無洗米は水加減が大変だ
作蔵が踏み込んだ場所は、まだ先で辿り着く為の入口に過ぎなかった。
大河を渡り、関所で待ち構えていた門番とは全く相手にしていないと呼べる勝負をした。
茶屋でひと息するのかと思えば、あっさりと素通りをして見せた。
作蔵の目的は、訪れた場所の観光ではなかった。
伊和奈を捜すために、何処にいるのかわからない伊和奈の手掛りを掴もうと、作蔵は人そのものが訪れることが出来ない場所に踏み込んだのであったーー。
***
ーーひっ、ひっ、ひっ。作蔵、とうとう来たな。
漆黒の闇、生い茂る雑草。
作蔵が目を凝らす先に映っていた風景にまじっていたのは、嘲笑いをする老婆だった。
「よう、
ーーひっ、ひっ、ひっ……。
老婆は嘲笑いをするだけだった。
作蔵は、気に入らなかった。
蔑むような目つき、此方が言っていることにさえ耳を傾けていない様子が気に入らなかった。
それでも作蔵は老婆の様子を黙ったまま、目で逐った。
ーーひっ、ひっ、ひっ。作蔵、肩の力を落とすのだ。
老婆は作蔵を手招きした。
ついてこい。
作蔵は、老婆がする仕草の意味が解った。
「けっ」と、前髪を右手で握り締めながら口を突くが、老婆の後を追っていったーー。
***
作蔵が歩く場所に濃い紫色の霧が漂っていた。前方には老婆が老体と思えぬ速さで歩いていた。
作蔵は目と喉。そして、鼻にまで痛くて痒いを覚えていた。
涙が溢れ、喉は腫れっぽく。鼻がむず痒くて
ーーひっ、ひっ、ひっ。此処の空気はおまえさんには合わないみたいだな。
燗に障る。
いっちいち、神経を刺激させることを楽しんでいる。
作蔵は、老婆が気に入らなかった。
「おい。おまえのことは『婆さん』と呼ばせて貰う」
ーー何とでも呼べ。ワシは“夜舞芽”でいることは、とうに失っていた。
作蔵は、顔つきを険しくした。
老婆の言っている意味が解らないと、思った。
ーー安心するのだ。おまえさんの『お目当て』は、ちゃんとしている。
作蔵は老婆の後ろ姿を、老婆が歩く後を追っていった。
濃い紫色の霧が漂う為にはっきりとした先が見えないが、老婆だけはまるで行灯が照らされてように、はっきりと見えていた。
見る景色に目が慣れたのか、今歩いている場所は雑木林の小路だと、作蔵は明確にした。
老婆が歩みを止めた。
作蔵は警戒をしつつ、目の前にある古ぼけた家屋へと踏み込むをしたーー。
***
家屋といっても板張りの壁は隙間だらけのうえに、歩けば踏み割るのは序の口。部屋と部屋の仕切りは木綿生地でしかも、破れて端切れ状態の布が梁から吊るされていた。
「『泊まっていけ』は、断る」
作蔵の、当然と言える口のきき方だった。
作蔵は頭に蜘蛛の巣を被せて、垂れる糸の先端を口に含ませてしまったのであった。
ーーひっ、ひっ、ひっ。晴れていれば満天の星がよく見える。
老婆は天井を仰いでいた。
「おもいっきり屋根の真上がまる見え状態に何を洒落たことを言っているのだ」
ーーいつか朽ち果てる時間……。作蔵、これでもまだわからぬと言うならば、おまえには選択の余地はない。
「は、あんたは俺に何を選ばせようとしているのだ」
ーーさっきワシが言ったことすら、忘れている。呆れた奴だな、作蔵。
作蔵は「苛つく」と、老婆の言うことに起こしそうな癇癪を止めて、心を研ぎ澄ませた。
蝉の声のような耳鳴りと右手の痺れに襲われながらも、両足を踏ん張らせた。
伊和奈は間違いなく、今此処にいる。だが、姿を掴めない、目で捉えられない。雑念に惑わされたら最後、自身そのものが消えてしまう。すなわちーー。
作蔵自身の終わりという意味を、作蔵は判っていた。
心を静かにさせて、じっとする。
今を、今だを、作蔵は待ち構える。
額から噴き出す汗は、滴となって作蔵の頬をつたい、下顎で留まってひとつ、ふたつと足元へと滴った。
耳元で生温い感触がすると、息が吐かれていると、作蔵は左足を軸にして身体を左回りで向きを変え、腕を振り上げる。
「伊和奈、じっとしろ」
作蔵は、とうとう掴まえた。
しかし、もがくという抵抗をされてしまい、逃すまいと腕と肘、さらに脚と膝で取り押さえると、足元へと全身を押し付けた。
ーー作蔵なの……ね。
「ああ、そうだ。俺だ、俺が見えないのか」
ーー見えない、見えないよ。参ったわ、何かがいきなり触った。触られて、恐くて……。
「俺がいることもわからなかった、触られるまで俺の声も聴こえていなかったのだな」
ーーうん。
「何があったのかは、後で訊く。俺がおまえのことをしっかりと掴んでいてやるから、絶対に離れるはするなよ」
ーーうん……。
作蔵は、姿が見えない伊和奈の手を握り締めながら立ち上がり、視線の先を睨み付けた。
「おい、婆さん。あんたは一度あんたの“器”から“芯”である伊和奈を追い出したのだぞ。伊和奈は“実体”を奪われてしまったと、信じていた。まずは、あんたから本当のことを説明して貰う」
ーー“芯”に意思が表れ“芯”が思い込んでいただけだろう。
「『だろう』だと。随分といい加減な言い分だ」
作蔵は、右手を拳に変えていた。
ーーひっひっひっ。ワシに何かを仕掛けたいだろうが、片手だけでは威力は足りない。片手だけは、あんたはただの人の象だ。
老婆のいう通りだった。
作蔵が“仕事”をするときは、両方の掌を重ねて合わせることによって“光”が蓄積される。放出させるは片手だけでも十分だが、蓄積した“光”に『言霊にした座標』を詰める作業も必要だった。
ーー作蔵……。
「待て、伊和奈。状況を打破する為にと、早まった考えは起こすな」
手を振り払おうとしている伊和奈に気づく作蔵が、止める為に言ったことだった。
伊和奈のことだ。
自分に構わず目の前の、やるべきことをするようにと促すつもりだった筈だ。
伊和奈を捜しあてるが出来なかったら、作蔵の動く時は止まる。此処に、この場所に踏み込む条件を提示したのは目の前にいる老婆だった。伊和奈を捜す為の始まりの合図として送ったのが、月夜の奇奇怪怪な現象だった。
ーー作蔵、ワシに“芯”をよこすのだ。
「そっちが目当てだった。訊きたくないが、俺がやって来る前にさっさとおまえがしようとしてたことを済ませるを出来てた筈だ」
ーー分離されてしまったものは、ワシでは仕舞うことが出来なかった。意思がある“芯”は、動きもある。ワシは、ワシの蓋を閉める“力”までを“器”から外していた。
「俺を呼ぶために、おまえの身勝手な理由のために大掛かりな。しかも、何もかもを巻き込んでいた。だいたい、よこせと言われて『はい、どうぞ』を俺がするなんてのは、完全にない」
ーー作蔵。ワシは“夜舞芽”ではなくなった。どっちみち“芯”は“器”を失っていた。だから、ワシが“芯”を消す。おまえが持つ蓋を閉める“力”を借りて、ワシもろともだ。
老婆が言うことに辻褄が合わない。訊けば訊くほど話しが噛み合わないと、作蔵は業を煮した。
そして、作蔵はとうとう手段を選んでしまった。
有効な方法が、どんなに模索しても見つからない。老婆が本当に望んでいることが何かが見えてこない限り、うかつに動くことは出来ない。しかしーー。
作蔵が、最後の最期まで葛藤した結果だった。
「伊和奈、おまえに謝っとく。俺は、いつもおまえを宛にしていた。今回もだ、俺は結局いつもおまえを振り回してばかりの『仕事』をやってのけていた」
ーー私のことは気にしなくていい。私は、作蔵の考えを信じている。いつも、いつでも作蔵は私の傍にいた。だから、作蔵は自分を信じるを考えてやればいい。
「伊和奈、おまえから『依頼』を承る」
ーーおっけい、作蔵。
伊和奈が返事をすると、作蔵は羽織る半纏の右ポケットに右手を押込み、引き抜いた。
作蔵が右手で握りしていたのは掌に収まる大きさの小石だった。
伊和奈からの『依頼』を詰める道具だった。
作蔵は、伊和奈の手を握りしめたままだった。道具を、握りしめる伊和奈の掌へと翳した。
作蔵の左手から伊和奈の感触が、掌のぬくもりが消える。翳していた小石は熱を帯びて作蔵の右手の中をあたためた。
「伊和奈、おまえの中を見に行ってこい」
作蔵は握りしめる小石に口づけをすると、老婆へと目掛けて投げ付けたーー。
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