第36話 【二度目の春】

 ―――現在・キュプラモニウム施設内。


 十二月に氷峰の自殺未遂があってから、蔀は暫く彼から距離を置いていた。

 自殺を止めた八束から一本の電話があったが、彼の話す様子だと、氷峰は亜結樹と無事に過ごしているのだろう。氷峰とはそれ以後一切連絡がないままだった。蔀も無論していなかった。


 今日もいつも通り仕事がある。研究室のモニターを眺めていた所、ドアの開閉する音がした。


「あ、おはよ~蔀君」


 そうにこにこしながら話しかけきたのは陵だった。たった今、挨拶してきたこの男は、あの時海鳴に怒鳴った形相とは大違いだ。ただ彼も……――。


「……」


 蔀は目を合わせずにその場を通り過ぎる。


「何だよ……あいつ……」


 蔀とすれ違いざまに陵は、蔀に聞こえないようにぼそッと呟いた。

 ただ彼も怒鳴った海鳴に似ていた……。陵は呟きながら頭を掻いた。


 先輩に挨拶しないのは失礼だと心の中では思っていた。陵は「禁忌のクローン――海鳴」を産み出してしまった。それがもし本当なら、もうこの組織はおしまいだ。蔀は彼の暴走を止めるべきだと思った。彼の態度に愛想よくしていられなかった。


 この施設はもうじき終わると蔀は思っていた。

 海鳴の秘密を戸室から聞いた蔀は、頭を悩ませており、海鳴の秘密を知ってしまった頃から、いつの間にか組織の中で活動する自分自身を問い質そうとしていた。海鳴と一緒に行動した時に考えていたことが、彼には理解してもらえただろうか。海鳴自身、陵を問い詰めた時の彼の立ち振る舞いは陵そのものだった。しかし初めてクローンである海鳴が陵に相反したようにも思えた。蔀はこの先、海鳴が海鳴自身の秘密を知ってしまった時のことを怖れていた。


 ――それより……今日は特別なのか。


 思い悩んでいると、とある一室で会話が聞こえた。蔀は隣の部屋は使われていなかった筈だと思いながら、自分のいる研究室に繋がっていたその扉を眺めていた。総務の人達が会議する声が聞こえた。


「あー死亡届が出ない遺体なんてもう出てこないんじゃないか? 独り身ならともかく」

「死後クローンになりたいっていう人も、たったこれだけだ。ていうかこの呼び方も変だと思ってんだけど俺」

「世間も違和感を感じ始めてるんですよ、僕らのしてることに……」

「さすがに死体の記憶までは蘇らないですからねぇ」

「でも、俺は大切な人の体や顔立ちに、もう一度会いたいという気持ちはあるけどな」

「いやいや、麻痺してますね。我々は……生命倫理に対して……」

「こら、ここに勤めている以上、そういう言葉は禁句だぞ」

「はい、すみません」


 一室で、戸室が一喝する声がした。

 蔀はふと、海鳴が陵に言い放っていた言葉を思い出す。


 ――「クローンの運命なんて、俺たちが最後でいい!」


 蔀は世間で暮らしている遺体と合成されたクローンと違った海鳴を、特別視していた。

 海鳴とは今まで過去に会話をする機会が少なかった。このあいだ、初めて二人で陵さんの化けの皮を剥いだとき、海鳴は一個人の感情を持ったんだと、蔀はその場で感じた。亜結樹や允桧の様な畏怖クローン――イフや、更には世間で暮らしている遺体と縫合されたクローンとも区別され、孤独を感じているであろう海鳴を、蔀は今まで彼の気持ちを考えないまま、三年前に弟の八束に引き渡した。

 そのときの海鳴は、実に人間に従順なクローンだった。だが今は陵莞爾というあの男の感情を超えたような気がした。

 一個人の感情を持ったクローンになりうる存在であり、孤高の……何だろうか。


 ――何故三年前、陵さんは俺が海鳴を連れて行くことを許可したのだろうか。


 そう考えていると横から俺を呼ぶ声がした。


「あの……柊さん」

「ん?」


 声をかけてきたのは速水だった。


「陵さんと何かありました?」

「いや、大したことじゃ……ないと思うが……」


 言葉に間があった。その言葉に速水は疑問を持たずにそのまま受け流し、続けて――、

「ちょっと相談したいことがあるんですけど……屋上へ一緒に来ていただけませんか?」

 と蔀にお願いした。


「ああ……」


 そう言われた蔀は、何の躊躇いもなく速水の言葉を受け入れた。


 もうすぐ春が来る時期だというのに、蔀はまだ極寒の地に置き去りにされたような感覚でいた。

 陵の態度もさることながら、本当はそろそろ氷峰弓弦に連絡を取りたいとも考えていたのだが、蔀は組織の存続にとらわれていたり、海鳴の性格が陵と相反そうはんしていることに、不安をあおられていた。


 二人は屋上へと歩いて行った。歩いているあいだ、お互いになにも会話をせずに無言が続いていた。


 ***   


「風が強いな……春一番か?」

「そうですね……」


 だが互いに、吹く風が心地好いと思っていた。


「話ってのは何だ?」

「……私、不思議に思うんです」

「?」

「この施設で身体が遺体から蘇った人間が、再び日常を過ごしていること――私達、人間が彼らの存在を疑問視しないで過ごしていること。それなのに愛されなかったクローンがいたこと……それは――」


 速水が何か言いかけた時、蔀が――、

「畏怖クローンの存在か……」

 彼女の言葉を補った。


「そうです。私この前……いつだったかな。司秋さんがまだ元気だった頃に、陵さんに呼び出されて、允桧っていう名前の畏怖クローンの子のこと話してくれたんです」

「そうか……」

「畏怖クローンと名付けられたのは彼が初めてで、彼の存在は公表されなかったみたいだけど、自殺したって聞いて……考えて見たんです。可哀想だと思った事が一つだけ……」

「……」


 蔀は足元に視線を落とし、俯いた。


「多分、誰も彼を愛さなかった。いや、愛せなかったのかもしれない……と」

「……」


 蔀は紫苑のその言葉に、昔の自分を重ね合わせた。自分も高校生だった頃、同じ様に允桧に接していたかもしれないと悟った。


「速水……。ひとつ聞いていいか?」

「なんでしょうか?」

「今、生きてる亜結樹のことはどう思ってるんだ?」

「その質問は、研究の一見ですか? それともプライベートとしてですか?」

「どっちでもいい。……いや、どっちでもある」


 蔀が焦った様子で返事をしたので、速水は微笑みながら素直に答えた。


「彼女……と呼ぶべきか、あの子は生理的に男性の体を持ってますから、最初は女性として接しますけど……できます」

「……何で両性を使い分ける。いや言い方が悪いが……」


 蔀の目は真剣だった。


「え……それは……彼女が――」


 紫苑は慎重に言葉を選んだ。


「――男としても、女としても『魅力』を感じるからです」

「……魅力……か」


 蔀は微笑みながら、紫苑の言葉を小さく呟いた。


「あ、ですが、魅力だけじゃないかと……。そうですね……蔀さんが育ての親だとして、私は亜結樹自身のことを可哀想だとか考えたくないんですよ。だからその……つまり……」


 速水は自分の考えが纏まらず、もどかしい感じで話していた。片手で髪を触りながら落ち着かない様子で言葉を詰まらせてしまった。それを見た蔀は――


「ずっと前に、俺があの子をアセクシャルに育てたことが引っかかってるのか?」


 風を捉えて翻る白衣を、ポケットで押さえ込みながら伝えた。

 速水は蔀の言葉の意味を理解したかった。

 蔀が吐いた言葉とそれを伝えた表情を見て、単なる冷徹な眼差しではないことを速水は感じ取っていた。


「そういう難しいことを訊いているわけじゃないでんですよ。その、ですね……」


 屋上の金網から正門前の桜の木々を眺めながら、速水はこう言った。


「貴方は本当は優しい眼差しをしてますよ……。だから亜結樹も――あの子もきっと優しい……。そう思います」

「……そうか」


 ――俺が優しい? 自覚なかったな……なにかの間違いだ。


 蔀は疑心暗鬼になり、思わず空を見上げてしまった。

 そんな彼の姿を速水は偶然見られなかったのだが、二人が近づくのはもう少し先の話になりそうだ。


 速水は蔀の内情を知りたいと密かに思っていた。研究室で二人きりになった時に交わした些細な会話が、彼女にとってはとても気分の高まる出来事だった。蔀が組織に入ったのを大学の後輩から知ると、彼の後を追いかけるように組織に入ることを希望した。速水は蔀に恋心を抱いていた。蔀に話しかけるきっかけがあるとするなら、組織の事柄――もしくは亜結樹や允桧や海鳴のことだと、気づき始めたのは最近になってだった。


「そろそろ休憩時間になるな」

「屋上にいたことは陵さんには内緒ですよ」

「体調不良で外の空気が吸いたくてここへ来た……って言い訳にならないな」

「どうですかね。あの人会長代理で忙しいですからね。そっとしておきましょ」


 速水と蔀は屋上での一時の会話を互いに「忘れないでいよう」と約束を交わした。

 二人は屋上から食堂へと向かった。移動中はやはり会話が無かった。



 ―――同時刻・学校。


 いつもと変わらない様子で、亜結樹は登校を続けていた。海鳴は相変わらず亜結樹と一緒に昼食を摂り、亜結樹と話すのが楽しい雰囲気だった。会話の中で、亜結樹から氷峰の様子も少しだけだが、聞き続けていた。海鳴は陵との一件があってから、しばらく施設に顔を出しておらず、八束との関係性も平坦なままだった。彼は学校では鬱々とした様子は顔に出さないようになってきたのだが、最近は蔀の言い放った言葉が気になり、いつか亜結樹にも話しておこうと目論んでいた。


 ――『キュプラモニウムの存続についてだ』


 蔀の言葉が頭を過ぎった。


「海鳴、聞いてる?」

「あぁ、ごめん。何だっけ?」

「ミネ、今は普通に仕事にも行ってるし、元気だよ。それと……」


 亜結樹は氷峰の様子を心配しているのは自分達だけじゃないと付け加えた。


「蔀さんも、か……」

「うん……」

「なぁ、亜結樹。キュプラモニウムのことで話そうと思ってることがあんだけど――」

「……何?」


 亜結樹が相槌を打った途端――海鳴がこれから話そうと思った矢先に、チャイムが鳴ってしまった。


「あー……帰りでいっか」

「えー、内容気になってこれからの授業頭に入らないかもしれない……」


 亜結樹はその場で肩を落とした。海鳴も「ごめん」と手を合わせて自分の席へと座った。


 ***


 帰り道、亜結樹と海鳴は途中まで一緒に同じ道を進んでいた。


 ――海鳴が話したかったことって何だろう?


「蔀さんが言ってたことなんだけどさ……将来、俺たちの生まれた施設無くなるかもしれない」

「えっ? 急だね……蔀さんと何かあったの?」

「いや、組織を解散させたいって話をしてたんだ。理由はよくわからないけど……多分、俺たちのことが関係してる」


 ――特に、亜結樹の出生の秘密とかじゃないかな……。

 ――イフの話や允桧の話や……。

 ――俺も関係しているのかもしれないな……。


「あっ……じゃあ、陵さんにも話をしたの? その事……」

「うん。言ってやったよ。俺たちが最後でいいってな……そしたらあの人血相変えて怒鳴ってきた」

「それで……どうなったの?」

「亜結樹から渡されたナイフを返して終わり。あの人には俺の言葉なんか響いてなかったかもな」

「そうなのかな……」


 亜結樹は眉を顰めた。なにか思い当たることがあった様に返事をした。


「え?」

 海鳴は怪訝そうな顔をして――、

「やっぱ、俺が一番の原因?」

 そう言った。亜結樹の返事はいつも心の隅を突いてくる感じがして、海鳴ははっとさせられる。


「だって陵さんの分身なのに、初めて陵さんに……ナイフだけに」


 亜結樹は海鳴にわかりやすく、少しだけ可笑しくその言葉を伝えた。


「あー……あははっ」


 亜結樹の予想した通り、海鳴は笑みを零してくれた。亜結樹が言い放ったその言葉の持つ意味は「海鳴が陵の人格を超えた一個人の感情を持った」という蔀の説のことであった。


「ねぇ、海鳴」

「何?」

「あたしたちに、組織を解散させる力ってあるのかな……」

「んーどうだろうなぁ……。あるとしたら、俺たちのパートナーにもあるんじゃねぇの」

「そうだといいね」


 二人は歩きながら自分たちの生まれ育った施設とさよならをするかもしれない――そんな危機的状況を、いつもと変わらない様子で会話していた。ひょっとしたら自分たち以外の力も必要だと話していた。もうすぐ双方に分かれる道で、二人は別れる。

 分かれ道のもう一歩手前の所で、海鳴は立ち止まって「じゃーな」と亜結樹に言った。



 ―――夕方・氷峰宅。


 氷峰は仕事を終えた後、同僚とこれから飲みに行く約束があった。そのことを前もって亜結樹に連絡していなかった気がして、居酒屋へ向かう足を止めた。先に行っててくれと、同僚に伝えるとすぐさま携帯電話を取り出し、八束に電話を掛けた。電話に出てくれるかどうか不安はあったものの、今の彼なら海鳴と亜結樹の対応に、少しは躍起やっきになってくれると氷峰は信じていた。


「今、頼れんの、アイツだけだしな……」

 ――『もしもし? どーした?』

「あー一つ頼みたいことがあってさ……」

 ――『なに?』

「俺これから送別会あるから、海鳴に亜結樹を迎えに行ってもらいたくてさ……お前から海鳴に伝えてくんねーかな。亜結樹を一人にしておくの悪ぃ気がして、三人で晩飯食べといてくれると助かるんだけど」

 ――『海鳴に直接言えばいいのに何で俺に? あ……俺もこれから夜バイトなんだけど?』

「いや、あいつは俺よりお前の方が信じると思うし……。ていうか、お前仕事始めたんだ……」


 電話越しに深いため息をつく声がした。


 ――『別にそれはどーでもいいんだよ。お前ぇさ、俺や海鳴に頼る前にちゃんと話しておく相手がいんじゃねぇの?』


 八束の珍しく的を射た相槌に、氷峰は息を呑んだ。そのまま数秒間、無言になってしまう。


「そーだなぁ……じゃぁ、蔀によろしく」

 ――『おい、お前から頼めばいいじゃねぇかよ』

「今、アイツとは距離を置きてぇんだ」

 ――『は? 何で?』

「まぁいいから、お前そいつの弟だろ? 亜結樹と海鳴連れてしとむ行ってくれよ……頼む!」


 氷峰はそろそろ同僚を待たせると申し訳ないと思い、そう一言強く懇願すると一方的に電話を切った。


 ――『あ、ちょっ……おい――』


 八束の返事をを聞く間も無く、通話は終わった。

 氷峰は足早に、同僚の待っている居酒屋へと向かった。



 ―――同時刻・柊八束宅。


 八束は通知音が切れたスマートフォンを、耳から離して手を下ろした。電話越しに聞こえていた声色が今までよりも清々しかった。あの日から――八束が氷峰の家を訪れてから氷峰は変わってきたような気がしてしまった。八束は氷峰と再び体を交えたことを、少なからず後悔していた。最初は大した不安じゃないと思っていたが、兄である蔀を通じて氷峰が亜結樹との関係に悩んでいるとしたら、その悩みに少しでも答えて協力してやりたいとも思っていた。しかしながら、八束は蔀の力を超えることはできないと感じていたし、最終的には蔀を頼って欲しいと思っていた。


 八束の心の中でも「今は昔の自分とは違うだろう」という憶測が芽生え始めている。氷峰の家を訪問して初めて亜結樹と対面した時に感じた――。その感情はもう干乾いて砂と化したのかもしれないと、ふと思い至った。そういう気持ちにさせたのは、亜結樹だった。

 亜結樹と氷峰がどう付き合おうが、今の八束には関係ないのかもしれない。ただ「海鳴が亜結樹とどうなりたいのか」については否が応でも口を挟みたくなる。仮に海鳴が八束の元を離れることがあるとしたら――。


「ただいまー」


 八束は真っ暗な画面のスマートフォンをぼんやり眺めていると、海鳴の声が玄関から聞こえた。


「……おう、お、おかえり」


 先程の氷峰からの電話の用件を伝えなければいけないし、仕事へ行く身支度を済まさなければならない。八束は落ち着かない様子で、海鳴に言った。


「あれ、その制服どうしたの?」


 海鳴は八束の見慣れない格好にきょとんとする。八束は面倒臭そうに――

「今日から俺、これからバイトなんだよ」

 と言った。海鳴は目を丸くしながら――

「え? 八束、バイト始めたの?」

 と言うと、八束は揶揄からかわれた様な気がして、頭を掻いた。


「しちゃ悪ぃかよ。んなことはどーでもよくて――」


 身支度を進めながら氷峰から頼まれたことを話した。


「あー今日、ミネが送別会があるっつって、俺も夜家に居ねぇから、亜結樹連れて兄貴ん行けよ」

「あ、そうなんだ。わ、わかった!」

「じゃーな。帰りは明日の朝になっから」


 海鳴は然りげ無くすぐ返事を交わした。八束は慌ただしく、玄関の戸を開けて出て行った。

 海鳴は勘が働いた。八束の口から蔀の名前が出てくるのは、絶対八束の考えではないと思った。


 ――さっきミネさんと電話してたんだな……。


「さてと……俺も着替えて亜結樹ん所に行くか……」


 海鳴は亜結樹を迎えに行くと、彼女を連れて蔀の家へと向かった。




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