青春の繭

 深水は若い頃、某大手レンタルチェーン店でバイトをしていた。DVDではなくビデオの時代である。映画『タイタニック』が二本組であったのを昨日のことのように覚えている。「なんて場所をとるんだ」と憤慨した記憶がある。


 彼女は書籍担当だったが、レンタル料が割引になるのをいいことに、映画を漁るように観ていた。白黒から当時最新の映画まで様々である。


 その鑑賞法というのが、ちょっと暗い。

 深夜、真っ暗なリビングのソファにあぐらをかき、タオルケットを羽織る。目の前のテーブルには愛用の煙草。そして、わざと泣ける映画を選び、大号泣するのだ。一度に三本は観ていたが、必ず泣けるものを一本は観る。


 思いっきり泣くと、自分の中にたまっていた重苦しいものが、見違えるようにスッキリするのが好きだったのだ。禊というか、デトックスというか、心をまるごと洗濯したような気分だった。


 今思うと、なんとも奇妙で不気味な光景だっただろう。真っ暗なリビングで鈍く光る映画の画面、そして咽び泣く女。しかも、その姿はタオルケットという繭にくるまっているのだ。


 なぜタオルケットを羽織っていたのか。温かいから、というよりは、安心するからだと思う。もともとライナスの毛布はタオルケットだった女である。それに、包まれているという感覚が、世の中で擦れていた心に響いたのではあるまいか。


 アルバイトとはいえ、社会や仕事の荒波になんとか乗ろうとし、あちこちにぶつかっていた時期だった。血気盛んで、よく笑いもしたが、同時によく怒りもした。今では「怒ると腹がへって疲れる」などとのんびりしたがるのが嘘のようだ。


 青春時代は希望や熱意が空回りする日々だった。世間の不条理、理想と見えない将来の不安、そんな目に見えないものとがむしゃらに戦って傷ついた自分を、幼い日に心の拠り所だったタオルケットで包む。その繭の中で涙を流し、再生する。


 そして映画によって世界は広いことを思い出すのだ。自分の世界を狭くするのは、恐れや怯え、他人の威圧、思い込み、そんな類であり、気がつかないうちに視野を侵食していく。だが、涙で綺麗になった目は視界がクリアになり、映画は「あぁ、まだ行ったことのない世界がある」とその都度気づかせてくれる。


 以前、深水の大好きな友人がこう言った。


「布団にくるまってたくさん泣くといい。布団は子宮、涙は羊水。そしてあなたは生まれ変わる」


 この言葉は深水の宝物である。胸の奥にあるひだにこっそり隠してあって、ここぞというときに取り出すのだ。思えば、あのタオルケットの繭は子宮で、映画で流す涙が羊水だったのかもしれない。


 さて、今宵はここらで風呂を出よう。


 猫が湯ざめをする前に。

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