蓋は閉じられる
作蔵が投げた石は、老婆の鳩尾に命中した。
石に伊和奈そのものを詰めて、老婆に目掛けて当てた。
石が当たった老婆は鳩尾に両手をそえながら悲鳴をあげ、建家の床に膝を着けて背中を丸めていた。
ーー止すのだ。おまえは、おまえのそのものを打ち消すのか。
老婆は、一人芝居をしているかの様だった。
作蔵は、確信していた。
伊和奈は老婆の中に入り込むことが出来たと、老婆の中でひとつのことに立ち向かっている最中だと、じっとして見届けていた。
作蔵は伊和奈の帰りを待つと、じっとしていた。
ーーいない、此処にはいない。
老婆の独り言は止まらなかった。
目の前にいる作蔵にさえ視野に入れることなく、老婆は独り言を繰り返していた。
作蔵でも入ることが出来ない場所に伊和奈はいる。そして、何かと対峙している最中だと。作蔵がわかるのは、そこまでだった。
作蔵は、右手に“光”を握りしめていた。
伊和奈が帰り道に迷わないようにと、照らす用意をしていた。
ーー開けるな、開けるな。
老婆はうつぶせの状態でもがいていた。
様子からすれば、伊和奈が老婆の中にある何かを見つけて触ろうとしていると、作蔵は思いを馳せていた。
老婆は伊和奈がやろうとしていることを阻止しようと懸命になっていると、伊和奈もまた応戦しているかのように、抵抗をしているのだと、作蔵は見ていた。
老婆の呻き声ともがく姿。おぞましく、荒々しいとも言うべきの老婆。もはや作蔵は眼中にないという老婆の乱れた情況。
作蔵は、
老婆の動きがたまに止まっていると、作蔵は見据えた。
作蔵は歩幅を一歩にひろげ、直立不動の体勢をととのえる。目蓋を綴じて鼻から吸って口から吐くと、深い呼吸を5回する。
獲物を狙う獣のように、作蔵は瞬間を待っていた。狙いは老婆に定めて今か今かと、作蔵は待ち構える。
作蔵は右腕を老婆へとまっすぐと伸ばし、右手首を左の掌で掴む。吸っては吐くの呼吸の度に、右手の中で“光”が点滅を繰り返していた。
そして、作蔵は“瞬間”を捉える。
老婆の、老婆の動きが止まりつつあると作蔵は捉えた。
床に突っ伏した、自力では動けないだろうと息を吐くのもやっとだろうの老婆に声を掛けることすらなく、作蔵はとうとう動き出した。
作蔵の右の掌が目が眩むほどに輝く。
輝きは辺り一面の朧な闇を消滅させ、老婆の姿をはっきりと示していた。
雷鳴を彷彿させる轟き、切り目と似た閃光。
作蔵は“光”を老婆へと解き放す。
「伊和奈っ、戻ってこい」
作蔵の両手に“光”の帯の端が握り締められていた。作蔵は“光”の帯を弛ませまいと、まっすぐに張らせる。
踏ん張る両足が前へ引き摺られては後戻りを何度もしながら、作蔵は“光”の帯の表面を張らせた。
「作蔵っ」
「まだ手を離すなっ」
作蔵の、帯の端を握り締めている伊和奈の、老婆から脱け出した伊和奈に堪りかねての叫びだった。
「わたし、重いよ」
「無駄なことは考えるな。だからーー」
ーー伊和奈、こっちに来い……。
作蔵は、両腕をひろげていた。
伊和奈を受け止めようと、伊和奈を抱えようと作蔵は宙にいる伊和奈を見上げていた。
ーーいいの、本当にいいの。
ーーいいから、来い。いいから、来てくれ。
「作蔵。ああ、作蔵……。」
「いうな、何も言うな」
最初に指先。そして、腕を這う。
首筋、肩、腰。と、作蔵と伊和奈はお互いに手繰らせる。
「わたし、帰ってきた」
「ああ……。今は、寝てろ」
「うん……。」
伊和奈が、寝息を吹いて作蔵の腕の中にいたーー。
***
作蔵は、半纏を羽織っていた。
縫い目の糸が綻んでる隙間から綿がはみ出している半纏を羽織って炬燵に入っていた。
「ちょっと、たんまっ」
「ちっとも暖かくならないから、温度をあげさせてくれよ」
作蔵は炬燵布団を目繰り上げ、炬燵の中に頭と腕を突っ込ませていた。
「電気代があがる」
「頼むよ、俺が寒さで参らせない為に必要なことだぞ」
「わたしの血圧もあがる」
「血圧をさげる機能がある食べ物で我慢してくれ」
「食費がかさむ」
「胸を拡張させる効果もあるかもしれないのだぞ」
伊和奈は「は」と、厳つい顔をすると、作蔵の両足首を掴んで炬燵から引き摺り出して、作蔵の背中に股がり腰をおろした。
「そうだ、忘れていた。伊和奈、隣近所に住んでいる夫婦の飼い犬、あれからどうなってたっけ」
作蔵は伊和奈の腕に脇を挟まれ、のけ反っている姿勢になっていた。
「全然だったでしょう。おかげで、満月の日を避けてお散歩をさせているらしいよ」
「“術”は、いまだに解けてない。か……。」
作蔵は、天井にぶら下がる蛍光灯を見上げていた。背中を反らす姿勢を伊和奈に強制されていた所為で息苦しく、腰にも負担が掛かっていた。
作蔵が「参った」と、右手を付って見せると
伊和奈は首を縦に振って、作蔵に絡めていた腕を外した。
作蔵は首の関節をごきごきと、鳴らして胡座をかく。
「伊和奈、おまえは身体が戻ったばかりだ。感覚は、慎重にしろ」
「平気よ」
「“実体”がなかった頃と違うのだ。怪我をする、病にふせる、実感はまだないだろうが、いつかは身に降り掛かる」
「作蔵、年越蕎麦を食べよう。待ってて、すぐに作るから」
切り返しをした。
伊和奈は、はぐらかした。と、作蔵は思ったが、感情を剥き出しにする程ではないと、伊和奈に合わせることにした。
「刻み葱を山もりにして、玉子を1個落としてくれ」
「あんたの好みを入れて、汁をたっぷりと掛けて持ってくるよ」
伊和奈は笑顔を溢して、台所へと向かってい
った。
作蔵は、窓際にいた。
幾つもの煩悩を打ち消そううと、凍りついた闇夜の中を鳴り響かせる鐘の音へと、耳を澄ませていた。
ひとつ、ふたつと、鐘の音が鳴る度に作蔵の全身が震えていた。
伊和奈は、戻った。
だが、終わりではなかった。
伊和奈は戻ることが出来た。
しかし……。
『あの時』“夜舞芽”がまだ、いた。と、作蔵は『あの時』を振り返るーー。
ーーーー。
ーー作蔵、おまえは蓋を開いてしまった。
作蔵は、見ていた。
目の前で、青白い炎に包まれている“殻”をじっとして見ていた。
「勿体ぶらずにさっさと言え」
作蔵は、苛ついていた。忌ま忌ましい場所から伊和奈を抱き抱えて撤退しようと翻していたところを“殻”に呼び止められてしまった為に苛ついたのであった。
ーー私は、消える。私が消えれば、おまえは本物の“渾沌”を否というほど味わう。おまえが抱えている“芯”は“器”に戻った。同時に蓋は開かれてしまった。
「だから、何だ。俺の『仕事』は蓋を閉めることだ」
ーー傲り昂りは、諸刃の剣。せいぜい、はね返りを喰らわぬようにするのだ。
ーーさらばた、作蔵。いつかまた、時の輪が接した場所で会おうーーーー。
炎は燃え尽き、火種も残らず。
作蔵は、翻したーー。
ーーーー。
「作蔵、入って」
「ああ、少し待て」
作蔵は、半纏の袖の中に両手を差して伊和奈へと声を掛けた。
「直ぐが、いい」
「年越蕎麦を5杯も食ったのだ。腹の中をこなすに時間が掛かって当然だろう」
「でも、いい」
「おまえ、潰れるぞ」
「構わない」
作蔵は、羽織る半纏を脱いだ。
「ねえ、作蔵」と、伊和奈が作蔵の耳元で囁いた。
「どうした、伊和奈」と、作蔵は伊和奈を抱き締めながら言う。
「やっぱり、何でもない」
伊和奈は、息を熱くして吐いていた。
「そうか……。」
作蔵は、胸元の奥で脈々と打つ鼓動を伊和奈に聞かせた。
作蔵と伊和奈はひとつとなって、お互いの中で呼吸を繰り返したーー。
蓋は開かれる 鈴藤美咲 @rakosuke
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