02 シャイニング

 夜更け過ぎだ。夏の間に読もうと思っていた本を結局、今日だけで読み終えてしまった。明日からどうしよう?

 読書の途中、電気がついていたら眠れないだの何だのとハルタが騒いだ。おれが生返事で応じているうちに、ハルタはいつの間にか寝入っていた。

 おまえ、明るい部屋でも普通に眠れるじゃないか。また一段と日に焼けた寝顔を見下ろして、今さらだけど電気を消してやる。

 コロコロ、リィリィ、と虫の音が聞こえる。白いレースのカーテンが夜風にそよいでいる。月と星の明かりが窓に切り取られて、床に四角く落ちている。

 暗い部屋の中にたたずんでみる。小学生のころは、夜の暗さが怖くてたまらなかった。夜の真ん中で運悪く目覚めてしまったら、不気味な何かがすぐ後ろから迫ってくるんじゃないかと、ありもしない幻におびえて、首を縮めてうずくまった。

 いつから平気になったんだっけ? 眠れない体質になるより前だと思うけれど、記憶が曖昧だ。ハルタの寝顔を見やる。夜更かしが苦手な子どもっぽい体質。健康的なやつだ。

 そういえば、おれは昔から、暗いのは苦手でも夜更かし自体は平気だった。レース直前の調整は、真夜中までやっていた。一緒に起きていたはずのハルタは、いつの間にか、つぶれていた。起こしてやったら、ハルタが不機嫌になって、結局ケンカになったりした。

 あのころは、おれもハルタも、怒ったり笑ったり忙しかった。最近、おれはうまく笑えない。いらだつけれど、怒れない。

 おれはため息をついて、ベランダに出た。しっとりとした夜気が頬を撫でる。虫の音が近付く。

 何気なく見上げて、びっくりした。星だ。洋館の瓦屋根と裏手の山とに挟まれた空に、びっしりと、まばゆい星がまたたいている。

「きれいだ」

 ただそこにあるだけで美しい風景を、この島に来て、一体いくつ目撃しただろう? ここには宝物みたいな瞬間が無数にある。

 初めて肉眼で見た天の川は、その名のとおり本当に、うっすらと白く輝く川の姿をしている。白い輝きのひとつひとつは、地球からじゃ見分けることができないけれど、全部が太陽よりも明るい星だ。何万年も昔に放たれた光が今、音もなく地球に降り注いでいる。

 宇宙って、好きだ。地球の重力から解き放たれて、どこまでも広い星の海に飛び込んでみたい。そう思ってから矛盾に気付いて、そっとひとりごちる。

「矛盾してるよ、おれ。風が好きで、風を科学することが好きで、風をこの目に見せるF1マシンや風車のデザインが好きで。なのに、風のない、空気のない宇宙にも憧れてる」

 夏の大三角の端っこがのぞいている。あれは白鳥座のデネブだ。大三角のあと二つ、こと座のベガである織姫と、わし座のアルタイルである彦星は、屋根に隠れて見えない。ベランダの手すりから身を乗り出してみたけれど、やっぱり見えない。

「ユリト、どうしたの?」

 いきなり声がした。驚いたおれは、一瞬バランスを崩した。心臓の奥がヒヤリとする。手すりにしがみ付いたまま声のほうを向くと、カイリが隣の部屋のベランダに出ていた。

「ちょっと空を見たくて。カイリ、起きてたんだ?」

「うん。ユリト、星が好き?」

「星っていうか宇宙っていうか、何となくだけど、好きだよ」

「じゃあ、屋根に上ろう」

「はい?」

「屋根の上なら、ここより広い空が見えるから」

 言うが早いか、カイリはベランダの手すりに上って、屋根の雨どいに手を掛けて、身軽に体を持ち上げた。唖然としているおれのほうへ、屋根の上で四つん這いになったカイリが手を差し伸べる。

「つかまって。引っ張るから」

「こ、これくらい、一人で上れるよ」

 微妙に傷付いたぞ、今。おれは確かにカイリより背が低いけど、それなりに運動のできる中学生男子だ。同い年の女子にできる動きを、できないはずがない。

 おれはカイリと同じやり方で屋根に上ってみせた。カイリは、猫みたいな四つん這いのまま、おれを待っていた。

「いちばん高くなってるとこ、座りやすいから」

 カイリは恐れる気配もなく立ち上がって、屋根の高いほうへと歩いていく。慣れているんだろうか。それはさすがに真似できない。中腰になって、そろそろと進む。ここで転んだり睡眠発作を起こしたりしたら悲惨だ。

 屋根の中心線の丸瓦に腰掛けたカイリの隣に、おれも腰を下ろした。カイリが黙って空を指差す。おれは改めて、空を仰いだ。

 さっきとは比べ物にならない広さの宇宙が、そこに輝いていた。

 白い星、青い星、赤い星、またたく星、流れる星、ぶちまけた砂粒みたいな星の集まり。ほぼ完全に満ちた月は、クッキリと模様を描くクレーターを抱え込んで、その黄金色の光で銀河をかすませている。

 地上は暗い。海には一つ、灯台が海面に淡い光を落としている。波のきらめきに目を凝らすと、かすかな潮騒を風が耳に届けた。風に誘われて、おれはまた空を仰ぐ。さっきは見えなかったベガとアルタイルが、天の川のほとりに輝いている。

「きれいすぎて、信じられないな。ずっとこうして眺めていたい」

 自分の中が空っぽになって、透明で温かい何かによって満たされていく。今おれを取り巻いている景色は圧倒的で、感動なんていう平凡な言葉じゃ、少しも追い付かない。

「ユリトは龍ノ里島が気に入った?」

「この島の景色が嫌いな人なんていないと思う」

「ここには景色しかないよ。人間が便利に暮らすためのもの、何もない」

「何もない場所で生きていけるくらい、おれもシンプルでピュアな人間だったらいいのに」

「とうさんのこと?」

「悪い意味じゃないんだ。純粋に、スバルさんがうらやましい。好きな場所で、好きな仕事をして生きてる。理想的な大人だ」

 ふと疑問を思い出した。星空からカイリへと視線を下ろす。月を見上げていたカイリも、おれの視線に気付いた様子で、こっちを向いて首をかしげた。

「何?」

「変なこと言うんだけど、スバルさんの年齢、若いなと思って。今、三十六歳だよな? で、カイリはおれと同じで中三だから、スバルさんの二十一歳くらいのときの子どもだろ? スバルさんは二十七歳まで大学院で研究してたって聞いたから、学生結婚ってこと?」

「そっか。そういうことになるね」

「あっ、ごめん、あの……ごめん……」

 カイリの母親、スバルさんの奥さんの話は、本人たちからも田宮先生からも聞いていない。調子に乗って突っ込んだことを言ってしまった。

 気まずい沈黙が落ちた。潮騒、風の音、虫の声。

 ふっと、かすかな息の音をたてて、カイリが微笑んだ。さっきとは違う話題だった。

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