03 ピットイン

「今日はハルタとたくさん話したよ。でも、ハルタのことよりユリトのことをたくさん知った」

「おれのこと?」

「ハルタが話すのは、ユリトのことばっかり。ハルタは、ユリトが大好きなんだね。何をするにも、どこに行くにも、ユリトがいちばん近くで背中を押してくれるから心強いって言ってた」

「あいつ、あまりにも危なっかしいから、ほっとけないんだ」

「危なっかしいのは、ユリトもそうだと思うけど」

 ぐうの音も出ない。昼間、いきなり倒れて迷惑を掛けたのは、ほかでもないおれだ。今はもはや見栄を張るのも疲れてしまった。格好を付ける余裕もない。こんなの、自分らしくないはずだけど。

「どうしてこうなっちゃったのかな……」

「眠れなかったり、倒れたりすること?」

「それもひっくるめて、今の状況、全部。最初の原因は何だったんだろう? 調子が狂い出した直接のきっかけは何だったんだろう? どこまでさかのぼって答えを探せばいいんだろう?」

「それがわかったら、ユリトのためになるの?」

「答えがハッキリしない問題って、苦手なんだ。だから、きちんと答えが出せる数学や理科が好きで」

 その一方で、おれが抱えるこの問題は、ハッキリした答えを出すのが怖い。おれの調子を狂わせる大きな要因は、間違いなく、ハルタだから。

 おれにできないことを、ハルタは平然とやってのける。何でもできるはずのおれが、どうしてもハルタに勝てない。

 ハルタがおれを嫌っているなら、それか、ハルタがどうしようもない不良だったら、おれは気楽だ。あいつのせいでおれがおかしくなったんだと上手に訴えて、まわりに納得してもらえる。おれは味方に囲まれて、王さまになれるだろう。

 なのに、ハルタはいいやつだ。世話が焼ける弟だけど、おかげでおれは孤独だったことがない。学校での評価はおれのほうが上だけど、本当はハルタのほうが輝かしい才能を持っている。

 自慢の弟なんだ。ハルタに言ってやったことはないし、誰の前でもそれを語ったことはない。でも、ハルタはおれの自慢だ。そして、だからこそ、おれはハルタに嫉妬する。おれがハルタに勝てないことをいちばんよく知っているのは、おれ自身だ。

「ハルタの将来の夢は、レーサーなんだってね」

「ああ、うん。あいつらしいよな」

「ユリトがいっぱい調べてくれたって。ハルタひとりじゃ何もできなかったけど、ユリトが手伝ってくれたから、レーサーになる方法がわかったって。ハルタは、ユリトを喜ばせるためにも、いつか必ずチャンピオンになるって言ってた」

 スーッと、心に隙間風が吹いた。喜べないと思った。今のおれは、ハルタの活躍を受け止めることができない。あいつが輝けば輝くほど、影みたいなおれは、どんどん黒ずんで闇に呑まれていく。

「勝手なんだよ、ハルタは。おれの気も知らないで」

 ハルタのバカ野郎。おまえと違って、おれは純粋な人間じゃないんだ。おれはおまえに、どうしようもない劣等感をいだいている。

「ユリトは、将来なりたいもの、ないの?」

 カイリの透明な声は、龍ノ里島のきれいな景色の一つみたいで、おれはカイリの前で嘘をついちゃいけない気がした。

「レース、いいなって、おれも思ってた。ハルタと一緒に初めて本物のサーキットに行ったとき、レーサーになりたいって言ったハルタはすごく正しいと感じた。でも、おれには、レーサーになれるような才能はない。ハルタの真似をしたくないしな」

「ハルタは、ユリトのほうがいろんな才能があるって言ってたよ」

「まさか。そんなことないって、おれ自身がいちばんわかってる。おれはちょっと手先が器用なだけで、サーキットで高速マシンを走らせるような反射神経も動体視力もない。マシンのカッコよさに憧れても、乗ってみたいとは思えない」

「乗りたくないの?」

「能力的に無理だ。自分の身の丈はわかってる。そこがハルタとのいちばんの違いかもな。あいつには、何も考えずに突っ込んでいく勢いと度胸がある。おれは、何か全部わかっちゃって、できないことはやりたくない。だから、何でもできるように見える」

 言葉にして、気付いた。おれが何で立ち止まっているのかが、ストンと理解できた。

 おれ、できないと思っているんだ。まっすぐ生きていくことができそうになくて、このまま進んでいきたくないせいで、体が拒否反応を起こしている。

 カイリが、また違うことをおれに尋ねた。

「ユリトは、クルマ、好き?」

 その「好き」という響きがくすぐったくて、一瞬だけ戸惑う。呑みかけた息とともに、答えを吐き出す。

「好きだよ。クルマは好きだ」

「ほかにも、好きなものがある?」

 問われるままに思い描けば、素直な言葉が口からあふれる。

「クルマだけに絞れない。機械が好きだ。流線型のボディで風を味方にする、そういうデザインや機構が好き。この手で作り上げたマシンを走らせる、マシンに走ってもらう、その感覚が好き。機械に命が宿る瞬間を感じるのが好き」

 レーサーは一人じゃマシンを走らせられない。マシンを設計するエンジニアがいて、レースの現場でピットインをする整備士がいて、チームをまとめるリーダーがいる。おれが憧れるのは、レーサーとマシンを支えるピットインチームのほうだ。

 だけど、その憧れは本物なんだろうかと、何度も何度も自分に問い掛けている。レーサーになる才能がないから、自分にできそうな仕事を仕方なく選んで、それを憧れという言葉にすり替えているんじゃないか?

「好きなものを仕事にしたい?」

「それができたら最高だと思う。でも、どうなんだろ? できるのかな?」

「自信ないの?」

「自信ないよ。本当はいつだってそうだ。自分の計算高さというか、卑怯さを知ってる。自分で自分を疑ってる。でも……弱音吐いて、ごめん」

「謝らなくていい。話していいよ」

 どうしてカイリは、おれの言葉を簡単に引き出してしまうんだろう? 複雑なやり方で封印しておいたはずの本音が、あっさりとこぼれていく。

「やってみたいことも好きなことも、できるとわかってからじゃなきゃ、口に出せない。おれはいつも兄貴役で、学校では優等生役で、できないとか自信がないとか言えない。おれには、口に出しちゃいけないことがいっぱいある」

「苦しいんだね」

 夜の色に染まったカイリの目は、星の光をいくつも宿して、キラキラしている。

 誰かの目を正面から見つめたことは、この島に来るまで、最近なかったかもしれない。カイリと目を合わせていると息ができなくなるのに、カイリの目はあまりにもきれいだから視線をそらしたくない。

「おれは、プラモートが大好きだから実車のレースに興味を持って、風をつかんで走るマシンに憧れて、自分でも作ってみたいと思ってた。子どもっぽい夢で、誰にも言えなかった」

「ユリトらしい夢だね」

「でも、おれはもっと別のものを目指すべきだって、学校や親は期待してるよ。いい大学に行って、いい会社に就職したり官僚になったりして、いい生活をする。そういうレールの上を走るべきだって」

 いい大学、いい会社なんて言い方をされると、おれの大好きなサイエンスの世界さえ一気に色あせる。興ざめだ。でも、鈍感な大人たちはそれに気付かない。

 だけど、何だかんだ言って、器用なおれはレールの上にいる。嫌が応にも時間は過ぎていく。このままじゃ、おれも鈍感な大人になってしまう。大人に近付くにつれて、自分が嫌いになっていく。

 ユリト、と、歌うように澄んだ声がおれの名前を呼んだ。カイリが、ほんの少し、微笑んでいる。

「わたしは、学校でのユリトを知らない。ユリトがちょっとずつ自分のことを話してくれて、ハルタからたくさんユリトのことを聞いて、それだけしか知らない。わたしはただ、シュトラールに命を与えた、風が好きなユリトだけを知ってる」

 おれの手に、カイリの手から生まれた熱の記憶がよみがえった。命あるものに奇跡が訪れると告げて、カイリはシュトラールの割れたシャーシを直した。奇跡? 魔法? カイリにはどうしてそんなことができる?

 疑問を蒸し返さなかった自分に、今さらながら違和感を覚えた。いや、疑問に思うことへの違和感、だろうか。

 龍ノ里島の景色のひとつひとつに、命の躍動を感じる。一瞬一瞬が奇跡みたいにキラキラして、なまなましい。命の形に手で触れることができる気がする。どんな奇跡も起こっておかしくないんじゃないか。

 でも。だけど。

「カイリは、どうしてここにいるんだ?」

 直感的に口を突いて出た問いは、自分でも思いがけない形をしていた。カイリが、ふわりと笑った。

「わたしがここにいる理由? そうだね。ただの気まぐれ。ちょっと見てみたくなっただけ。ありふれた夢を、最後に一つ」

「夢? 眠ってるときに見る夢のこと? それとも、目を開けて見る夢?」

「さあ? わたしにもわからない」

 カイリは星空を仰いだ。きれいな横顔。長いまつげ。細い首筋。急に、カイリに触れてみたくなった。抱き寄せたら柔らかいことを、おれの体は覚えている。

 ダメだ。触れたらきっと止まらなくなる。自分でもろくに知らない、体の奥のドロドロと熱いものが、一瞬でおれを支配してしまう。そんなのは汚い。吐き気をもよおすくらい醜いおれを、出会ったばかりのカイリには見せられない。

「カイリは……カイリが好きなものは、何? おれのシュトラールみたいな何かが、カイリにもある?」

「何だろう? たくさんある。でも、たくさんあったら、一つもないのと同じかもね。ああ、そういえば、歌がある」

「歌?」

「歌うことは好き。体で感じるもの全部を歌にする」

「聴いてみたい」

 うなずいたカイリは、少し照れているように見えた。


 しおさいさわぐ つきよのかげに

 ほしをあおげば みちるなみだの

 ゆめじをたずね まようはだれぞ


 いのちあるもの たゆたいゆけば

 いつかねむりに おちるときまで

 みみをすませて ちしおのながれ


 かぜのかなたに さやかにひかる

 きみのゆくえは とわずがたりの

 せつなにであい わかれはとわに


 ねむりねむれば いつかはあわん

 かたるにたりぬ ゆめまぼろしよ

 いのちあるもの きみにさちあれ

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