7:ただそれだけの行為が難しい 4

 分かってはいたことだった。ただ思っていたより早くその時が来ただけだ。

 ライルはラシードの真正面に立ってセターレスの剣を受けた。

 アルヤ人にとっての王族は絶対だ。その瞳が蒼いというだけで、たいていのアルヤ人にはその者に対して何もできない。ましてラシードは幼い頃から王族を守るためだけに剣の腕を磨いてきた男だ。彼にハヴァースやセターレスは斬れない。

 たとえ今が裁判大臣の命によって罷免状を持ってきた時であったとしてもだ。

 だが、自分は、チュルカ人だった。

 力はまったくの均衡状態だった。ただやがて互いの剣が互いに弾き合ったためライルもセターレスも一歩引いた。

「久しぶりだな、ライル」

 ライルはラシードや周囲で怯えている白軍兵士たちに「退け」と怒鳴ったあと、セターレスをまっすぐ見据えた。セターレスは黒い筒袴に蒼い上衣を着ていた。これからいつもどおり南の塔に出勤するつもりだったのだろう。だがそれは今日の今この瞬間に終わったのだ。

「お前と剣を合わせるのは、俺が大華に行く前だから、四年ぶりか」

 二人とも剣を構え直した。ライルはチュルカ民族伝統の剣技の構えで、セターレスはアルヤ国軍式の構えを取った。

 しかし、皮肉なものだ。構えは出自のものでも、

「お前が俺の教えてやった剣で俺に斬りかかるとはなッ」

 間合いに踏み込んだ。剣と剣がぶつかり合い、弾き合った。手に痺れが伝わる。鼓動が速くなる。

 第二撃も太刀筋が見えた。そのまま迎えて受けた。剣と剣が重なった。当然だ。地に足をつけたまま一対一で相手と向かい合うやり方はセターレスに習ったのだ。

 太刀筋がかぶる。二人とも押すことも引くこともできない。

 セターレスが一歩を踏み込んだ。ライルは一歩引いた。一進一退、この距離を保つ。相手の隙を狙う。だが隙など見つかるはずがない。

 セターレスの剣が横に薙いだ。懐かしい感じがする。それもライルは剣で受けた。教えられたとおりだ。

 かつての自分は、年上のセターレスに力比べで勝てず、受け止めきれずにいた。

 今は、受け止めている。

 いける。

 ライルがまた引いた。ラシードが心配そうに「ライル」と呼んだ。劣勢に見えるのだろうか。確かにセターレスは最大限急いで攻めている。彼には後がないからだ。本当はがむしゃらに斬りたいところを一生懸命こらえているのが分かる。

 よく分かる。

 何度も剣を合わせたのだ。

 ――強くなったな。

 記憶の中のセターレスが微笑んだ。

 ――だが、お前はお前の剣も使うといい。アルヤ流に合わせ過ぎて自分を殺すな。

 目の前のセターレスを見た。

 セターレスの足は地に着いたままだ。アルヤ人は体が重いのだろうか。早くに農耕民族となった彼らは足が地についているのが好きだ。

 自分はどうだろう。

 セターレスが驚いた顔で手を止めた。ライルが突然剣を引き身を低くしてセターレス側へ踏み込んだからだ。

 刺してはだめだ。抜けなくなる。斬り捨てて走っていけるようにしなければならない。

 切っ先がセターレスの胸を軽く裂いた。血は噴き出なかった。まだ浅いのだ。

 自分は彼よりも軽い。

 自分は風とともに走る騎馬民族なのだ。風になる瞬間の空気は知っている。

 止まらない。止められない。

 そのままセターレスの後ろに踏み込んだ。

 セターレスが振り向き剣を構え直そうとした。彼は東大陸一の商業王国の王子だから剣まで行儀が良い。

 ライルは床を蹴った。

 止まる時は、死ぬ時だ。

 待たない。

 足が床についた途端剣を横から振った。

 血が勢いよく噴き上がった。

 セターレスの左腕が床に落ちた。

 それでもセターレスは残った右手で剣を握り続けていた。

 ライルはセターレスの真正面で剣を振りかぶった。セターレスは応じようとしたのか右手だけで剣を持ち直そうとした。

 一歩遅い。

 後は首を落とすだけだ。

 それだけだ。

 それだけなのに、

「何の真似だ」

 ぎりぎりで剣を止めたライルに、セターレスが言った。

 できなかった。

 自分は、憶えている。

 初めてセターレスに声を掛けられた時の安堵感、炎の臭いと弟妹の悲鳴が頭から離れず眠れなかったところをセターレスが慰めてくれた夜、セターレスに剣を教わって楽しかったこと、セターレスの大華帝国行きが決まった時はとても寂しかった、そして彼が帰ってきた時、ハヴァースの失墜を聞かされて絶句していた彼を見て、自分は何を思ったか。

 視界の隅にセターレスの左腕が転がっていた。昔は、あれに、抱き締められたりおぶられたりしたものだ。拾い上げて抱き締めたくなった。だが、今の彼はそれを許さないだろう。

 ライルは剣を下ろした。

「もう、抵抗はやめて、医者に診てもらってくれ。人間は血が足りなくなっても死ぬ」

 セターレスの白くなってきた顔や血液を噴き出し続ける先を失った肘を見たくなくなって、ライルは背を向けた。

「シャムシャは俺が説得する。兄妹なのだから――」

 だが、

「教えたはずだ。敵に背を向けるなと」

 腹に、衝撃が走った。

 下に目を向けたら、臍の右側辺りに刃が生えていた。

 刃が引き抜かれたので、後ろを振り向いた。セターレスが右手で剣を振り上げ、斜めに振り下ろそうとしていた。

 剣の動きがゆっくりに見えた。誰かが自分の名を叫んだのが遠くに聞こえた。

 けれど――

 セターレスは、途中で剣を手放した。床に剣が転がった。

 彼の胸に剣が生えていた。

 胸の刃は左に動いた。口から大量の血液を吐き出した。

 その体が、倒れた。

 後ろから、いつになく真面目な顔で荒い息をしているナジュムの姿が現れた。

 その手は剣伝いに流れてきたセターレスの血で真っ赤に染まっていた。

 言葉を失ったままのライルに、ナジュムが苦笑してみせた。

「すまない。君を傷つけられたのだと思うと、我慢できなかったんだ」

 向かい合って突っ立ったままのライルとナジュムの間に、蒼い顔をしたラシードが走ってきた。彼はセターレスを抱き起こすと、「殿下っ」と叫ぶように呼んだ。セターレスは一度咳き込んでふたたび血を吐き出し、「畜生」とだけ呟いて、目を閉じた。そしてそれきり、動かなかった。周りがざわつき出す。

「殿下……っ」

 ラシードはセターレスを床に寝かせると、蒼白い顔のまま立ち上がり、震える声で言った。

「グラーイス・ナジュム・フォルザーニー。貴様を……っ、王族殺しの第一級殺人罪で、逮捕するッ」

 ナジュムは「はいはい」と言って笑顔のまま両手を差し出した。

「そんなに怖い顔をしなくても、僕は逃げないから」

 ラシードが震える手でナジュムの手首を拘束した。ナジュムはそんな彼に向かって「大丈夫」と言った。ライルには何が大丈夫なのか分からなかった。ナジュムは生粋のアルヤ人であり、国内に親兄弟がある。王族殺しは拷問の末に斬首の上お家取り潰しだ。

 自分がやらなければならなかったのだ。

 ナジュムとラシードの背中が、遠くなっていく。「ナジュム」と叫んで振り向かせようとしたが腹の傷で思うように大きな声を出せない。

「ナジュム……っ」

 自分は、今日一日で、大切な人を三人も失うことになったのだ。アルヤ王国に逃げてきた時厚く迎えてくれたことに対する礼を、誰にもすることができなかったのだ。

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