第34話 人前に出るのだって準備が必要だ

 時は戻り、水曜日の夕方。黎は久遠の荷物と、ウィッグにカラコン。そして、一握りの疑問と一緒に雨ノ森家の前に居た。

「多分、成功するまでは教えたくなかったんじゃないかな?」

 琴音の推理はこうだった。奏は去年から劇作家として、漫画や小説とは名前を変えて活動していた。それは間違いない。しかし、まだ成功した、とは言いきれない段階に居る。久遠にとっての奏は“あこがれの姉”である。だから、成功するまではその事実を隠しているつもりなのではないか。なるほど確かにおかしな話では無い。

 それでも、黎は引っかかっていた。幾らペンネームを変えていたとはいえ、同じ人間なのだ。作風だってあるだろう。漫画家や小説家としての奏を知っている人から見れば、分かるはずなのだ。

 しかし、以前、黎が見たスレッドに、そういう意見は無かった。勿論、スレを立てた人間は別だろう。しかし、それ以外のレスは大体が否定的だったと記憶している。これは一体どういう事なのだろうか。

(本人に、聞く、しかないか……?)

 幸い、黎は奏本人の連絡先を知っている。ただ、彼女は黎に対して偽名を使っていた。勿論、オンリーイベントで会っただけの人間に本名を教えることは無いだろう。しかし、わざわざペンネームでもない名前を作るほどだ。黎が「調さんの正体を知っています」と言っても知らぬ存ぜぬで通される可能性もある。というか、多分そうなるだろう。

「……分からん」

 だから、結局の所は棚上げするしかなかった。気にはなる。しかし、目下、黎が考えなくてはならないのは久遠との事だ。奏との事では無い。琴音は久遠が奏に依頼しなかった事が気がかりだったようだが、それだって、知らされていなかったのならば仕方ない。むしろ、奏が意図して隠しているのだから、うっかり口を滑らせてしまう事があってはいけない。

「……行こう」

 考えていても仕方ない。黎は絡まった思考の糸を断ち切るように一つ呟いて、敷地内へと踏み入った。


 

          ◇      ◇      ◇



 意外な事に、インターホンは普通だった。ボタンを押して、中と会話が出来るタイプ。これ以外に何があるのかと言われると困るが、家の外観を見ると、もっとアナログな形式でもおかしくないような気配が有ったので、多少びっくりした。

「よっ……と」

 待っていても仕方が無い。黎はインターホンのボタンを押す。するとピンポーンという耳慣れた音が響く。そして、やや遅れて、

『……はい、どなたでしょう?』

 声が聞こえる。これは……久遠の母親だろうか?

「えっと、久遠さんと同じクラスの、星守黎です。忘れ物を届けにきました」

 あらかじめの取り決め通りの内容を告げる。

 今回の作戦はこうだ。まず、琴音が久遠に連絡をして、黎が尋ねる日を決める。そして、「級友が忘れ物を持ってきてくれる」という内容を久遠から母親に伝えてもらう。そうすることで、唐突に訪れても門前払いを食らう事も無いだろう、という流れ。

『……少々お待ちください』

 少し間が空いたのでヒヤッとしたが、大丈夫。話はついているようだ。

 やがて、重々しい音と共に、扉が開き、

「お待たせしました」

 久遠の母が姿を現す。彼女は黎の事を見ているはずなのだが、どうやら覚えてはいないらしい。

「いえ、全然」

「そうですか。それなら良かった」

 久遠母は手を差し出して、

「それじゃ、お預かりします」

 えっ。

「えっと……」

 久遠母は何を戸惑っているのだろうという表情で、

「忘れ物を持ってきてくださったんじゃないんですか?」

「それは……」

 その通りだ。久遠が忘れた資料を持ってきたのだ。そこは間違ってない。問題は、

「あの、久遠さんは……?」

「あの子はまだ体調を崩しているんですよ」

 そこまでで言葉を切る。これは、どういう事だ。確かに、忘れ物を持ってきただけなら目の前に居る彼女に渡してしまえば良い。家族なのだから、それで解決である。わざわざ久遠に出てきてもらう必要は無い。

 しかし、今回は違う。久遠に出てきてもらわないと困るのだ。だから、琴音に連絡を取ってもらったわけだし、その意図は久遠本人も理解しているはずだ。だから、会えれば大丈夫だと思っていた。まさか、会わせてすらもらえないとは。

「えっと、でも、」

 困った。琴音から連絡を取った事は言えない。名前を出すだけで機嫌を損ねる恐れすらある。

 だから、

「久遠さんは……そろそろ体調が回復してきたと」

「でも、まだ本調子じゃないの。だから、今日も学校をお休みさせたのよ」

「えっと……」

 参った。そう言われてしまうと返す言葉がない。何分、学校を休んだのは本当の事なのだ。

 素直に渡さない黎を不審に思ったのか、

「あなた……何を考えているの?」

 その声には明らかな「疑念」の色が混じる。まずい。このままだと黎まで敵視される可能性がある。ここは素直に渡して、次の手を考えるしかないのか。それこそ、風邪が治って登校してくるまで、

「お母さん」

 奥から、聞き覚えのある声がする。久遠母は振り返り、

「久遠?駄目じゃないの、まだ寝てなきゃ」

「ううん、もう大丈夫。それより……星守君、来てるんでしょ?」

「そうよ。でも今忘れ物を受け取るところだったの。だから、あ、ちょっと!」

 制する声を無視して、久遠が横から顔を出し、

「えっと……」

 暫く視線を彷徨わせた後、

「中、入る?」

 久遠母は不機嫌さを隠そうともせず、

「何言ってるの。まだ治りきってないんだから。移したらどうするの?」

 額面通り受け取れば、娘の友人を心配する母親という風に取ることができる。しかし、それはあくまで表向きの話だろう。荷物を渡さない黎に対して向けたあの目。あれはどう見ても心配を掛ける相手にたいするものではない。

「だから、もう治ったって言ったじゃない。熱も下がってるし」

「駄目よ。月曜日もそんな事言ってたじゃない」

「そ、それは」

 月曜日。つまり久遠が倒れた日だ。どうやら、あの日は体調が悪いのを押して学校に来たらしい。それで、あの騒動。なるほど、それは確かに慎重にもなるだろう。

 しかし、

「あの……僕なら別に大丈夫ですよ?」

「……何ですって?」

「えっと、こう見えても体は強いですし、風邪とかも殆ど引きません。それに、万が一それで風邪を引いてもそれは僕の責任です。それじゃ、駄目でしょうか?」

 久遠母は別に黎に風邪が移る事を気にしている訳では無いだろう。しかし、一度口実に使った以上、責任は自分で取ると言われれば断る訳にもいかないはずだ。

 久遠も横から、

「だ、大丈夫よ。月曜日とは違ってちゃんと熱も計ったし」

 つまり、月曜日は熱も計らずに来たという事か。随分と無茶な事をしたものだ。

 久遠母は、実の娘まで反旗を翻した事が余程気に入らなかったのか、

「……勝手にしなさい」

 一言、吐き捨てるように告げて、去っていく。

「あ」

「えっと……」

 そうなると、当然残るのは黎と久遠のみである。困った。何せ最後に顔を会わせたのは月曜日の“あの時”だ。二人きりにされて、さあ会話をしろと言われてもどう切り出したらいいか分からない。

 やがて、久遠が、

「取り敢えず、どうぞ」

 そう言って中を指さす。断る理由はない。黎は無言で頷いた。

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