第35話 【他人事の戯言 -3-】
―――二年前・春・キュプラモニウム施設内。
まだ組織に入って間もない頃だった。蔀は重大なミスを冒してしまった。
彼は施設で「亜結樹」を生み出してしまった。
大きなメスシリンダーの様な容器の中で、目を覚ました彼女は、虚ろげに視線を蔀に向けた。
蔀は瞬いた彼女の瞳と、ほんの束の間目が合った。隣にいた陵が指示を仰いでくる。
彼は再生された肉体に視線を移すと、絶句した。
「――っ!? 何で胸部が……女性の体をしているんだ……?」
亜結樹の肉体は、上半身は女性、下半身は男性の形をしていた。
――確か男性型のDNAを組み替えたはずなのに……。俺が間違えたのか?
「あの子の意識が回復したら、容器の水を抜いて……って聞いてるのか、おい!」
「陵さん……俺が……俺が、間違えたのかもしれません!」
陵の指示は、蔀の耳には届いていなかった。彼は亜結樹の姿に、ただ呆然としていた。作業に集中することができなくなった。自分がもしかしたら水溶液に入れたDNAを組み間違えたのだと思い、
「俺が――っ!?」
「落ち着け! あの子の名前は、お前が決めるんだ!」
蔀は陵に両肩を揺さぶられて、命令を下した。
蔀はふと我に帰り、崇高な眼差しで、彼を――彼女を見つめ直した。
「あの子の名前は――」
水溶液をずべて抜き、水中に浮いていた亜結樹の身体は地に降りた。蔀が容器の扉を開けると、亜結樹は空気を口から体内に取り込み、呼吸をした。蔀は彼女の裸体をバスタオルで
「君の名前は、亜結樹だ」
「あ……ゆ……き」
亜結樹は蔀の言葉をちゃんと耳にして、復唱した。
亜結樹にそう話しかけると、陵はどこか頭を悩ませている様だった。
「その子の世話は、お前に任せるとしよう。施設にいる間は君がちゃんと管理しろよ。いいな?」
「……はい」
この頃から、陵のある計画が始まっていたとしても、蔀は何も知らないまま亜結樹を生み出した。
彼女が施設にいる間、蔀は彼女自身が性に対して、何も疑問を持たない様に彼女を教育していた。
亜結樹と名付けられたその子は允桧に次いで第二の畏怖クローンとなった。
蔀と亜結樹の出会いの始まりであった。
施設での陵の指示は絶対だった。彼は允桧がいた頃から、蔀に対して疑問を投げかけたことがあった。その疑問は、蔀自身が思い悩んでいたことに他ならない。
ある日、陵は廊下で自分の部屋の場所を探す亜結樹とすれ違った。
彼は亜結樹に対しては無反応でいた。関心がないわけではない。ただ、心の中で
亜結樹が陵の白衣の裾を引っ張る仕草をする。すると陵は足を止めて、白衣を翻した。白衣の裾を掴んでいた亜結樹の手を、何も言わずに勢いよく
「……」
亜結樹はその様子に怯えることなく、ただその場に立ち尽くしていた。
――話しかけて欲しくなかった……のかな。
亜結樹を探してうろうろしていた蔀が、彼女を見つけて声をかけると――
「先生、さっきのあの人は……誰?」
「あの人は、陵莞爾。俺の上司だ。感じ悪いから近づくな……お前は関わらなくていい人物だ」
「そっか。わかった。……あ!」
「どうした?」
亜結樹は自分の髪に触れると、何となく陰鬱な表情を浮かべた。
「先生、私お外出たいな……ダメ?」
「悪いな……外へには出られないんだ。すまない……」
蔀は「部屋へ戻ろう」と付け加えて、亜結樹の背中に手を添えながら歩みを進めた。
亜結樹は施設の窓の向こう側にある桜の木々を見つめながら、残念そうに――
「お花見もできないのかぁ……」
と呟いた。
蔀は亜結樹を部屋へ連れ戻すと、何か思いついたかの様に顔を上げた。
「どうしたの先生?」
「亜結樹……春になるし、髪を切ろうか」
「……」
蔀にそう言われた亜結樹は、再び自分の髪に触れた。
返事をしなかった亜結樹に、蔀は自分の意見を肯定し難いことに悩んでいた。
「嫌……か?」
「……ううん。いいよ」
亜結樹は優しい返事をした。ぎこちない二人のやりとりだった。
彼はなぜ亜結樹の髪を切ろうと思ったのか、その答えは彼自身しか知り得ない。
速水紫苑――彼女がキュプラモニウムに来るまでは……。
蔀は亜結樹の部屋とは別に、空き部屋を借りて亜結樹の髪を切った。
「亜結樹……気に入らなかったら、怒ってもいいんだぞ?」
「……ううん。いいよ、このヘアスタイルで」
「そ、そうか……」
亜結樹の髪を切りながら、蔀は恐る恐る口にした。もしかしたら自分の理想の姿を押し付けているかもしれないと思った。蔀は亜結樹の髪を切り終えると、一言付け加えた。
「まぁ、見た目が全てではない……からな」
――これは、俺のエゴかもしれないな……。
亜結樹は施設内のシャワー室へ向かった。蔀には一言断っていたので部屋を後にする。切りたてのちくちくする髪に触れると、今まで悩んでいなかった感情が引き起こされた。
――私は……あたしは……俺は、男なのかな? 女なのかな?
自分の身体のことを、何も理解していないわけではなかった。この感情は見た目から引き起こされたものなのかどうか、一人で鏡に映る己の姿を見て、ふと思い止まっただけのことだった。
亜結樹が、氷峰弓弦に出逢うまでの間の、ほんの些細な出来事であった。
―――三年前・某大学校舎内。
三年前の冬のある日のことだった。氷峰はニッカを
「「あ」」
エレベーターで最上階の足場へと向かう最中、幼馴染と偶然会ってしまった。
二人しか乗っていなかったエレベーターの中で平素な会話は始まる。
「お前、ここの大学だったんだ」
「仕事中だろ。私語厳禁だろ」
「冷てぇこと言うなって。なぁ――」
氷峰は最上階のボタンを押しながら、隣にいた蔀の顔を見ずに――
「アイツ……ちゃんと高校卒業したのか?」
そう言った。蔀は氷峰が八束と
「八束のことか……。あぁ、卒業したよ……」
ため息を交えながら、蔀は無表情のまま返事をした。
「今、一緒に居るんだよな?」
「……俺が組織に入ったら、すぐ出て行って貰うつもりだ。司秋さんにお願いする」
「相変わらず弟に冷てぇな、お前」
「ただ、血の繋がりがあるだけでいい。……精神的な付き合いは鬱陶しいんだよ」
蔀は腕に抱えたファイルを眺めながら、再びため息をついて答えた。
氷峰はそんな彼の様子を見て――
「恋人できねーぞ」
真面目に返事をした彼を茶化すように言った。無表情の蔀の顔を
「余計なお世話だ」
そう言って氷峰の冗談を真に受けていた。最上階に向かうエレベーターは途中で止まった。
蔀がエレベーターから降りて、扉が閉まった。エレベーター内に一人だけになった氷峰は、蔀に冗談が通じなかったことにがっかりした。「はぁー」と長いため息と共に、握りしめていたヘルメットを被った。最上階に止まったエレベーターの外へ出ると、足場を組んでいた同僚と合流する。彼はさっきまでの会話から頭を切り替え、仕事に取り掛かった。
外に出て真下の地上を見下ろすと、また気が散ってしまう視線が見えてしまった。
――あれ、あそこに居る奴……?
遠目に目を細めて、校舎の一角のベンチに焦点を合わせた。ベンチに座って軽食を摂っていた彼女の姿に見覚えがあった。昔から変わらない髪型と髪色だったので、ストーカーだと思われても仕方がなかったのだが、氷峰は予感がした。
――まさかな……。蔀と同じ所に通ってたんだな……。
――追いかけるつもりはねぇけど、こんな偶然……あるんだな。
彼女の姿は、中学時代の一年上の先輩――速水紫苑であることに間違いなかった。
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