第2話

「出来ないって、どういうこと?」


 理沙は先ほどから進展の無い美憂との会話に苛立ちを隠しきれなくなっていた。

 机の上には第一志望である国立大学の赤本が開いたまま理沙に解かれることを待っている。

「だってダンスとかしたこと無いし…覚えられないんだもん」

 美憂はスマホの向こう側で聞き取れるかどうかの声で呟く。腹筋あんのかこいつ。

 理沙は早くも自分が率先して来週のイベントに参加しようと説得したことを後悔し始めていた。


 ファミレスでの話し合いは長い長い無言の時間も含めたら実に3時間に及んだ。

 要領を得ないくせにやたらと長い聖奈の話を軌道修正し、何の提案も自己主張もしないくせに不満だけは一人前に訴える美憂をたしなめ意見を促し、ということを繰り返して、それでも理沙はイベントへの出演を主張した。

 深い意味はない。今まで世話になった社長への最後の恩返しのつもりではあったが、理沙にとっては直前での出演のキャンセル、ということ自体が耐え難い恐怖だった。それはかつての自分が望まず起こしてしまった過去への執着でもある。理沙自身過去にとらわれていることを認めたくなかったし、軽々しくトラウマなどという言葉を使うことはしたくなかったが、自分自身にとっては大きなしこりになっていることを自覚もしていた。

 今でも思い出すのは大人たちの顔だ。自分が出演できなくなった、という事実を知った時の大人たちの表情。

 余計な仕事を増やしやがって。お前の代わりなんていくらでもいるんだよ。何様なんだよクソガキ。

 実際に声に出したものは一人もいなかったが、彼らの目は雄弁にそう語っていた。あの時の顔を、目を、理沙は忘れられない。


「こんなの無理だよーだってずっと練習してきた子がやってたんでしょ。5日じゃ無理だよ」

 なぜ目上の人間に敬語を使えないのか、という怒りはとうに消えていた。か細く滑舌の悪い美憂の喋り方はアイドルとしては魅力だろうが、この状況ではただただ頼りなく、人を苛立たせるものでしかない。

 とはいえ、美憂が文句を言うのも無理は無い。


 社長から渡されたCDにはデビュー曲の仮歌が入った音源が、DVDには振り付け用のレッスンビデオが収録されていた。

 一通りざっと見て小一時間で習得した理沙が聖奈と美憂に連絡を取ったところ、聖奈からは「もう見たの?」と言われ、美憂からは「出来ない」と言われた、というわけだ。

 ミュージカル経験もある理沙からすれば造作も無いことだが、これまでグラビア一辺倒だった聖奈やせいぜいモデル経験くらいしかない美憂によって、歌いながら踊る、ということ自体が障害であると気がつけなかった。ちなみに聖奈は生活費を稼ぐために今日は一日知り合いの焼きそば屋を手伝うと言っていた。頼むから真剣になってほしい。


 マネージャーの浅尾やゆみちゃんはここのところの各所の対応に追われてろくに話もできないため、とりあえず開催場所となるショッピングモールのイベント担当者の連絡先を聞き出した。彼らを頼りにしていてはいけない。できることは自分でやろうと決めた。

 電話をすると担当者からは「結局名前決まりました?もう印刷物とかは全部未定で出しちゃってますけど」と言われたのでとっさに「名前はまだないです」と言ってしまった。呆れられると思ったものの、少し沈黙があってから「名前はまだないですね。わかりました」とあっさり言われて拍子抜けした。

 とりあえず電話をして当日の段取りの打ち合わせは前日の夕方に事務所で行われることがわかった。イベントは日曜日。前日の土曜日であれば予備校の授業がある6時までは余裕がある。


「とりあえずみんなで一回合わせよう。事務所の近くにあるカラオケボックスなら音流しながら練習できるから」

 理沙は根気よく美憂に言った。不毛なやりとりで数十分が経過している。自分は一体何のためにここまでやってるんだ、と自問自答する。

「わかった。行く」

 やった。とりあえず引っ張り出すことはできた。

「とにかく振り付けのDVD見て歌覚えて。そんな難しくないでしょ」

「難しいよ。早いし」

 どうして文句しか言わないのだ。曲調自体は最近のはやりのEDM系ポップスでそれほど早い曲調でも無い。ダンスだって複雑なフォーメーションもなく、どちらかといえばシンプルなものだというのに。

 まあいい。とにかくこのイベントさえ乗り切ればいいのだ。もともと辞める口実を探していた自分によってはいい機会だった。

 このイベントを滞りなく終わらせることで社長への義理も通せるし、自分自身のけじめにもなる。聖奈と美憂がどのような思いであるかは、知ったことではない。自分は受験に向けて専念するのみだ。

「じゃあ明日の16時にお店の前で待ち合わせね。よろしく!」

 それだけ言うと通話ボタンを押して、会話を打ち切った。もう切れたはずのスマホから美憂の「でもー」という甘ったるい声が聞こえてきそうでスマホをベッドの上に放り投げた。

 すっかり時間が経ってしまった。赤本をひっくり返してとりかかるが思考がまとまらない。

 しばらくそのまま机に向かっていたが、どうにも集中できないので椅子を立ち、テレビの電源を入れた。

 セットしていた振り付けDVDを再生させると、画面に向かい合って理沙は踊り始めた。

 手足を動かしていると頭の中がからっぽになっていく。無心で体を動かし続けていると、もやもやとこんがらがっていた事柄がすっきりしていくようだった。

 何やってんだろ、私。

 理沙はいつの間にか全身びっしょりと汗をかき、それでも踊り続けた。

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