第六章

第33話 プリントを届ける役割はご近所さん

「ここ、か」

 水曜日の夕方。黎は、琴音から渡された地図を頼りに、雨ノ森家を訪れていた。

「……しかしまぁ、こっちも凄いな」

 思わず呟く。父親が出版社の社長という事で、ある程度の想定はしていたつもりである。しかし、それでもこれは驚く。と、いうか一体何坪あるんだ。鷹野家――琴音の家――とは対照的に、こっちは和風な佇まいだった。とても一家族の住居とは思えないレベルの敷地を塀がぐるっと囲んでおり、唯一中を伺い見る事が出来るのは正門(と、いって良いのかは分からないが)の部分からだけ。そして、そこから垣間見える邸宅は由緒正しき日本家屋といった風情だった。

(女装、断っといて良かったな……)

黎はほっと息を吐く。この家を訪ねるのに、女装は無いだろう。しかし、彼女はそう思わなかったらしい。



          ◇      ◇      ◇



 話は二日前。月曜日の放課後に戻る。


「いや、だから、あの子と会う時に女装しなさいって」

 琴音は抽象的な表現が分かりにかったのだと思ったらしく、そう言い直す。

「え……なんでですか?」

「何でって……ほら、あの子は“遥”が好きなわけだし」

「は、はあ」

 確かに、琴音の言う通りだとすれば、“遥”の方が久遠は喜ぶのかもしれない。しかし、

「でも、その状態で久遠さんの家に行くんですよね?」

 琴音は「何をいまさら」といった感じで、

「そうだよ?」

「っていう事は、その状態で久遠さんの家族と顔を会わせるわけですよね?」

「……そう、だよ?」

 琴音は言いよどむ。これは、考えてなかったな。

「その時、僕は何て自己紹介すればいいんですか?」

「えっと……普通に、遥ですって……」

「それで、どうやって会えば良いんですか?」

「それは、お見舞いだって言って」

「どこの誰だか分からない女の子が突然行って、会わせてくれるんですか?」

「うっ……」

 ついに言葉に詰まる。そう、遥として訪問した時の問題はそこだ。少なくとも、話を聞く限りだと、久遠の母親はかなり厳格な人間だ。まあ、流石に級友のお見舞いを門前払いする事は無いと思うが、その相手に見覚えが無かったらどうだろう。いや、確かに殆どの級友の顔に見覚えは無いかもしれない。しかし、そうだとしても、名前で確認する事は出来る。その時、実在しない「月守遥」を名乗ってしまうと、警戒されてしまう可能性がある。普通なら、こんな事は考えなくていいのだが、相手が相手だ。考え得る限りの問題点は排しておきたい。

「で、でもさ!」 

 琴音はそれでも納得が行かないらしく、

「やっぱ、遥として会う方がいいと思うんだ。うん」

「と、言われてもですね……」

 さて、どうしたものか。流石に実在もしない名前を言う訳には行かない。しかし、彼女の考えも分かる。“黎”も“遥”も、どちらも両立するには、

「あ」

「ど、どうしたの?」

「それなら、持って行く……っていうのはどうでしょう?」

「持って行く?」

「はい。服……は無理ですから、どっちにしても通用する物を着ていくとして、後はウィッグとカラコン。この二つを持って行けばいいんじゃないかなぁ……と」

 これが、恐らく実現可能なぎりぎりのラインだろう。

「うーん……」

 琴音はまだ若干の引っ掛かりを感じながらも、

「まあ、それがいいのかなぁ」

 取り敢えず納得し、

「んじゃ、取ってくるね」

 すたっと立ち上がる。

「え、あの、何をですか?」

「そりゃ、ひーちゃんに渡す荷物」

「……はい?」

 琴音は「あれ?」と首を傾げて、

「言ってなかったっけ?」

「はい」

「そっか……えっとね、あの子、久遠の荷物は大体あの人が持って行ったんだけど、生徒会用の資料が生徒会室に置きっぱなしになってたらしくって。丁度いいから、黎にはそれを持って行ってもらおうかなって」

「な、なるほど……あれ?」

「ど、どした?」

「でも、それって生徒会で使う物、ですよね?」

「まあ、そりゃあね」

「って事は、それ、別に持って行く必要は」

 琴音はけろりと、

「まあ、ないね」

「ですよね」

「まあ、でも、忘れ物な事は確かだし、口実って事で」

「は、はあ」

 琴音はくるりと翻し、

「んじゃ、ちょっと取ってくるね」

 部屋を後にした。



          ◇      ◇      ◇



 琴音は数分もしない内に舞い戻り、

「ほい、お待たせ」

 紙袋を黎に手渡す。

「ど、どうも」

 黎は思わず中を覗き見る。そこにはクリアファイルで綺麗に分類されたプリントと一冊のノートが入っていた。

「しっかし、几帳面だなー」

「うわぁ」

 気が付くと、琴音も覗き込んでいた。と、言うか顔が近い。当の本人はそんな事は気にもせずに、

「よっ……と」

紙袋の中から一つ、クリアファイルを取り出して眺める。

「……それ、生徒会役員以外が見ていいんですか?」

 黎はじっと琴音を見つめる。しかし、そんな事は全く気にせず、

「ダイジョブでしょ。そんな機密資料をこんなところには入れない……」

「ど、どうしたんんですか?」

 やっぱり、琴音が見ては駄目だったのではないか。「持ち出し厳禁」とかそんな事が書かれ、

「……ねえ、黎」

「な、なんですか?やっぱり、役員以外が見たらまずい物でしたか?」

「いや、そうじゃなくって。今年の特別枠って、演劇なの?」

「え、そうなんですか?」

 初耳だった。それもそのはず。本来ならば今日、その事について話し合うはずだったのだから。

 琴音はファイルを黎の方に向け、

「ほら、ここ」

 一か所を指さす。

「ほんと、ですね」

 なるほど。確かに演劇だ。しかし、

「でも、これがどうしたんですか?」

 それだけの事だ。はっきり言って驚くような話じゃ、

「いや……あの子知らないのかなって」

「何をですか?」

「奏が演劇にも手を出してるって事」

「…………え」

 固まる。それは、どういう事だ。

 琴音は戸惑いながら、

「えっと……黎は奏が漫画家、それから小説家として活動してる事は知ってるよね」

「は、はい」

「奏はね……去年位からだったかなぁ?その辺りから劇作家としても活動し始めたんだよね」

 劇作家。そのフレーズに黎は聞き覚えがあった。まさか、

「……ちなみに、ペンネームは?」

「ペンネームか……ちょっと待っててね」

 琴音はスマフォを軽く操作し、

「えっとね……ペンネームは、」

 画面を確認しながら、

朱葉あけはだって」

 そう告げた。

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