第3話

「えーと、あとカルピスと、りさちゃん何にする?」

「お茶!」

「…あとウーロン茶」


 美憂は飲み物の注文を終えるとそっとインターフォンを壁に戻した。

 事務所の近くのカラオケボックス。腕組みをしたまま仁王立ちする理沙、その前にはすでに顔面蒼白の聖奈が12ラウンドまで戦いきった後のボクサーかと見まごうばかりの見事なぐったり加減で座り込んでいた。両腕を腿の上に投げ出してうなだれており、そのまま真っ白に燃え尽きそうだった。


 理沙によるダンスの指導は5時間目に突入しようとしていた。

 最年少の美憂ですらもはや余力はほとんど残っていない。飲み物の注文はさきほどで20回目を数えた。さすがにインターフォンの向こう側の店員の対応も雑になってきている。

 ふらふらとソファに戻った美憂はいまだ顔を上げることすらできないほど疲労しきった聖奈の向こう側に座る、もう一人の悲壮な顔の女の顔を盗み見た。


 ゆみちゃんだ。

 事務所が事実上すでに廃業状態となり、各方面への対応に追われ続ける中、彼女は美憂たちと連絡を取り続け今日はカラオケボックスでのダンス練習に来てくれていた。もっとも、彼女が来たところで聖奈と美憂のダンスが上手くなるわけではなかったのだが。

「ゆみちゃん、大丈夫なの?こっちにずっといて」

 美憂がそう声をかけると、ゆみちゃんは今にも涙が溢れそうなほど瞳を潤ませながら力強く言った。

「大丈夫!美憂ちゃんたちがこれだけがんばってるんだもん。私も最後まで頑張るよ!」

 そういうことじゃないんだけど、と思わず言いかけて我慢する。

 ゆみちゃんはただじっとダンス練習を5時間見守り続け「ちょっとずつよくなってる!」とか「がんばって!」とか運動部の女子マネージャーなら評価されるべき仕事ぶりを発揮していたが、あいにく芸能人のマネージャーとしてはなんら機能していなかった。事務所の対応はどうしてるんだろうか。浅尾が事務所で一人謝り続けている光景が脳裏に浮かんだ。

 そもそもなぜ飲み物の注文を私がしてんの、と美憂は思った。彼女が唯一見せた気遣いといえば「いっぱいお菓子買ってきたから、疲れたら食べてね!」とおかしのまちおかで大量のお菓子を買って持ってきたことくらいだが、中身を見たらスナック菓子とチョコレート系ばかりで、とにかくダンスしっぱなしの美憂たちにとってはそんな油っぽく、甘ったるい喉が渇きそうなお菓子など、逆にあてつけかと思えるほどだった。袋を空けたのは買ってきたゆみちゃんだけだ。この女、器が小さいのか大きいのかわからない。


「あたし、ちょっと、トイレ…」


 聖奈がふらふらと立ち上がってドアから外に出て行った。

 声は場末のスナックから明け方に聞こえてくるホステスのようにしわがれている。もともとハスキーな聖奈の声だったが、ここまで歌が下手だとは知らなかった。

 カラオケで一発目に合わせたとき、三人で歌い始めた途端にすぐ近くで地響きのような野太い調子外れな音がしたので驚いて見ると聖奈だった。すぐに音楽を止めて聖奈一人の発声練習が理沙の指導のもと始まったが、とにかく聖奈の声は高音域になるとかすれ、逆に低音域になると野太くなる。音量は十分だがその反面一本調子でメリハリが付けられない。

「以前デビュー予定だったCDの音源を聴いたら歌えてたじゃない。問題ないと思っていたのに…」

 と理沙が言うと、聖奈はなんでもないように

「あれは歌専門の人に歌ってもらったんだよ。私と声似てる人探してもらって」

 と言い放った。自分自身もアイドルの端くれとして生きてきたつもりだったが、さすがにキャリアが5倍以上違う人間は凄い。とにかく貫禄と図太さだけは半端ではない。


 だが、最初は威勢のよかった聖奈も一切妥協しない理沙のスパルタ特訓により化粧は剥げ落ち、前髪は乱れておでこにぺたりと張り付いている。

 Tシャツにナイロン地のジャージパンツ、首にタオルを巻いたその姿がまさか現役のグラビアアイドルだと思う人はいないだろう。控えめに言って、深夜のコンビニの買い物に来た地方のヤンママと言ったところだ。

 一方の理沙は先ほどから険しい表情で何やら書類をめくりつづけている。学校指定と思われるダサいジャージの上下、髪の毛は邪魔にならないようクリップでしっかりととめ、先ほどから美憂たちと一緒に踊り続けているというのにほとんど汗もかかずに涼しい顔をしている。子役から入ってミュージカルもやっていたという話はゆみちゃんから聞いたが、基礎ができている人間は違う、と美憂は思った。自分のようにただ現場に行って、終わったら帰って来る仕事の仕方ではこうはならない。とはいえー美憂は思った。

 とはいえ、キツイ。


「間に合わないな…」


 理沙がぼそっと言った。そのままテーブルの上に置かれたCDラジカセの再生ボタンを押す。

 先ほどから何回聞かされたのかわからないでも音源が流れ始めた。もう聞くのも嫌だ。曲を聴きながら何やらぶつぶつとつぶやいている。怖い。ついにこの人はおかしくなってしまったのだろうか。

 確かに美憂も感じていた。とてもじゃないがこのままのペースでは間に合わない。美憂も自分なりに家でDVDを見てダンスを覚えようとしたものの、とにかくダンスなど学校の体育の授業で創作ダンスをしたことくらいしか経験がない。そのときだって面倒なのでひたすらゆらゆらと体を上下左右に揺れてごまかしたくらいだ。運動神経が悪い美憂は部活にも所属していない。何か所属していないときまりが悪いと思って「東京の歴史を探る部」という部に入部希望を出したら美憂しか入部希望がいなかったらしく、顧問の日本史の先生に「築地に研修遠足にいきましょう!」と熱烈にアプローチされて慌てた。

 最初に「流れであわせてみよう」と言った理沙が美憂と聖奈の踊りぶりを見てみるみる表情を変えていった。

「なんで覚えてないの!」

 という理沙に美憂は「時間がなかった」と言い聖奈は「だいたいでやったってバレないでしょ」と言いさらに理沙の表情を険しくさせた。

 さらに「衣装はどうなってるんですか?」と理沙がゆみちゃんに確認すると今気がついたとばかりのわかりやすい表情をした上で「多分あると思うんだけど…」と発言し、理沙の怒りが頂点に達した。それから5時間踊り続けている。


 ドアが開き、出て行ったときと同じ様子でゆらりと聖奈が戻ってきた。やはり24歳になると体力が落ちるんだろうか。美憂は年を取ることは怖い、と思った。すると聖奈の目が突然ぎょろりとこちらを向いたので美憂はビクッとして思わず目を逸らしてしまった。

「あんた、今年寄りはすぐ疲れるとか思ったでしょ」

 思っていた通りのことを言われて動揺を隠すために食べたくもないテーブルの上のポテトチップスに手を伸ばす。

「そんなこと思ってないし」

「顔に出てんのよ」

 だからババアはいやなんだよ。勝手な被害妄想でこちらを批判してくる。

 ムスッとしたままポテトチップスを食べる美憂とこちらを睨みつけたままの聖奈の間でゆみちゃんがおろおろとしているが気にしない。

 理沙はいまだにぶつぶつと何やらいいながら曲を聴いたままだ。なんだこのカオス空間は。


「わかった。もう二人とも踊らなくてもいいよ」


 突然曲を停止して立ち上がった理沙が言う。

 何を言い出すのだ突然。あっけにとられてぽかんとする美憂が何かを言おうとする前に聖奈が噛み付かんばかりの勢いで怒鳴り始めた。

「じょ、冗談言うな!こっちのどしこ練習したばいっち思っちんばい!!」

 途中から半分くらいわからなかったが激しく怒っていることだけはわかった。

「だってこのまま練習したって、この振り付け、多分間に合わないですよ。人前で不完全なもの見せるわけにいきません」

「で、でもせっかくみんなで練習したし、イベントはどうやって…」

 ゆみちゃんが心配そうに言うと理沙は薄い鉄板くらいなら穴が空くのではないかと思えるほど鋭い視線でこちらに目をやり、言った。

「振り付けを変えます。私が考えますので、聖奈さんと美憂ちゃんはそれを踊ってください。本来の振りは私が踊ります。二人は後ろで簡単なステップを踏むくらいならできますよね?」

「え、じゃあ理沙ちゃんがセンターなの?」

 美憂も思わず声が出た。

 本来の振り付けでは歌のパートに合わせてセンターの位置は変わるし、最初に割り振ったパートであれば美憂がセンターの位置がメインになるはずだったのだ。

「私だってやりたくてやってるわけじゃないよ。だって美憂ちゃん踊れないんだもん。踊りながら歌うなんて、もっとできないでしょ?」

 言葉に詰まった。確かに、この振り付けで踊りながら歌うなんてとてもじゃないができる芸当ではない。玉乗りしながら鼻で笛を吹いて傘でコマを回せ、と言われている気分だった。

 理沙の正論の前に聖奈も言い返せないようだ。狭いカラオケボックスの中に重い空気が立ち込めていく。

 ああ嫌だと美憂は思った。自分の一番嫌いな状態だ。とにかく怒られたり誰かが大きな声を出すのを聞くのが美憂は大嫌いだった。親に怒られそうになると早々に自分の部屋に戻ったし、学校では保健室やトイレに逃げたし、それ以外はヘッドフォンで耳を塞いだ。

 めんどくさいな。

 無意識にスマホを手にとってツイッターを開く。芸能活動を始めてからというもの、ネット上で自分の名前を検索すること、いわゆるエゴサーチを欠かしたことはない。もっとも美憂レベルのアイドルだと、叩かれたりするほど認知されていないので、毎日見ていても自分に対する書き込みや情報で新しいものなど滅多に見当たらないのだが。一度「海野美憂太ったな」という書き込みを見かけてお菓子を控えたことがあったが、今ではそれすら気にならなくなってきた。


「お待たせしましたあ!」


 ドアが勢い良く開き、大きな声が部屋の中に響いた。

 耳がきいんとする。舌打ちしそうになりながら目をやると、入り口のところに汗まみれの浅尾が、ビニール袋を抱えて息を切らして立っている。

「…なにやってんのあんた」

 聖奈が怪訝そうな表情で聞く。

「いや、ゆみちゃんから相談もらって、僕今日ずっとみなさんの衣装探してたんです!今事務所がこんな状態ですけど、みなさんの晴れ舞台は最後まで応援したいなと思って!」

 そう言って掲げたビニール袋は真っ黄色で思いっきり「ドン・キホーテ」と書いてあった。

「衣装って、ドンキで買ってきたの?」

「はい!なんでもありますよね、ドンキ」

「そういうこと言ってんじゃないんだよ」

 浅尾と聖奈のやりとりはまるで場数を踏んできた漫才師のようだ。

「あと、しまむらでも買ってきましたし…こっちはユニクロです」

 アイドルの衣装ってそういうことだっただろうか、と美憂は自分の認識が間違っているような錯覚に陥った。隣でゆみちゃんは「浅尾くん、ありがとう!」と声を弾ませている。この事務所、今回のことがなかったとしてもそのうち倒れていたはずだ。

 理沙はため息をつきながらも諦めたのか、ビニール袋を物色し始めている。

「…なにこれ?」

 聖奈が取り出したのはピンク色の全身タイツだった。

「いや、これはこういうのも候補に入れといたほうがいいのかなって」

「いいのかなじゃねえよ、着るわけないだろ」

 聖奈が浅尾の脛を蹴り上げた。

「いてっ。そうそう、これこれ!聖奈さんはこれじゃなくっちゃ!」

 全く気にせずにむしろ嬉しそうだ。終わってる。このマネージャーとこのアイドル。だめだ。もう。

 美憂はもうどうにでもなれ、と思ってスマホを再び手に取った。

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