第3話

 約束の時間より珍しく早く着いた美優が、事務所のドアを開けると、ゆみちゃんが目の前に立っていて思わずあとずさりした。


 あのインターネットテレビの生放送の現場で号泣されて以降、連絡は無く(それは美優の仕事をがないということに他ならないのだが)なんとなく会わないままになっていたため、なんとも後味の悪い気まずさが一瞬にして立ち上がるのを美優は感じた。

 しかし、そんな美優の気まずさとは裏腹にゆみちゃんはいつも以上ににこにことした笑顔で美優を迎え入れた。

「あ、ごめんね。遅い時間に」

 そう話す顔はいつも通り疲れてはいるものの、泣いた時のような悲壮感や諦めのようなものとは違う、何か笑いをこらえているような雰囲気を感じるものだった。

 怖い。

 ついに壊れちゃったんだろうか。いや、もしかして、この人もう辞めるからってあたしに適当なドッキリ番組の仕事でも受けてんじゃないだろうな。

 よくある。売れてないアイドルがひっかけられるやつ。未成年である美優を夜九時に事務所に呼び寄せること自体、そもそもやっていいものかどうか美優にはわからなかったが、それが果てし無く「グレー」であることはなんとなくわかった。ただ、美優があることないこと親に言って事務所に怒鳴り込んでくる可能性を恐れているゆみちゃんはそんなことを一切させなかったし、普段から口癖のように「女の子なんだから気をつけなきゃね」と少しでも仕事が遅くなると送り迎えをしてもらっていた。決して大きいとも儲かってるとも思えない事務所でそこまでしてくれていたのは、単にゆみちゃんの優しさだろう。あの社長が自分に金をかけたがっているとは思えない。

 ゆみちゃんが「こっち」と手招きするので、煙草と、その他なんだかわからないすえた匂いのするオフィススペース(ゆみちゃんと、もう一人のマネージャーの浅尾さんがちっこい机を向かい合わせにしているだけ)を抜けて、仰々しく「応接室」と書かれた場所に向かう。

 流石にこのまま流れに任せるのは危険だ。美優の天性のものと言って良い危機回避能力が反応した。

「あの、急になんなんですか」

 歩くのをやめ、声を発した瞬間、ゆみちゃんの目がきゅっと細くなる。

 この人、何か隠してる。嘘をついたり、隠し事をするときのゆみちゃんの生理反応だ。この人、こんなにわかりやすい体でよく生きてこれたな。中学生に簡単に見抜かれるような嘘とか隠し事しか出来ないのに。

「何でもない。中で待ってて」

 最悪の返答だ。何の答えにもなっていない。別に構わない。いくつか検討は付いている。恐らく社長から契約の解除についての話があるのだろう。前日の生放送の件もあるし、そもそも美優は決して使いやすいタレントというわけではななかった。選り好みするほど仕事があったわけではないが、気に入らないことがあればすぐに文句を垂れたし、無断でしょっちゅう髪型を変えたり、現場に行っても愛想良くすることが出来なかった。撮影スタッフであまりにも態度のでかいカメラマンがいた際には「うぜえ」とつい声に出してしまい、ゆみちゃんが謝り倒していたこともあった。

 もしくは、事務所自体を畳む、という話かもしれない。

 JR錦糸町駅から歩いて五分の、ベトナム料理とタイ料理の店に挟まれた雑居ビルの3階。最初にここを訪れる人は大抵がエレベーターを出て入り口が向かいにある学習塾をうちの事務所だと勘違いして訪れる。理由は簡単で、見るからにそちらの方が受付が立派で綺麗だからだ。まさか剥き出しのドアにペラペラの看板一枚ぶら下げている方が、曲がりなりにも芸能事務所だと思う人は少ないだろう。

 

 意を決してノブを握る。プレハブ小屋のように薄っぺらなドアが音もなく開く。ゆっくり視線を上げて行くと、そこには社長ではなく、若い女の子が二人座っていた。

 一人は制服姿で黙々と参考書を片手に問題集のようなものに何やらガリガリ書き込んでおり、もう一人は顔立ちは綺麗だがやたらと化粧が濃い上に肌が荒れている。多分まだ二十代半ばくらいだけど、実年齢プラス五、六歳くらいに見えている。気だるそうに髪をかきあげながらスマートフォンの上で指を恐ろしいスピードで動かし続けている。


 なんだこの人たち。オーディションの人?

 恐る恐る少し離れた場所の椅子に座る。

 二人ともちらりとこちらを見たものの、そのあとは何事もなかったかのようにまた自分の世界に戻って行った。

 なんなの?ドアの閉まる音がして顔を上げる。ゆみちゃんが一緒に部屋に入ったものと思っていたのに、どうやら一人で残らなければいけないらしい。

 制服姿の女の子が問題集に文字を書き込むカリカリという音だけが会議室に響いている。沈黙に耐えきれず、目線を少しだけ上げてけだるい雰囲気の女性を見やった。その顔立ちに既視感を覚え、美優は緊張からか普段より幾分動きの良い頭をフル回転させて思い出した結果、その女性がこの事務所に所属しているタレントの一人であることを思い出した。


 あの人、松下聖奈だ。事務所に始めて来た日、顔合わせで挨拶をした気がする。

 そのまま視線を横に滑らせ、俯いたまま相変わらず問題集をこなし続ける女の子の顔をじっと見つめる。やっぱりそうだ。この子もうちのタレントだ。名前は、確か、そう市橋理沙だ。いい高校に通っているのだと聞いたことがある。頭のいい子がなんでアイドルなんてやるのだろうと思ったのを覚えている。頭がよくて役に立つことなんてこの仕事にあるんだろうか。

 なんで?なんでここにタレントが三人も集められているのだろう。まとめて解雇通告なんてことやるのだろうか。

 自分も含めて売れてないアイドルばかり集めて、他にやることもないだろう。嫌だ、嫌すぎる。せめて別々に言って欲しい。

「バカじゃないのあんた!いいからそのまま続けて探しなさい!見つけるまで帰ってこないでよ!」

 ぺらぺらのドアの向こう側から発情期のピークを迎えたメスのカバのような声が轟き、美優たちはいっせいにびくっと体を震わせた。

 どすんどすんという足音とともにパスンという音とともに紙で出来ているのではないかと思えるほどの頼りないドアが勢いよくはねのけられた。

「おはよう!」

 そこにいたのはメスのカバではなく、ぷりぷりと太ってはいるが美優たちのよく知る人物、この事務所の社長である野々村ののむらルリ子だった。

 珍しく落ち着いた色合いのスーツを着ている。いい言い方をすれば恰幅の良い、悪い言い方をすればデブの社長が着るとスーツが息切れしているに見えるが、太っている割にはやけに小気味好い身のこなしにそれほど鈍重さを感じさせないのが不思議だ。

 知らない人が見れば魚屋の女主人のようにも見える社長はそのままおしりをぷりぷりと振りながら会議室を横断し、三人の正面の席に座った。

「あー頭痛い」

 そう言いながらジャケットの内ポケットからピルケースを取り出し、錠剤を手のひらの上にじゃらじゃら出して、口に放り込む。そのまま錠剤を噛み砕くばりばりという音だけが狭い会議室に響いた。まるでアスピリンのようだが、ただのフリスクだ。美優も時々もらう。

「今日は遅くに集まってもらってごめんね。ちょっと私の都合がつかなくてこの時間にしてもらったの」

 他の二人も動きを止めて社長の方へ視線を向けている。次に何を話そうとしているのか口元を見て予測している感じだ。

 なんだ、さっきの会話。探せ、誰を?見つけるまで帰って来るな? 言葉の言い方からして相手は事務所の人間だ。ゆみちゃんはさっきまでいたのだから、

 多分浅尾の方だろう。一体何が起きているのだ。怖い、いやだ。ただクビにするだけじゃなくて、この事務所は売れないタレントをヤクザにでも売り飛ばすのだろうか。

 いざとなったら警察だ。美優はテーブルの下でスマホをぎゅっと握りしめた。社長が口を半分ほど開いたまま何から話そうかという表情で天井を見つめている。

 やがて、自分なりに台本がまとまったのか、視線が美優たちの方に降りてきた。

 いよいよ来る。美優が短いなりの自分のアイドル人生を振り返り始めた時、社長が口を開いた。

「三人でね、グループ作ろうと思って」

 時が止まったようだった。

 美優は頭の真ん中をダルマ落としのようにすこんと撃ち抜かれたような気分になったまま、ぽかんと口を開けた。グループ?

 そのまま視線を聖奈と理沙の方へ移す。二人とも同じ表情をしていた。額の真ん中を見えない銃弾で打ち抜かれ、自分が死んだのにも気がついていない人のようだった。

「えーと、そうよね。あんまり時間がないから簡単に説明するけどね。デビューがね、決まってるの。来週埼玉のショッピングモールでデビューイベントやります」

 そういうと小さく折り畳んだ紙を一番社長に近い位置に座っていた美優に渡してきた。

 雑な作りのカラーコピーでそこには「本日デビュー注目のアイドル!◯◯◯◯◯がやって来る!会いに行けるアイドルを超えた会いに来るアイドルです!」というコピーとともに何者かのシルエットが書かれている。◯◯◯◯◯のところには赤ペンで線が引いてあり、その線の先に「名称未定。公募?」とおそらく社長の字で書かれている。

 適当すぎる。会いに来るアイドルってなんだ。

 そのときそのカラーコピーを横から覗き込んでいた理沙がようやく第一声を出した。

「あの、私たち三人で、何をやるんですか」

 さすが優等生だ。美優は次から次へと入って来る新情報に脳の処理が追いつかず混乱の波に溺れかけていたが、理沙は既に何をすべきか考えている。見直した。

「もちろん、アイドルだからね。歌って踊って、エンターテイメントよ。これ、デビュー曲」

 いつのまにか取り出したCDを机の上に置きながら社長は言った。真っ白なCDRの表面にはサインペンで「デモ」とだけ書かれている。

「ハメられた…」

 振り返ると聖奈が大きなため息をついて頭を左右に振っていた。

「みんな今までバラバラで活動してたからお互いのことあんまり知らないと思うし、大変だと思うけど、これ、チャンスだから。ね」

 社長が次第に右手の人差し指で親指の腹をさすり始めた。落ち着きをなくしたときの癖だ。やはりこの話は何かがおかしい。

「あのう」

 美優は思い切って声を出してみた。が、思った以上にその声は小さく「ひゅう」という空気が漏れたに過ぎなかった。

「なんでこんな子供と」

 聖奈がぶつぶつと言っている言葉が耳に入る。

 はあ?なんだとババア。

 思わず口にしそうになって慌てて下唇を噛む。理沙を見ると何やら目を閉じて瞑想のような状態に入っている。なんなんだ。本当にこの人たちはなんなんだ。

「あのう」

 意を決して再度美優は声を出した。社長の目がぎろりと動く。その血走った目にひるみそうになりつつも懸命に声を押し出す。

「私、いやなんですけど…」

 忙しなく動いていた社長の指がぴたっと止まる。

 怒鳴られる!

 社長が立ち上がり、美優が思わず身を固くした瞬間

「ごめんなさい!」

 どすん!という大きな音とともに社長の姿が見えなくなった。

 倒れた?

 思わず美優が立ち上がると、視線の先に四つん這いになった社長が見えた。いや、四つん這いのように見えたのは、社長なりの土下座の姿勢だ。

「あなたたちには悪いと思ってる!けど時間がないの。お願い、お願いだから頼み聞いて!一生のお願い!絶対借りは返すから!!」

 ひときわ大きな社長の声が響き渡ると、そのあと会議室は静まり返った。

 誰もしゃべらなかった。というか、しゃべれなかった。


「やっぱりやめときゃよかった」

 聖奈が小さく呟く声が聞こえた。

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