼飯の安い脂が混ざった、湿った長いゲップが出る。

 ラーメンと半チャーハンのセットを頼んだのはいいが、ラーメンは何にインスパイアされたのか黄ばんだ背脂とクズ野菜がドッサリと突っ込んであり、チャーハンは米が油に浸かっているような仕上がり。

 そして両方とも、業務用中華調味料を使いまくった同じ味だ。

 オマケに、セットについてくるスープも同じ味がして、ギトギトの油が浮いていた。


 三十をいくつか過ぎた年になると、もうそんな食事は厳しい。

 それをわかっていながら完食してしまう、自分の懐事情ふところじじょうと貧乏舌も忌々しかった。

 そんな思考が発する気怠けだるさを振り切って立ち上がり、傍らに置いていたカバンに手を伸ばそうとした瞬間。


 ボンッ! 

 ガサガサガサッ


 という音と同時に、カバンが地面に叩き落された。


「なっ――」


 何だ、何事だ、と声を上げかけるが、直後にベンチに影を作っている木の上からサッカーボールが降ってきたことで、何が起きたのかを大体把握する。

 サッカーもどきに興じているガキ共が、流れ弾ならぬ流れ球を蹴り込んだらしい。

 腹立たしいが、小学生に向かって怒鳴りつけるのも、大人としてどうか。

 そんな煮え切らない気分を抱え込みつつラクダ色のカバンを拾い上げ、しかめっ面で砂を払っていると、犯人と思しきガキがこちらに近付いてきた。


「ボール」

「……あ?」

「ボール。そこにあんだろ」


 何だこのガキは。

 ごめんなさいでもすみませんでもなく、更にはボールとって下さいでもなく、ナメた口調で要求だけを伝えてくる相手に、瞬時には処理できない感情が湧き上がる。

 小学校の四年か五年くらいだろうか。

 パッと見だと育ちの悪さを感じさせる要素はないのに、このフザケ放題な態度はどういうことなんだ。

 こういうのも、親や教師が子供を叱れなくなった最近の風潮の――


「チッ――聞こえてねぇの、オッサン? それだよ、そこの」


 ガキは舌打ちをしながら、俺の足元に転がっているボールを指差してくる。

 人生の先輩として軽く説教でもしてやるべきか、とか考えていたが、そういうのも面倒臭くなるレベルのクソガキっぷりだ。

 このまま話していたら、流れでブン殴ってしまいかねない。

 そう判断した俺は、ボールを拾い上げて蹴飛ばした。

 クソガキの頭上を越えて、高く遠くに。


「……ふぅん」


 ギャンギャン喚いて抗議してくるかと思ったが、ガキはどこか感心したように呟いた後で、薄ら笑いを浮かべて俺を上から下まで眺める。

 その動作を二往復繰り返してから、背を向けてボールの飛んだ方に小走りで去った。

 ちょっとした教育的指導でスカッとして終わるつもりだったのに、どうにも気分が悪い。

 

「ったく、クソガキが」


 腹立ち紛れに毒吐どくづいても、気分はまったく晴れない。

 食後の休憩をとるつもりが、不快感が増しただけで余計に疲れさせられただけだ。

 サッサと楽しくもなければやり甲斐もない、俺のやるべき仕事に戻ろう。

 そんな自虐的なことを考えながら、公園の外へと足早に向かう。


「おっ?」


 車止めのブロックが並んだ出入り口に差し掛かったところで、背中に小さい何かがぶつかって、カツッと音を立てて落ちる。

 コンクリートの地面に転がっているのは、直径三センチほどのゴツゴツした小石だ。

 さっきのガキの復讐か――犯人の姿を探してみるが、それらしき人影は見つからない。

 どこまでも大人をナメくさったクソガキの行動に、日本の将来に対する絶望を感じなくもないが、そんなことより今は仕事だ。


「ぅごっ」


 後頭部に衝撃が走り、思わずよろけた後で頭を押さえてうずくまる。

 指先を確認すると、僅かだが血がついていた。

 振り返ると、さっきのガキがジャングルジムの上に座って、左手に持ったY字型のパチンコをクルクルと回している。

 背中に飛んできた石もあいつの仕業か、と思うと同時に本気の怒りがこみ上げる。

 いくら頭の働きが鈍い小学生だろうと、流血沙汰はシャレにならないって程度はわかりそうなもんだが。


「ッザケやがって……」


 手を出すのはマズいと判断する理性は残っているが、このまま見逃してしまえば一ヶ月くらいはイライラを引きずりそうだ。

 ちょっと考えた後で、あのガキをトラウマが残るくらいおどしまくってやることに決め、俺は公園内へと戻っていった。

 クソガキはまだ、同じ場所でニヤニヤ笑いを浮かべている。

 ムカつくその面が怯えた泣き顔に変形するのを想像し、怒鳴り散らすのを我慢してジャングルジムの方へと大股で近付いていく。


 あと五メートルくらいのところで、ガキは流れるような動きで素早くジャングルジムから下りて、コチラに毒気たっぷりの歪んだ笑みを向けてから逃げる。

 散々に耐えてきたが、もう我慢の限界だ。

 この世間知らずの馬鹿なガキに、大人をマジギレさせることの恐ろしさを思い知らせてやらねば。

 そう決意し、ガキの背中を見定めながら本気の走りを見せて――やろうとした直後、視界が唐突に乾いた地面で一杯になった。


 何だ、何が起きた。

 そんな混乱からはすぐに立ち直れたが、自分が転んだことへの混乱は収まらない。

 咄嗟とっさに手を伸ばし、顔からズッコケるのはどうにか回避したものの、シャツとスラックスは土埃つちぼこりに塗れて酷い有様だ。

 久々の全力疾走で足がもつれたのか、と思ったが違う。


 逃げたガキとは別のガキが、つんいになった俺を見下ろしている。

 コイツが、足を引っ掛けるかどうかしたのか。

 雰囲気的にさっきのガキと同年代っぽい、小太りで短髪の生意気そうな小学生。

 とりあえず、このガキをとっ捕まえて締め上げないと――


「おぅ、りゃ!」

「ぶぉあ?」


 そう考えて身を起こそうとした瞬間、変な高い声が聞こえると共に視界が派手にブレた。

 半秒後に熱さを感じて、数秒遅れて痛みがやってくる。

 地面に突っ伏しながら、自分の身に起きたことが信じられず、転んだ瞬間より深刻な混乱に見舞われる。

 このガキ、俺の顔を――大人の男の顔を蹴りやがった。

 口の中に、鉄と砂を混ぜた味が広がる。


「ぁんのつもりだぁ! ゴゥラッ!」

「うゎはっ、キレてるキレてる。コエーコエー、チョーコエーマジコエー」


 血の混ざった唾を吐いて、裏返りかけた大声で怒鳴りつける。

 だけど、太ったガキは言葉とは裏腹にまるでビビった様子もなく、ヘラヘラ笑いながら俺との距離を広げる。

 もうダメだ、このデブガキもあのクソガキもボッコボコにブン殴る。

 死なない程度の手加減はしてやるつもりだが、もうどうなっても知らん。


「待てよ、オイッ!」

「待てと言われて待つバカいませ~ん。バッカじゃないの~」


 いかにも小学生なボキャブラリーを駆使し、デブガキは見た目にそぐわないフットワークでもって逃げる。

 脂っこいメシが胃にもたれてるのに走らされて、かなり気持ち悪くなってきた。

 頭は痛いし口の中は切れてる――どうして俺がこんな目に遭ってるんだ、クソッ。

 意味不明すぎて、もう頭がオカシくなりそうだ。

 いくら最近のガキが大人をナメてると言っても、こんなに正面からケンカを売ってくるモンなのか。


「待てっつってんだろっ、ボケがっ!」


 急な方向転換に失敗して足を滑らせ、失速したデブガキの襟首えりくびを捕まえる。

 トイレと植え込みの陰になった、公園の外からは死角になっていそうな場所。

 ここならば、いらん邪魔が入ることもなさそうだ。


「おぅコラ! ミニブタッ! 覚悟はできてんだろ、なあっ、どうなんだ!」

 

 ガキの向きを変えて胸倉を掴み、見下ろしながら大声で怒鳴りつける。

 しかしデブガキは、こっちが何を言っても大してビビる様子もなく、何も言わずにシラケた面で見返してくるばかりだ。

 予想外の反応に気勢をがれるが、腹立ちが消えてなくなるには程遠い。

 とりあえず、ビンタでもかまして泣かしてやるとするか――


「いった……ハァア?」

「調子のんな。あとクチがクセェんだよ、おっさん」


 右手に鋭い痛みが走り、何事かと思わず手を離す。

 パタタタッ、と音を立てて水滴が飛び散り、地面を湿らせる。

 これは血、俺の血だ。

 デブガキの手には、小型のカッターが握られている。

 手の甲を斬られた――マジか、そこまでやるのか。


「これっ、おめっ、シャレんなってねぇぞ!」


 こうなるともう、警察に任せるような話だ。

 相手が子供とかは関係ない、本格的な傷害事件になっている。

 かなり深くいかれたのか、右手からの出血は止まらない。

 スマホを取り出した後、犯人の画像を残しておくべきじゃないかと気付き、逃げもせずにこちらを睨んでいる、返り血でシャツを汚したガキの写真を撮影しておく。

 それから110をプッシュしようと、利き手じゃない左手で操作したのだが――


「くおぅ?」 


 肘に予期せぬ衝撃が来て、スマホを取り落とした。

 ポン、ポン、と跳ねる何かが視界から消えて行こうとする。

 サッカーボールだ。

 飛んできた方に振り向くと、また別のガキがいた。

 身長はあるものの肉付きが薄い、バランスの悪い体型の小学生。

 クソガキやデブガキの仲間か――手を斬られた衝撃で冷えかけた頭に、再びカッと血が上る。


「いい加減にしろよ、おい……」


 自分が発したとは思えないような、毒々しく重い声が自然と漏れた。

 ボールを蹴ってきたヒョロガキを睨み、砕けそうなほどに奥歯を噛み締める。

 とりあえず、いきなりカッターで斬りつけてきやがった、頭のおかしいデブをボコる。

 そう決めて動こうとするが、さっきまでそこにいたデブガキがいない。

 どこ逃げやがった――周囲を見回そうとした瞬間、猛烈な痛みが背筋を通って頭のてっぺんから抜けた。


「ぶぅうっ?」


 背後から股間を蹴り上げられた――地面に転がってのたうち回りながら、自分が何をされたのかを知る。

 そのまま起き上がれずにいると、やがて四方八方からの衝撃が襲ってきた。


 何だこれは――

 何で俺はこんなことになってる――


 状況を把握できないまま、俺は本能的に頭を抱えて丸まる防御姿勢をとった。

 やたらと長く感じられた苦痛に塗れた時間は、後頭部に硬いものが落ちてきた感覚を最後に途絶えた。


「――い、おぉい。大丈夫ですかぁ」

「うぅ……」


 強く肩を揺さ振られ、目を開けようとするが上手く開かない。

 全身の各所からは、痛みと痺れの信号が発せられている。

 ジッと不快感に耐えていると、徐々に意識が覚醒していった。

 何だかわからない音の塊は、話し声と足音と無線のノイズに変わる。

 息が詰まって呼吸が上手くできない。

 咳き込むと血と埃の味がする。

 

「立てますか」

「ぅあ、っは……はぁ」


 地面に震える手をついて、身を起こした。

 アチコチ痛むが、入院が必要になる程の怪我はしていないようだ。

 もっともその場合、警官より先に救急隊が来るだろうが。

 そう、俺に声をかけてきたのは制服姿の若い警官だった。

 誰かが通報してくれたのか、或いは偶然通りがかったのか。


「通報が、ありましてね」


 怒りを押し殺したような面持ちで言う警官の視線の先には、中年の警官と三十くらいの婦警、それとさっきのクソガキ共の姿があった。

 二人の警官も険しい表情で、時々こちらの様子を窺うようにチラチラと見てくる。

 ガキ共は、さっきまでの憎たらしさが嘘のように、緊張してビクついた雰囲気だ。

 どれだけ世間をナメていようが、国家権力相手じゃどうにもならないらしい。

 

「あっちでも、事情を聴いてるんですけど……何があったんです?」

「いえ、私も何故こんな目に遭ったのか、よくわからんのですよ、実際」


 クソガキ共の方を見ながら言うと、警官の視線もそちらに向かう。

 相変わらずその目が冷たいのは、ある程度は事情を聞き出しているからか。


「彼らは全く知らない子たち、ですか」

「ええ。いきなり石をぶつけられるわ、カッターで手を斬られるわで、もうワケがわからなくて……ホラ」


 土埃と血でまだらになった、まだ傷口が生々しい右手の甲を警官に見せる。

 それから、自分の不利になりそうな部分を省きつつ、何をされたかを説明する。

 思案顔で俺の話を聞いていた若い警官は、近くに転がっていたスマホを拾い上げる。

 ディスプレイに派手なヒビが入っていて、つい大きめの舌打ちが出た。


「これは、あなたのですか」

「ええ……あ、そうだ。証明する必要もないかも知れませんけど、犯人の証拠になりそうな写真を撮ってあります」

「見せてもらっても?」


 特にマズいものは入ってないよな、と頭の中で軽く確認してから頷き返す。

 そして、最後に撮影した画像をパパッと呼び出して、警官の方に画面を向ける。


「……なるほど、動かぬ証拠だ」

「そりゃもう、動画じゃなくて静止画ですし」


 苦虫をダース単位で噛み潰したような表情で言う警官に軽口で返すと、殺意の波動がたっぷりと詰まった目でにらまれた。

 おや、と思って首を伸ばし、画面を確認してみる。

 そこには、あのデブガキが写っていた――が、血のついたカッターを手にこちらを睨んでいるのではなく、トイレの個室で泣きそうな顔を浮かべながら生尻を晒している、撮った憶えのない画像だった。


「んん? はぁ? いやあの、違っ――」

「とりあえずですね、ここじゃ何ですから、詳しい話をあちらの方でお願いできますか」


 警官が指し示す方向には、パトカーが停まっていた。

 どう説明すれば誤解が解けるのだろう。

 いや、あのガキ共のタチの悪さからして、警官に俺が変態ショタコン野郎だって設定で、『友達を助けるために戦った』みたいな話をしていてもおかしくない。

 そこに加えてこのケツ出し画像じゃ、完全に詰んでる。

 個人的には何の価値もないガキの尻でも、法律的には立派な児童ポルノだ。


 中年の警官がやってきて、俺は二人に挟まれるように連行される。

 手錠こそかけられていないが、逮捕はまぬがれなそうな雰囲気だった。

 そういえば、俺のカバンはどこに行ったのだろう。

 ガキ共の方をチラッと確認すると、全員が怯えたような顔で俺を見送っている。

 まったく、見事なまでの演技力だ。


「ハッ――」

「フフ」


 あんまりな展開に、うつむきながら自嘲の笑いを漏らすと、そこに小さく誰かの笑い声が被ったように思えた。

 スッと首を巡らせると、最初にボールを蹴ってきたガキと目が合った。

 その唇が小さくゆっくりと動いて、無言のメッセージを伝えてくる。


『バーカ』


 確かにその通りで、反論の余地はなかった。

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