7:ただそれだけの行為が難しい 5

 目眩がした。立っていられなくなりそうだった。

 だが、そんなライルを、誰かが後ろから抱き留めた。

 首だけで振り向いた。

 エスファーニー家の義父が「やれやれ」と言いながらライルの体を支えていた。

「そこにいるのは白軍の副長殿だな?」

 場の収拾のために部下に指示を出していた白い軍服の初老の男が、「はッ」と態度を改める。

 エスファーニー卿は何でもないような顔をして告げた。

「私の目には、セターレス殿下はハヴァース死刑囚の刑の執行が確定したことで世を儚み自害したように見えたのだが、どうだね」

 副長は一瞬呆けたように黙って瞬いた。だが、やがて「はッ」と短く答えて頷いた。

「まったく、若き軍神殿は早とちりであることだ。白将軍がきちんと取り調べもせず冤罪事件を起こしたとなれば問題であろうに。しかし、フォルザーニー家のご次男もちとやんちゃが過ぎる。一晩くらい独房に宿泊体験してもよかろう」

「はッ、実にそのとおりであります」

「機を見てラシード将軍にそう伝えること」

 いつの間に現れたのだろう、ナジュムの兄が一歩後ろで苦笑して、「おそれ入ります」と言って深々と頭を下げた。エスファーニー卿が「なんの」と言う。

「私とて息子の親友をむざむざ死なせるほど冷酷な男ではない」

 「でも」とライルは言った。裁判大臣自らが法を犯してはアルヤ王国は乱れると思ったのだ。だが言葉は続かなかった。目眩が激しくなってきていた。

 エスファーニー卿はまるでライルが何を問おうとしていたのか知っているかのように答えた。

「いいか、アルヴァス。セターレス王子は王に謀反を企てた重罪人、ゆくゆくは死罪になるものであったのだ」

 何と言ったらいいのか、分からなくなった。

 ひどい疲労感を覚えて、ライルは目を閉ざした。ハーディが「ライル君」と言って駆け寄り、意識を失って床に崩れかけたライルの体を前から抱き留めた。

「ハーディ殿、よろしかったらうちの息子をどこか落ち着ける部屋に運んでやってくれんかね」

 ハーディはすぐに「承ります」と答えて、近くにいた白軍兵士に担架を持ってくるよう言った。兵士もすぐに応じて動き出す。

「若い者には言えぬな」

 エスファーニー卿がぽつりと言う。彼と年の近い白軍の副長が「何がです」と問う。

「今のアルヤ王国は人材不足なので西大陸滞在経験者は殺せないとか、アルヤ王国一の富豪であるフォルザーニー家を敵に回したくないとか、そういうことをだ」

「自分はよろしいと思います、閣下。彼らもいずれそういうおとなの事情を知る時が来ましょう。自分はその時でよいと思っております」

「うむ、そうだな」




 空は青く、蒼く晴れ渡っていた。太陽が蒼く輝く美しい日だ。このような日ほど佳い日はアルヤにはないだろう。

 広場には大勢の人が詰めかけていた。

 ある者は好奇心で野次馬に来たのか嬌声を上げている。

 ある者は悲しみのあまり声を上げて泣いている。

 ある者は何かを怒鳴って白軍兵士に押さえつけられている。

 シャムシャは、その様子を、王のために特別に用意された物見台の椅子に座って眺めていた。

 何の感慨も湧かなかった。

 やがて黒服に黒い袋をかぶった男たちが罪人を引きずってきた。

 罪人は長かった薄茶の髪をすべて刈られて坊主頭をしていた。彼にとっては大変な屈辱だっただろう。

 それでも、今のシャムシャには何とも思えない。

「用意」

 広場の中央、シャムシャのいる物見台の斜め下にある壇上で、大きな湾曲刀を持った死刑執行人が合図した。太鼓が一斉に叩かれ始めた。見物人たちも異様な熱気に包まれた。

 罪人が壇上に座らされた。

「何か言い残すことはないか」

 執行人が訊ねた。

 罪人が顔を上げた。

 その瞳は、蒼かった。どうしようもなく、蒼かった。

「一つ……、お聞きしても、いいですか」

「何だ」

「弟は――セターレスは、今、どうしていますか」

 執行人は冷たく答えた。

「セターレス殿下は昨日お亡くなりになられた」

 罪人は大きく目を見開いた。

 次の時、声を上げて笑った。

「シャムシャ」

 目が合った。

 その途端、シャムシャは心臓が握り潰されたような気分になった。

 ハヴァースが笑った。優しい笑顔は記憶にあるままだった。

「君が死ぬまで一生僕は君を呪い続けるよ」

 終わりだ。

 シャムシャは目を閉じ、「やれ」と言った。アルヤ王国の太陽の下、刃が煌めいた。


 悲鳴と絶叫と歓声の入り混じった騒音に起こされ、ライルは目を開けた。すると横から、「気がつかれましたか」と言う女の声が聞こえてきた。

 声のした方に目を向ける。白いマグナエに白い女官服の見知らぬ女性が立っている。

「……あんたは……?」

「私は白軍付きの看護婦でございます。昨日からずっとライル様のお世話をさせていただいております」

「昨日から……?」

「はい。丸一日中眠っておいででしたよ」

 ライルは、体を起こすことなく、「そうか」と呟いた。

「外が騒がしいが……、何か、あったのか?」

 看護婦は一瞬ためらったようだが、あまり間を置かずこう答えた。

「今、死刑囚の首が刎ねられたところです」

 それにもまた、ライルは静かに、「そうか」と頷いた。

「少し……、一人にして、くれないか。動き回ったりなどしないから、本当に、少しの間で構わないから。俺を、一人に、しておいてくれないか」

 看護婦は、「かしこまりました」と言い、頭を下げ、扉の方へ向かった。

 扉が閉まったら、もう、我慢できなかった。

「ハー兄……っ、セータ兄……!」




 シャムシャが戻ってきた時、部屋には西日が差していた。

 白い敷布や敷布の上に広がるセフィーの白い髪が橙色に染まっていた。美しかった。

「セフィー」

 名を呼んでも、寝台の上で死んだように眠っているセフィーが返事をすることはない。

「セフィー……、やったぞ。頑張った」

 寝台の脇に座り込んだ。あまりにも疲れていて立っていられなかった。

「でも、これからもっと、頑張るから。これからが本番だ、これから、もっともっと、いっぱい、頑張るから」

 セフィーの手首を握った。温かかった。

 先ほど触れたハヴァースとセターレスの手は、ひどく冷たくて硬かった。

 セフィーは、温かい。

 これが、生きている、ということだ。

「頑張るから……、セフィーが生きていきやすいアルヤ王国をつくるから」

 涙が溢れた。

「だから」

 セフィーは、生きている。

 それだけのことがこんなにも嬉しい。

 ただ、心臓を動かし呼吸をしているというそれだけのことなのに、こんなにも、愛しい。

「生きていて」

 褒めてくれなくてもいい。呆れられても罵られてもいい。むしろ、セフィーがそうできるようになったら、自分はとても幸せだと感じることだろう。

 見てくれなくてもいい。呼んでくれなくてもいい。

 ただ、セフィーが存在している。

 それだけのことがこんなにも難しくて幸福なことだとは思わなかった。

「愛している」

 もういいから、ゆっくり休んでいて、と――その言葉は嗚咽になってしまって出てこなかった。

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