第2話

「梅干し抜きで」

 髪の毛を鮮やかな紫色に染めた上品な老婦人がレジにいる理紗にそう告げる。バイトとパートさんの間では有名な「マダム銀巴里」だ。一度この老婦人が財布を店内で落として行ったときがあり、身分確認のために内容を確認したら中に「バーバー 銀巴里」という美容院のメンバーズカードが出てきたためにそれ以降あだ名が「銀巴里」になったのだった。

 理沙が容器の中に炊飯ジャーからご飯をよそい、いつもの癖で梅干しに手を伸ばしかけたところでああ銀巴里だったと思い返し、手を止めたところで有線から聞き覚えのある音楽が流れ始めた。


 今年に入ってから急激に人気を集め始め、年末にはアリーナツアーも決まったという五人組のアイドルグループ「ユア☆フェアリー」の新曲だ。CD一枚につきメンバーと一回握手できる握手券が封入されていることもあり、その売り上げ枚数は一週目で五十万枚を超えるだろうと言われていた。「握手券商法」とも呼ばれるこうしたアイドルCDの売り方には賛否があるようだったが、握手券を付けようが付けまいが売れないものは売れないのだから、それが売れるということはすなわち人気があるということなのだろうと理沙は素直に思っていた。現に自分はCDこそ出していないものの、純粋に握手をするだけでも人が集まらなくて困った経験があるのだ。


 理紗がこの弁当屋をバイト先に選んだのには二つの理由がある。一つは仕事の間中衛生上の観点から装着が義務付けられているマスクを付けっ放しでいられるため、顔を人に見られずに済むこと。そしてもう一つが一緒に働くアルバイトやパートのメンバーが、十代の女性アイドルなんかには興味のかけらすらない五十アッパーの中年女性揃いであったということ。

 無名のアイドルと言え、子役時代も含めるとテレビへの出演経験もある理紗にしてみれば、極力自分の存在を知らない人たちと仕事をしたかった。アイドル稼業と学業だけで精一杯の中、それでも自分で働く実感を得たいと考えて始めたアルバイトだ。両親にはこれも社会勉強になるから、となんとか説き伏せたものの、その程度のお金ならお小遣いであげるのに、と最後まで母親は首を傾げていた。


「ねえねえ。この人たち知ってる?」

 黙々と容器におかずを詰め込んでいた理紗に向かってパートのかずみさんが話しかけてきた。かずみさんは今年で五十五になるベテランで、理沙の母親よりも十歳年上だ。決して悪い人ではないが、おしゃべり好きで、客が来ていても平気で雑談を続ける。時々は邪魔臭いからと言ってマスクを取ったまま話を続けることもあり、その際には一度理沙も控えめながら注意をしたことがあった。

「この曲の人たちですか?」

 恐らくかずみさんの言う「この人」というのは有線で流れている曲を歌っている人のことを指しているのだろうと見当を付けて話を合わせる。

「そうそう、なんだっけね、ゆえ、ゆあ、ふぇあなんとか」

「ユアフェアリー」

「そうそうそう。なんだか頭の悪そうな喋り方のねえ」

 理沙の中でその言葉が小さく引っかかる。

「この間たまたま見てた音楽番組にゲストかなんかで出てたんだけど、簡単な常識問題にも全然答えられないんだからねえ」

 ああいうのは全部台本なんです、わかっててもアイドルは頭がいいなんて知られて得なことなんてないんです。

 理沙の脳内に瞬間的に言葉が浮かぶが、すぐに打ち消して「へー」と相槌を打つ。基本的にかずみさんは喋りたいだけなので、身のある返答などは求めていない。

「でさあ、歌もなんかへーんなヤツ歌っててさ、下手くそなの。わざとやってんのかと思っちゃった。あんなに下手なら口パクにすればいいのにねえ」

 口パクするとすぐにネット上でファンに叩かれるんです。下手でも生歌の方が評価されるんです。

「それに短いスカート履いちゃってさ。あれじゃあパンツ見えちゃうんじゃないのっていう。でもそういうの楽しみにして男の人たちが見に来るんだってね。オタクっていうの?」

 別にパンツを見せるための衣装じゃありません。かわいく見せるためには短いスカートだって履くし、ファンはみんなオタクでもないし、オタクだからファンになっちゃいけないなんてこともありません。

 聖奈の頭の中ではかずみさんに対する意見が次々と湧いて出てきていたが、それらを口にすることは出来なかった。

「あんな格好してね。恥ずかしくないのかね、自分も親も」

 そう言い残してかずみさんは油からの引き揚げ時間を知らせるタイマーを止めにフライ揚げ場の方へ戻って行った。


 悔しかった。

 その感情自体に理沙は自分でも驚いていた。

 あれだけ馬鹿にしていたアイドルという仕事について、なぜこれほどまで自分が憤りを感じるのか、その気持ちを自分でうまく説明することが出来なかった。ただ、一つわかったことがある。

 自分は、自分もアイドルなんだ。

 おかずを詰め終わった容器を閉じ、輪ゴムを止めてビニール袋に入れる。

「サバ味噌弁当、梅干し抜きでお待ちのお客様」

 レジからそう呼びかけると銀巴里がよろよろとこちらへ向かってくる。

「ありがとうございました」

 と言って手渡そうとすると銀巴里が理沙の顔を見て「あら、あなた…」と言いかける。バレたか。まずい、という思いと、それと同時に自分のことを知ってくれている人がいる、という喜びが同時に湧き上がってきたが銀巴里は「先週もいたわよね」と穏やかに言い放った。いっきに脱力した理沙は「はい、毎週金曜日はおります」と力なく答えた。

 微笑みながら出口へ向かう銀巴里を見送っていると、その背後から見覚えのある顔が見えた。マネージャーの浅尾さんだ。普段からあまり表情の乏しい人ではあるが、今日は輪をかけて顔が暗い。そのまま店内に入ってくるなりまっすぐレジやってきた、そのまま理沙の前に立った。

「どうしたんですか、いきなり」

 かずみさんを気にして小さめの声でそう問いかける。浅尾はぎゅっと閉じていた口を開くと、言った。

「本日の夜、一度事務所に寄っていただくことは可能ですか?」

 浅尾が直接やってきてこんなことを言い出すのは珍しい。思いつめたような表情と言い、ただならぬ気配を理沙は感じ取った。

「バイト終わってからになるんで、九時頃になりますけど…」

「いいです。待ってます。お店出る時連絡ください」

 そう言い残すとくるりと振り返ってそのまま店から出て行った。狐につままれた、という表現をぼんやり思い出しながら、理沙は背後から「ねえねえ今の人だあれ?」というかずみさんの声を聞いていた。

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