第9章:世界は二人に優しかったか?

9:世界は二人に優しかったか?

 南から爽やかな風が吹いている。

 セフィーは、アルヤ王国の南にあるという海というものに思いを馳せつつ、窓際で本を読みながら涼んでいた。

「セフィー、いるか?」

 扉の代わりにかけられている目隠しの布の向こうから、シャムシャの声が聞こえてきた。セフィーはすぐに「いるよ」と答えた。

 布を払い、シャムシャが大きく膨らんだ腹部を抱えて入ってくる。

「何をしていた?」

「本をね、読んでた」

 セフィーの手元を見て、シャムシャが「結局お前がそれを読んでいるのか」と溜息をついた。

「それはナジュムが南部の視察に行った時に子供にと買ってきたものだろう」

「僕の読み書きの程度はこんなものだよ、発音記号がついていないと分からないんだ。それに、僕は、アルヤ人の民話や神話をあまり知らないからね。面白いよ」

 本の表紙を眺めて「説話集か」と呟いたのち、シャムシャは寝台に身を投げた。セフィーが「疲れた?」と訊ねる。

「そんなお腹で働くから」

「大丈夫、今ようやくまとまったところだ。これで生まれるまではお休みだぞ」

「まとまった? 何が」

 シャムシャが笑った。

「ライルの縁談が、だ」

 セフィーは一瞬目を点にした。思わず「本当!?」と叫んでしまった。

「えーっ、やっとまとまったんだーっ、お相手はやっぱり――」

「メフラザーディー家のレティシアだ。あーよかった私もほっとした」

「結局何がどうなって落ち着いたの?」

「レティシアが、ライル様と結婚できないなら死にます、と言ったら、ライルが重い腰を上げた」

「……ライルはそういう星の下に生まれたんだね」

 「まあいいだろう」とシャムシャが言う。

「レティシアは白将軍家の娘で剣も馬も知っている。白軍で長年看護婦をやってきたから怪我の手当てもできる。家の方もルムアが男の子を産んでいて安泰だ」

 ということは、つまり、

「レティシアなら、ライルがチュルカ平原に帰る時について行ける」

 セフィーも「そうだね」と微笑んだ。

「でも……、ライルが帰ってしまったら、寂しいな」

 シャムシャはそれを笑って一蹴した。

「その時までに私がばんばん子を産んで宮殿を賑やかにしておいてやろう。協力しろよ?」

「ほ……本気ですか?」

「ナジュムの奥方に負けていられない。あいつらぽこぽこ殖えやがって」

「あの夫婦と張り合わないでください」

 その時だった。

 突然、窓の外から怒鳴り声が聞こえてきた。ラシードの声だ。

「こらーッ! 殿下ーッ!!」

 セフィーとシャムシャは、顔を見合わせた。それから、ふと、噴き出した。

「ちょっと行って見てきてやってくれないか? ぐずるなら連れ帰ってくれても構わないから」

「はぁい、了解。行ってきまーす」


 回廊の柱の陰に小さな男の子が座り込んでいた。回廊を歩いてきたセフィーの方につむじを見せ、庭の方を睨んで固まっている。

「こら! ハヴァース!」

 男の子が肩を震わせた。それから、慌てた様子で立ち上がり、セフィーの方へ振り向いた。その蒼い瞳いっぱいに涙を溜めて「見つかった」と呟く。

「と、父さま、あの」

「何をしているの? 剣の稽古はどうしたの」

「え、えと、ちがうの、あのね」

 やがて、言葉に詰まったらしい。彼はうな垂れて「ごめんなさい」と呟いた。セフィーは膝を折って目線を合わせた。

「あのね、ハヴァース。父様はお前を叱りに来たのではありません。どうしたの? どうして出てきてしまったの。ハーのお話を聞きたいな。お話、できるよね?」

 小さなハヴァースは、しばらく黙ってセフィーを眺めていた。ややして、「うんとね」と口を開いた。

「ぼく、もう、ケンするの、ヤダよ。ラシードもライルもすごくおこるんだ。つかれたし、いたいよ」

「痛い? どこが?」

 小さな手の平が差し出された。手の平にまめができていた。セフィーが「なるほど」と頷く。

「それで、逃げてきちゃったのか」

 ハヴァースが上目遣いで「ごめんなさい」と言った。セフィーは「だめでしょう」と苦笑した。

「ラシードもライルも忙しいのにハーのためにやってくれているんだよ。だから、勝手に出てきちゃだめ。お休みしたい時は、ちゃんとお口でそう言わないといけません」

 驚いた顔をして「お休みしてもいいの」と訊ねてきた。「もちろん」と頷いて返した。

「あのね、ハヴァース」

 まだ華奢な両手首を取り、一歩分自分の方に引き寄せる。それからそっと、その髪を撫でる。

「ハーは、この前、五つのお誕生祭の時に、父様や母様や今度生まれる赤ちゃんのために、大きくなったら立派な王様になるって言ってくれたでしょう」

 ハヴァースが素直に頷く。

「でもね、ハー。アルヤ王国の王様は、剣もとっても強くなければなりません」

「えーっ」

「母様も、今はお腹に赤ちゃんがいるからしないけど、剣がとってもお上手なんだからね」

「父さまをまもれるくらいー?」

「……も……もちろんですとも」

 「だけど」とセフィーは続けた。

「母様やラシードは、ハーに王様になってほしいと思っているけどね。父様は、ハーがなりたいんならなればいいし、なりたくないならならなくてもいいと思ってる。王様は、とっても大変なお仕事です。母様も、ハーに会えないくらい忙しいでしょう」

 ハヴァースはすぐに首を横に振った。

 そして、抱きついてきた。

 首に細くて柔らかい腕が回される。

 セフィーも、彼の小さな背中を撫でるようにして抱き返した。

「うぅん、ぼく、ちゃんとつよくてりっぱな王さまになります。父さまや母さまをまもるんだよ。あと、赤ちゃんも」

「……そう……」

「でも、今日はもうお休み」

 ハヴァースを離しつつ、「分かった」と言ってセフィーは微笑んだ。

「じゃあ、ラシードに今日はお休みにしてと言いなさい。次からまた頑張るから、今日はもうよして、って。ちゃんとお口で言わないとだめ。手も痛いのってちゃんと見せて。ハーはできるよね?」

 ハヴァースが「うん」と頷いた。セフィーは、彼をもう一度抱き締め、「いい子」と囁いた。

「ぼく、お兄さまになるから、できるんだよ」

「それはそれは、頼もしいね。でも、一応父様もついて行こうね」

「うんっ! 父さま、ダイスキっ!」

 ハヴァースに手を引かれて立ち上がる。

 ハヴァースは大きくなった。そんなに急いで成長してどうするのだろう。いつまでも小さいままでもいいのに、とセフィーは思うのだ。

 あれから六年が過ぎた。

 あの翌春、シャムシャは蒼い瞳の男の子を産んだ。指が五本ずつついた手足を二本ずつもっていて、適切な場所に適切なだけの毛の生える、薄桃色と茶色の中間の明るい色の肌をした子供だった。生まれたばかりの頃は細くて色がはっきりしなかった髪は次第に柔らかな薄茶色になった。

 シャムシャは産んだ子に迷わずハヴァースと名付けた。王位継承権第一位の男児誕生に沸き立っていた国内はその忌まわしい名に一度大騒ぎになったが、今はもう誰も何も言わない。セフィーも何も言わなかった。シャムシャの胎内には、今、第二子がいる。もしもその子も男の子だったら、彼女はセターレスと名付けるかもしれない。でも、セフィーはそれでいいと思う。

 ハヴァースが大きな怪我や病気をすることはなかった。シャムシャやライル、ラシードや宮中の女官たちに愛され、かしずかれて育った。

 セフィーはというと、生まれたばかりの頃は触れるのも嫌だと思って避けていた。だが、顔を見せれば笑み、話し掛ければ声を上げる赤子に、少しずつ、少しずつ、懐柔された。歩くようになれば後ろをついてきてしまう。話すようになれば自分を父と呼ぶようになってしまう。一歳になるまで一度も抱いてやったことなどなかったのに、結局、いつしか日常をともに過ごすようになっていた。

 つい数日前、ハヴァースは五歳になった。アルヤ社会では成人として認められるのは十五歳だ。あと十年は、彼にとって、長いだろうか、それとも短いだろうか。

 その時までアルヤ王国が彼にとって優しい国であればいいと思う。

「あ」

 ハヴァースが突然途中で立ち止まった。「やっぱりこっち」と言って右へ曲がった。それまで庭をまっすぐ突っ切って白軍の稽古場に向かうつもりでいたセフィーは慌てて「どこに行くの」と訊ねた。

「こっち。いいからこっちきてっ」

「え、え? こらっ、ハヴァース!」

 いつの間に走るという行為を覚えたのだろう。彼は思いの外速く駆けていってしまった。

 追いつき、捕まえたと言って手を伸ばそうとした時、ハヴァースが立ち止まった。

「見て見てーっ、さいたーっ!」

 顔を上げた。

 目の前、庭の西の端の回廊から回廊までの間に、大きな赤い花がたくさん咲いていた。

「うわぁ……いっぱい……」

 ハヴァースの身長ほどもある草丈に、生い茂った緑の葉と大きな赤い花弁のついた大輪の花が、いくつもいくつもついている。どれもまっすぐに空を向き、元気よく花を咲かせている。

「ぼくねぇ、おにわのおじさんとまいにちお水あげたんだよー」

「そうだったの……。これは、すごいねぇ。咲いてよかったねぇ」

「でもね、父さまに見てほしいの、こっち」

 ハヴァースの右手がセフィーの手をつかんで引いた。セフィーはハヴァースに導かれるままに花の目の前を歩いていった。

 ハヴァースが左手の指で「これ」と一つの花を指した。

 セフィーは、目を、丸くした。

 他の花はすべて派手な赤い色をしているのに、ハヴァースの指したそれだけは、真っ白だった。

「これだけ白いの」

 花弁の形や大きさは他の花と一緒だ。なのに色だけが完全に欠落している。明らかな色素異常、奇形だった。

 セフィーは、その花の前にしゃがみ込み、苦笑した。

「病気なんだね。摘んでしまおうか」

 セフィーが手を伸ばした、その時だった。

「だめっ」

 ハヴァースが庇うようにして花の前に自分のまめだらけの手を広げた。

「とらないでっ。これ、ダイジダイジだからっ」

「でも、ハヴァース。これだけ白かったら、おかしいでしょう」

「いいのっ」

 涙が、溢れた。

「これだけ白いの、かっこいいでしょ。みんなとちがくていいでしょ」

 ぼやける視界の向こう側で、ハヴァースの笑顔が、不安げな、泣き出しそうな表情に変わった。

「とーさまっ!?」

 世界はこんなにも優しい。

「父さま、どうしたのっ!? どこかいたいのっ!?」

 セフィーはハヴァースを強く抱き締めた。そのこども特有の高い体温が心地良かった。

「ううん、違うんだ」

 「あのねハヴァース」と、強く、強く抱き締めながら、囁く。

「ハヴァースも、おとなになったら、分かるよ。人間はね? 嬉しい時も、泣くんだよ」

 ハヴァースには理解できなかったようだ。彼はセフィーの腕の中で首を傾げた。口だけで「うん」と答えた。

「でも、うれしいの? なにがうれしいの? お花さいたから?」

「そうだね」

 今、幸せだ。と、思う。

「ハー。その、白い花。綺麗かな」

 ハヴァースは即答した。

「うんっ! 父さまみたいで、ぼく、スキ」

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マーイェセフィド 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid

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